アルタイルがホグワーツに入学する三年前の夏だった。その日は家庭教師による授業が急に休みになり、部屋には子供たちしかいなかった。大人しくフランス語の教科書を広げて自習しているのはアルタイルとレギュラスで、シリウスは行儀悪く椅子を後ろに傾けて座っていた。
「じいさん、ずっと休みだったらいいのにな」
「こら、シリウス。先生のことをそんな風に言うな」
アルタイルがたしなめたが、シリウスは軽く肩をすくめただけで反省の色はなかった。
「なあ、遊びに行こうぜ。マグルの街に行ってみないか」
「ダメだよ。マグルの街なんて穢らわしいって母様が言ってた」
「意気地なし。怖いんだろ、レギュラス」
「違う! 怖いわけないだろ!」
「そうだ。怖いっていう問題じゃない。マグルの街に行くなんて馬鹿のすることだ」
「ふん。いいよ、俺だけで行ってくるから」
シリウスが椅子から飛び降りた。着地の音が毛の長い柔らかな絨毯に吸い込まれる。ドアに向けて真っ直ぐに駆け出して、乱暴にドアを開けた。
「待て、シリウス!」
「本当に行くの!?」
アルタイルとレギュラスは一瞬顔を見合わせた。シリウスならやる。これで屋敷のどこかに隠れて慌てる2人を眺めるようなことは――そういう悪戯もするけれどマグルの街というもっと面白いことがあるのだから――するわけがない。2人とも教科書を放り出して、後を追いかけた。
アルタイルたちが廊下に出ると、シリウスは階段の手すりの上にしがみついて滑り降りているところだった。アルタイルとレギュラスが階段を駆け下りて下に着く頃には、シリウスは玄関にたどり着いている。
1階では苺を煮込む甘酸っぱい香りが漂っていた。クリーチャーがジャムを作っているのだろう。広い邸だから子供の小さな足音は台所にも父がこもっている書斎にも届かない。母は友人とのお茶会に出かけていた。
玄関の大きくて重い扉を、シリウスが体当たりするように体全部を使って押し開けた。やっとのことでできた隙間から外に飛び出す。扉が閉まりきる前にアルタイルが押さえ、レギュラスを通してから、自分も外に出た。
「シリウス、見つかる前に早く帰るよ」
「大丈夫だって。おやつの時間までに戻ればバレないだろ」
シリウスは辺りを見回しながら、大きな道に入っていった。目に見えるもの全てが新鮮で面白いというのが、弾む足取りから伝わってくる。
空はどんよりと黒い雲で覆われていて、まさにアルタイルの今の気分と一緒だった。アルタイルとレギュラスは走ってシリウスに追いついた。不安そう顔でレギュラスはシリウスの袖をつかんだ。
「もういいでしょ。早く帰ろうよ」
「何言ってんだ。まだ来たばかりじゃないか。見ろよ、誰もローブなんか着てないぞ。三角帽子だって」
つかまれたままシリウスが勢いよくあるくものだから、引きずられそうになったレギュラスは手を放した。
大きな道は人通りが多く、車輪のついたものがひっきりなしに行き交っていた。まるでセストラルに引かれる馬車のようだ、とアルタイルは思ったが、車間距離からすると透明な動物が引いているわけではないようだった。
「どうやって動いているんだろう。魔法も使えないのに」
「アルタイルも楽しんでるな。来てよかったただろ?」
「違う。にやにやするな」
本当はもっと色々見て回りたい、店の中にも入ってみたいという気持ちが湧いてきていたが、ブラック家の魔法使いとしてその好奇心は隠さねばならなかった。
「なあ、あれかっこいいな!」
シリウスが指差したのは、2つの車輪がついた乗り物だった。ドラゴンがうなるような轟音を立てながら、背中に人を乗せて走っている。
「そうかな、うるさすぎるよ。変な匂いもするし」
レギュラスの言葉に、アルタイルもうなずいた。乗り物から出る煙がなければいいのに、と思った。
「わかってねえな。箒なんかよりずっといいだろ」
「箒の方がいいって!」
シリウスとレギュラスが言い争いを始めた時だった。3人の頭に陰が落ちる。目の前に、マグルの男が立っていた。
「君たち、パパとママはどうしたの?」
マグルの街でも子供は大人と一緒にいるべきらしい。ここがダイアゴン横丁だったとしても、未就学児のアルタイルたちだけで歩いていたらまず迷子を疑われる。
「はぐれちゃったのかな? 名前は言える?」
アルタイルは黙り込んだ。どうすればこの場を切り抜けられるのだろう。
真っ先に動いたのはシリウスだった。
「逃げるぞ!」
シリウスが走り出した。人のいない所へ――車輪のついた物が走っている場所に脇目も振らずに飛び出した。けたたましい音が乗り物から鳴り響き、シリウスの行動を避難した。乗り物が急停止したお陰でシリウスは無事に反対側の通りに渡りきった。
「僕たちも行くよ!」
乗り物が止まっている今のうちだ。それにシリウスは後から来るものと信じてか後ろを振り返ることなく走り続けている。このままでは見失う。
「待ちなさい!」
マグルの男が腕を伸ばしたが、レギュラスは機敏にかわした。通りを歩くマグルや車輪のついた物の窓から顔を出したマグルが叫んでいるが、逃げるアルタイルの耳には入ってこなかった。
シリウスの背中を追いかけに追いかけて、ようやく足をとめた時、アルタイルたちは公園にたどり着いていた。3人とも息を切らし汗だくだった。
「アルタイル、どこを走ったか覚えてるか?」
「さあ……」
「俺もだ」
シリウスの姿をとらえつつ、レギュラスがついてきているか確認しながら走ったのだ。道順を覚える余裕はなかった。せっかくのマグルの街なのに周囲を見れなかったのは少し残念だった。
レギュラスが膝をついて座り込んだ。一番幼い分、体力も少ない。ここまでついてきただけ大したものだった。
アルタイルは袖で額の汗をぬぐった。ポケットの中にハンカチが入っていたが取り出す体力はなかった。
「お腹空いたな」
シリウスが呟いた。視線の先にはフィッシュ・アンド・チップスの屋台があった。油で揚げるいい匂いが風に乗ってくる。マグルの金を持っているはずもない。
屋敷から抜け出していなければ、今頃はクリーチャーお手製のお菓子を食べていただろう。今日のおやつは作りたてのジャムとスコーンだったに違いない。
「家に帰れないの?」
レギュラスの目から涙がこぼれ落ちた。
「大丈夫だ、きっと帰れる」
「でも、道がわからないって言ってたでしょ」
アルタイルは使っていなかったハンカチでレギュラスの顔をふいた。次から次へと涙があふれ出てくる。
「泣いたってどうしようもないだろ」
シリウスがぶっきらぼうに言った。多少バツが悪そうなのは、この状況への責任を感じているからだろう。
「クリーチャー」
レギュラスが泣きながら屋敷しもべ妖精の名前を呼んだ。その直後だった。
バチン、と聞き慣れた音がした。姿表しの音だ。
「ああっ! 坊っちゃまたち! お探しになりましたよ!」
クリーチャーはここがマグルの公園だと気づくと姿を消した。だが透明になっただけでどこかに行ったわけではないことは、レギュラスの様子からわかった。レギュラスの手が見えない何かと手をつなぐように握られて、泣き顔が笑顔になったからだ。
アルタイルとシリウスは顔を見合わせると、弾けるように笑い出した。姿表しの音がしたときに緊張の糸が切れたようだった。
そうだ、屋敷しもべ妖精は主人が呼べば来るのだ。家にいる時はクリーチャーを呼んでお茶を淹れてもらっていたのに、そんなことも頭から抜け落ちていた自分たちがおかしくてたまらなかった。
「アルタイル、シリウス、帰ろう!」
レギュラスが明るく声をかける。
家に帰ったらたくさん叱られて、もしかしたらご飯抜きになるかもしれない。でも今のアルタイルは家に帰れる安心感でいっぱいだった。