山のような課題が先生たちからのクリスマスプレゼントだった。休暇に入る前に少しでも山を崩しておこうと、アルタイルは談話室でルーン文字の翻訳に取り組んでいた。戸棚の上で頭蓋骨が陽気にクリスマスソングを歌い、勉強漬けの受験生に本来ハッピーな日だと思い出させてくれる。
向かいで薬草の図鑑を広げるウィリアムから泣き言がこぼれた。
「薬草学の知識っているか? 店で買えばよくね? 俺は絶対に森に採りに行ったりしないから。卒業したら絶対使わない」
「紛い物つかまされないようにかな……」
「魔法薬も既製品ですませばそもそも買わなくてすむ」
「今夜くらいは早く寝たらどうだ?」
ウィリアムが参るなんて余程のことだ。連日の夜更かしが響いているのだろう。返事の代わりにウィリアムはブラックコーヒーを飲み干した。
エリックが来て、テーブルに帰省リストを置いた。
「ほら、いつものやつだ。――お、もうできたのか、借りるぞ」
目敏くアルタイル完成させた魔法史のレポートをつかみ、逃げるように立ち去った。
「あ、もう自分でやれって」
アルタイルは腰を浮かしかけ、追いかけ回すより目の前のレポートを終わらせた方が有意義だと座り直した。
リストはほとんどの生徒が帰省の枠にサインしていた。アルタイルもいつもなら迷いなくそこに名を連ねるのだが、ペン先をインク瓶に入れたまま動きがとまる。
「ホグワーツにいた方が落ち着いて勉強できるか?」
少なくとも母親のヒステリーや従姉の相手をしなくてすむ。
「図書室は閉まるしそうでもないぞ。口うるさい上級生がいない分はしゃぐ奴もいるし」
「それは自分のことか?」
「今年は大人しくするさ」
残留常連のウィリアムは今年も変わらなかった。
アルタイルは結局帰ることにして、近くにいた七年生にリストを渡した。数日前にスラグ・クラブのクリスマスパーティーの招待状に欠席の返事を出していたし、あの家にレギュラスを一人にする気はないのだから答えは最初から決まっていた。一瞬の気の迷いが口に出るくらい試験勉強に疲れているらしい。
「そういえば、もう治癒魔法の勉強はやめたのか?」
ウィリアムの集中力は切れていた。
治癒魔法を勉強していることは誰にも言っていなかったが、隠していたわけではないので持っている本で気づくだろう。アルタイルは辞書をめくりながらこたえる。
「試験勉強もあるし、独学ではきつくて。自分の手首を試しに切って失敗したら怖い」
「ノイローゼによる自殺未遂と区別がつかないな。部屋を血まみれにしないでくれてよかったよ」
アルタイルは自分が天才ではないと知っている。努力すれば結果が出せるくらいには優秀であることも。だから今は試験に目標を絞った方がいいのだ。試験で良い成績を収めれば、選択できる授業が増える。癒者は闇祓い並みに難易度が高いが、手が届かない範囲ではない。
「癒者になるつもりか?」
「親が許すかな?」
ブラック家を継ぐことは幼いことからの夢であり、決められた道だった。それなのに選択肢を増やそうとする自分がおかしかった。
「お前のところにはレギュラスもいるだろ?」
手をとめるのが遅れてページをめくりすぎた。
「代わりがいるからですむなら、シリウスはどの寮に行ってもいいはずだ」
アルタイルは目当ての単語を見つけてラインをひいた。辞書から顔を上げると、真剣な顔のウィリアムと目があった。
「あの夜、本当は何があったんだ?」
「何もないよ」
「エリックにも俺にも言えないことか?」
友人なら打ち明けられるはずだと試すような眼差しだった。
ウィリアムは秘密にしてくれるだろうか。アルタイルのことに関することならきっと。でも、関わりのないグリフィンドール生のことは?
「本当にプライベートなことなんだ」
友人に嘘をつくことは、闇の帝王の誘いを断った時よりも胸が苦しかった。
「……そうか」
見切りをつけたようにウィリアムは課題に戻った。
***
帰省したアルタイルは自室にこもって勉強に取り組んでいたが集中し切れず、問題集の文章は頭の中に入ってこなかった。
気分転換に杖を振る。
机の上にある人間のミニュアの骨格模型が瞬く間に姿を変えた。鼻と口が伸びて頭蓋は円錐型なり、左右の鎖骨がY字につながる。腸骨と座骨と恥骨は融合し、足の親指は踵の方へ移動、腕と手が大きく伸びる。できあがったのは鳥の骨格だった。
さらに杖を振った。
インク瓶の中から浮かび上がった黒い液が骨格にまとわりつき、内蔵と筋肉を形作り、皮膚と羽毛となって覆う。一羽の犬鷲の完成だ。
杖先を上に向けてクルクルと回すと、鳥の模型も飛び上がって旋回した。手の上に着地させる。翼を指ではさみ、折った。
「Reparo」
物を直すのは簡単だった。元通りになった翼を撫で、繋ぎ目がないことを確認する。
集中し切れない理由はわかっていた。
まさか自分が進路で悩むなんて。気持ちに蓋をして決められた道を進むか、あるいは……。
十代の少年にはありきたりのものだったが、ついこの間まで自分には無縁だと本気で信じていたのだ。夏学期には寮監と進路相談があり、先送りにはできなかった。
気持ちの整理ができないまま、アルタイルはレギュラスの部屋に行った。
「どうしたの?」
「勉強の息抜きに」
レギュラスはクリーチャーとお茶をしていた。クリーチャーは屋敷しもべ妖精の分を超えた待遇が落ち着かなかったのか、切り上げるきっかけができてほっとしたようだった。
「クリーチャーはお夕食の支度がございます」
深々と頭を下げ、その格好のままパチンと姿を消した。仕事を理由にされたらレギュラスも無理に引きとめられない。
棚には寮のクィディッチチームと撮った写真が置かれ、壁には贔屓のプロチームのポスターと並んで新聞のスクラップが張られている。闇の帝王の記事だ。
レギュラスなら誰よりも理想の後継になるだろう。半端なアルタイルよりも、血を裏切るシリウスよりも。
きっかけはウィリアムの言葉だった。その場では否定したが頭から離れず、ついに認めるしかなかった。大きな石を飲みこむようにつらくても。
「座らないの?」
レギュラスが椅子を示して首を傾げる。アルタイルは一呼吸置いてから言った。
「相談があるんだ」
「うん?」
「実はやりたいことができたんだ」
「……どんなこと?」
警戒するようにレギュラスは目を細める。
「癒者になりたいんだ。……なるとしたら家のことは疎かになると思う。楽な仕事ではないだろうからね。だからレギュラスに手伝ってもらいたい。いや、レギュラスが家を継いだ方がいいんだ」
「ううん、アルタイルが継いで。僕が手伝うから」
レギュラスは驚きながらも即答し、安心したように頰を緩ませた。
「嬉しそうだな」
「うん。アルタイルがこういう風に頼ってくれるのは初めてだし、何よりシリウスと同じ側に行かなくてよかったよ」
「その道だけは進まないよ」
躊躇わず応援してくれるのだから良い弟に恵まれた。問題は両親だが、味方は一人できた。
レギュラスは朗らかに笑った。
「癒者になったら死喰い人を治してあげられるね。闇医者よりちゃんと知識がある人がいた方がいいと思うんだ。僕が死喰い人になったら口添えするから」
「……ああ、レギュラスが怪我をした時も僕に任せて」
アルタイルは無理矢理笑みを作った。親の言うことを疑わず、自分の信念にできる純真さ眩しかった。
アルタイルはそっと書斎に脚を踏み入れた。ホグワーツの図書室と違い静かにしないといけないルールはなかったが、部屋の主人たる父の静謐な雰囲気が空間を支配している。さらに、後ろめたさが足取りを慎重にさせた。
机に向かう父の背中に呼びかける。
「父様、お話があります」
「なんだ?」
「進路について……僕は癒者になりたいです」
振り向かない背中に向けて言葉を続ける。激昂しやすい母の方が反応がわかりやすい分、楽かもしれない。
「誰かを傷つけるより、治す道を選びたいのです。家のことが疎かになることはわかっています。レギュラスに話したら、協力してくれると言ってくれました」
これで良いのか悪いのか、暗闇を手探りで進むような気分だ。挫けそうな心を奮い立たせ、見失いかけた決意を絞り出す。
「どうか癒者になるお許しを頂きたいのです」
父が読みかけの本を閉じ、ゆっくりと振り返った。
「我が家の家訓は?」
「
「きっかけは人狼ではないのか?」
「お爺様ですね」
ため息のように言葉を吐いた。あの満月の夜のことは両親に秘密にしていた。
「お前が純血主義を重んじていないことは知っていた。あの方の誘いを断る前から。それでも、シリウスのようにならないと信じていた。なぜだと思う?」
アルタイルは答えられない。開心術に抵抗する術を教わった時から、父が何を考えているのか、ただ子供に無関心なのかわからなかった。
父が次の言葉を言うまで、重苦しい沈黙が続いた。
「後継という立場に固執していたからだ。ブラック家を第一に考えれば純血を捨てはしない。だから闇の帝王の誘いを断る失態を犯そうとも後継の立場を取り上げなかったのに」
声に含まれた棘が突き刺さる。胸が痛いが、意外と子供のことを見ているのだなと心の一部は場違いに嬉しくなる。
父様、僕が間違っていました、と反射的に言おうと口を開いた。だが、父が先だった。
「聖マンゴ病院で働けば穢れた血を看なければならないのだぞ」
脳裏を血まみれのセブルスの姿がかすめる。あの時に感じた無力感も。
「父様、闇の帝王が穢れた血を追い出すまでのわずかな間だけです。あのお方ならすぐにサラザール・スリザリンの悲願を叶えてくださるでしょう」
父は意表を突かれた顔をした。
アルタイルも直前まで口にしようとしていたことを裏切る自分の舌に驚いたが、閉心術の訓練のお陰で動揺を隠し切った。
「人狼がきっかけだと何が問題なのですか? 死喰い人には人狼がいるのに」
オリオンは深いため息をつくと、額を手で抑えた。灰色の目には疲労の色がにじんでいる。
「どうして我が家の魔法使いは頑固者ばかりなのか……。ヴァルブルガを説得するのは大変だぞ」
「はい。それでも言ってみないことにはわかりません」
書斎を出たアルタイルは数歩進んだ後、壁に寄りかかった。もう緊張を隠す必要がない。心臓が妖精のはばたきのように忙しなく脈打っていた。
これで良かったのか、迷いはいつまでも晴れなかった。