第33話 蛞蝓のお気に入り

 居間のテーブルにアルタイルとヴァルブルガは向かいあって着いていた。アルタイルの隣にはレギュラスが、ヴァルブルガの方にはオリオンがいる。時折、紅茶を注ぎ足しに来るクリーチャーは余計な探索もしなければ感情も見せず、求められる働きをこなしていた。
 アルタイルが進路の希望を伝え、レギュラスが口添えした。
 最初は着火したように怒鳴ったヴァルブルガだったが、二人が言葉を重ねるにつれ静かになっていった。だが、怒りが消えたわけではないとアルタイルにはわかる。
 母の目の奥で青白い炎が燃えている。その火がいつ自分の身を焼くか、あるいは家系図の名前を焼き消すか、後者の方が恐ろしい。
 幼い頃、絵本の代わりに母が家系図を読み聞かせてくれた。先祖がどれほど素晴らしいことを成したか、その血が我が身に流れている喜びを、子孫に繋いでいく貴い高い使命を。母は杖を羽根ペンの代わりにして、鮮やかな緑の光で宙に先祖の名前を綴った。流麗な筆記体はアルタイルの憧れだった。

「わかったわ。好きにするといい」
「ありがとうございます」

 母の中の炎が杖先からあふれることはなかったが、アルタイルはまだ気を抜けなかった。
 果たして、ヴァルブルガは唇を歪ませて言った。

「アルファードのように何もなさない存在になればいい」

 

 

***

 春の陽気が訪れても、地下にあるスリザリン寮は肌寒くまだ冬の名残が消えていなかった。授業から戻ったアルタイルは思わずローブの前をしっかりと合わせた。
 談話室の隅ではセブルスが背中を丸めて羊皮紙と向き合っていた。ぶつぶつと呟きながら羽ペンを動かす姿は見慣れたものだ。

「八つ裂きにしてやる……バラバラに引き裂いて……いや、もっと苦痛が長引くように……」
「物騒だな」
「油を売ってていいのか、受験生?」
「息抜きも必要だ」

 近くの椅子を呼び寄せて座り、開発中の呪文を見た。何通りもの杖の振り方と発音の組み合わせ。セブルスの呟きを聞かなかったとしても、意図する効果は一目瞭然だった。

「攻撃用の魔法か」
「あいつらに使うつもりだ。とめても無駄だぞ」
「正当な仕返しだろう。少しは痛い目を見ればいい」

 満月の夜にセブルスが大怪我をしたからといって、シリウスが反省してセブルス虐めをやめることはなかった。ジェームズも同様で、彼らの関係は何も変わらない。
 セブルスが小声で呪文を唱えると、小さなつむじ風が吹いた。羊皮紙の表面に引っかいたような傷がつき、風はセブルスの手の甲にも傷をつけて消えた。赤い血が一筋流れる。

「こんな威力ではダメだ。アルタイル、鞄の中にハナハッカのエキスがあるからとってくれ」
「Episkey」

 セブルスが言い終わる前に、アルタイルは杖を振っていた。たちどころに治り、新しい皮膚は周囲の肌の色と馴染んで見分けがつかない。
 セブルスはしげしげと手を見つめ、感心したように息をこぼした。

「見事な物だな」
「浅かったから」
「それにしても。ここにあった火傷も治っている」

 特別に練習したわけではなかったが、治癒魔法の本で理解を深めた結果だろう。

「もっと褒めていいんだぞ」

 セブルスは今度は呆れたため息をついた。苦虫を噛み潰した顔で、いかにも嫌そうに言う。

「……かように素晴らしい魔法の腕と知識をお持ちなら、私めの未熟な魔法の改善法もおわかりなのでしょうね」
「それは褒めるではなく挑発だ。僕を乗せるなら素直な賞賛の方がいい」
「実は喧嘩っ早いのに?」
「それほど買ってはいないだろ。いや、ポッターも似たようなことを言っていたな……」

 アルタイルは自分の振る舞いを省み、セブルスはジェームズと同意見というのが複雑なのかそれぞれ黙りこむ。
「それより」とアルタイルは話題を戻した。

「血生臭いことに手は貸せないよ。戦うのは苦手なんだ」
「参考になりそうな本に心当たりは?」
「残念ながら少しも」

 流れるように嘘をついた。

 ホグワーツの日々は変わらずとも、外では闇の帝王の活動が盛んになる一方だった。闇祓いに禁じられた魔法の使用許可を出すべきだという議論が盛んに交わされている。
 イースター休暇の後半、談話室に進路指導の通知が張り出された。将来の職業によって六年生で学ぶ科目が決まる。

「あと二年で卒業なんて信じられないよな」

 エリックが言うと、ローズは気怠げにこたえた。

「卒業後のことは考えたくないわ。両親は縁談探しに奔走中よ」
「気楽でいいな。俺は自力で職探しだ」

 そう言ったウィリアムは魔法省魔法執行部のパンフレットに目を通していた。談話室には職業紹介の小冊子が積まれ、学生生活が永遠に続かないことを意識させられた。

「あら、ろくに話したこともない男と会わされて、そいつの子を産めと言われることが気楽だと? ええ、そうね、男は気持ちよく出して終わりだから楽でしょうとも」
「純血の血を残す大役じゃないか。喜べばいい」
「あなたを女にできる魔法があればかけてやりたいわ」

 ローズは軽蔑の一瞥をくれると女子寮に立ち去った。

「俺が悪いのか?」

 ウィリアムに意見を求められたエリックはノーコメントで肩をすくめ、まだ半分以上残っている課題にとりかかり始めた。
 アルタイルは聖マンゴ病院の小冊子をとった。表紙に骨と杖が交差した紋章が描かれている。

「なあウィリアム、僕は前に君が言った道に進むよ」

 不思議そうにアルタイルと小冊子を交互に見たウィリアムだったが、瞳に理解の色を浮かべた。

「みんなにはまだ秘密にしておいてくれ」
「なんで?」
「試験に落ちて必要科目をとれなかったら恥ずかしいから」
「お前の成績でそれはないだろ。ま、わかったよ」

 ウィリアムは仕方なさそうに笑ってうなずいた。

 指定された日時にアルタイルはスラグホーンの研究室を訪れた。時刻は午後四時、アフタヌーンティーには丁度良く、スラグホーンはにこやかにお茶を振る舞った。

「君はコーヒーより紅茶派だったね。前にブラック家にお邪魔した時に飲んだオリジナルブレンドをまた飲みたいものだ」
「ぜひいらしてください。父も母も歓迎するでしょう」
「そうしたいのは山々だが、最近は怪しい勧誘をされることが多く、誰かの家にお邪魔することも招待することも控えていてね……おっと、今は私の話より君のことだ。他の寮監に比べるとこの仕事は楽させてもらっているよ」

 スラグホーンは面談がすぐに終わると思っていた。アルタイルはまだ自分の意志を伝えていないのだから当然だ。

「実は癒者になりたいのです」

 スラグホーンが大きく目を開き、動きをとめた。アルタイルは外国語教師のお手本のようにはっきりとした発音で繰り返した。

「癒者になりたいのです」

 先生はまだ驚いた顔でとまったままだ。言葉がスラグホーンの頭に染みこむのを待ってから続ける。

「両親の許可は得ています。ブラック家はレギュラスが継ぐことになるでしょう」
「……根回しは十分というわけだ。そんな噂はちっとも聞かなかったがね」

 ようやくスラグホーンは口を開いた。両手を組んでテーブルに肘をつき、真剣な眼差しでアルタイルを見つめる。クラブメンバーの将来は重要なことで、蜘蛛が巣にできた綻びに敏感なようにアルタイルという糸の強度を値踏みしているのだろう。捨てると決めた時は容赦しない人だった。

「父はまだ元気ですし、代替わりは当分先の話ですから」

 この数年でブラック家ではシリウスがグリフォンドールに入り、アンドロメダが駆け落ちした。これ以上の話題は提供しないつもりだ。

「あるいは僕の働き次第では後継ぎは変わらない……とレギュラスは望んでくれていますが」
「美しき兄弟愛だ」

 そう言いつつ、感銘は受けていないようだった。スラグホーンの中ではすでにレギュラスが後を継ぐことになっているのだろう。アルタイルも弟ほど楽観的にはなれなかった。

「聖マンゴ病院の癒者になるにはNEWT試験で魔法薬学、薬草学、変身術、呪文学、闇の魔術に対する防衛術でE・期待以上をとる必要がある。君の成績なら問題ないだろう」

 さすがにこの仕事が長いだけあって条件は頭に入っているらしい。

「なぜ癒者になりたいのか聞いてもいいかね?」
「きっかけはセブルスが怪我をしたあの夜です。治癒魔法が不完全であの日に感じた無力感をもう二度と味わいたくなくて、誰かが怪我をしても治せるようになりたいのです。それが理由の半分です」
「もう半分は?」
「あの日、やっと闇の帝王がしていることがどういうものか実感したんです」

 スラグホーンの眉がぴくりと吊り上がる。スリザリンの寮監でありながら闇の帝王嫌い。アルタイルにとって信頼していい相手だ。
 嘘と建前を探り避け、本心を舌に乗せる。   

「闇の帝王がしていることは暴力的で前から賛成できなかったのですが、新聞を読んでも死傷者の数はただの数字でどこか歴史書を読むような感覚でした。僕は純血で大人しくしていれば被害に遭うことはありませんから。他人事だったんです。ですが血を流すセブルスを見て、闇の帝王がしているのはこういうことだと……」

 語尾が震え、深呼吸して整えた。息が詰まるような血の生臭い臭い、手を濡らす温かさ、床とローブを赤く染める色、記憶力がいい分ありありと思い出せる。

「臆病者と言われようとも、僕には誰かの血を流すために魔法を使うのは無理だとわかりました。戦うより癒すために使いたい。両親からは聖マンゴの癒者になればマグル生まれを治すことになると反対されましたが、僕は自分の体に流れる血を誇りに思うからこそ、自分が正しいと思う道を進みたいのです。闇の帝王の行いに誇りを感じられませんから」
「それでよくご両親を説得できたね」
「両親にはマグルを治すのは闇の帝王が目的を果たすまでのわずかな間だけだと、その未来を信じられないのかと言い張りましたから……。恥ずかしい話ですが、僕にはアンドロメダのように勘当される覚悟がありません」
「あるいはスリザリンらしい狡猾さと言える」

 予想外の評価にアルタイルは目を瞬かせた。スラグホーンは微笑みを返す。

「若いうちは力強くわかりやすいリーダーに惹かれるものだ。君が惑わされず自分の意志を貫く強さを持っていたとは、正直に言うと驚いた。アルタイルの評価を改めないとな。……上手くやってほしいものだ。ブラック家から勘当されるのは惜しい」

 価値が下がるといったところだろう。アルタイルは苦笑したが、自分の選んだことは間違っていなかったのだと胸のつかえがとれた。

「これまで以上に私を頼るといい。聖マンゴの癒者にはツテがある」

 スラグホーンは杖を振り、戸棚から瓶を呼び寄せた。黄色いドライフルーツがぎっしりと詰まっている。

「パイナップルの砂糖漬けはどうかね? いつもは一人で全部食べてしまうのだが、今日は特別だ」
「ありがとうございます」

 先生の微笑みに、アルタイルも笑顔を返す。初めてブラック家の魔法使いだからではなく、アルタイルという個人を認められた気がした。
 その日食べたパイナップルの砂糖漬けは特別美味しく感じられた。