空の青が橙色に染まっていく。逢魔が時といわれる頃合いに、ひとりの子供が山の道に立っていた。歳は十を少し過ぎたばかりか。小柄な体に日焼けて褪せた赤い着物をまとい、少女趣味な大きなリボンで毛先の跳ねた癖のある髪をひとつに結っていた。腰には一振りの刀を――もう侍のいない大正時代だというのに――差している。白竹十三という名のその子供は、人の気配も物の怪の気配もまったくないこの場所で、思い切り叫んだ。
「ああもうっ! 鬼でもいいから出てこいよ!」
十三の前には二股に分かれた道がある。どちらが正解の道だろうか。狐狸が化かすまでもなく、十三は方向音痴だった。
「どっちに行けばいいんだ。また間違えるかもなァ、こりゃ」
はあ、と大きなため息をついた。どうせ迷子になるだろうから、と師から早々に旅に出され、案の定あちこち脇道にそれ反対方向に進み、やっとここまで来たのだ。今日が最終選抜の日だった。これ以上迷子になる暇はない。
「お師匠、俺は鬼殺隊に入れねぇ。もう無理だ。間に合わない。来年に期待してくれ」
十三は背中から倒れて寝転がった。山端から濃紺の夜の色が広がっていく。選抜が始まるのは真夜中だった。このまますべてを投げ出して星でも見ようか――と諦めた時だった。
「あの、大丈夫ですか?」
ひょい、と逆さまの顔が視界に入り込んだ。額に火傷の痣がある。目と髪は赤みがかった黒色だった。近くでお祭りでもあっただろうか、少年は頭の横に狐面をつけていた。
十三の舌に、パチと熾火が爆ぜるような、薪が焼ける煤っぽい味がした。長いこと雪の中を歩いてようやく囲炉裏にあたった時のような暖かさと安心感がわきあがった
「どこか具合でも悪いんですか?」
「全然」
こたえるなり、十三は身軽な動作で起き上がった。しなやかな動きは猫のように音を立てなかった。まだ心配そうに見つめている少年に向かって、十三は言った。
「平気、平気。迷子になってもういいかァって自棄になってただけだから。そんな心配しないでいいよ。……ん?」
十三の視線が、少年の腰に吸い寄せられた。刀を佩いている。十三は目をまんまるに見開いた。
「もしかしてあんたも鬼殺隊の選抜を受けに来たのか……!?」
「それじゃ君も?」
今度は少年の目がぱちくりとまたたく番だった。十三は満面の笑みを浮かべた。
「やったー! よかった! 道わかる? 俺は白竹十三、よろしく!」
「竃門炭治郎だ。こちらこそよろしく。道はこっちだよ」
炭治郎が指したのは北に続く道だった。十三は人懐っこい笑顔を浮かべて、炭治郎についていった。
「これで選抜に間に合う。地獄に仏とはこのことだ。お陰でお師匠にどやされずにすむ! 炭治郎にはいくら感謝してもしきれないな。うん、お礼に鬼から助けてあげよう!」
「いや、大丈夫だよ。この選抜は自分の力で切り抜けないといけないと思うから」
「真面目だな。でも炭治郎は目の前で危ない目にあっている人を見捨てられるか?」
「無理だ」
「だろ? 俺もそうだ。それが命の恩人ならなおさらだ。ほとんどの奴は選抜で死ぬっていうし、俺は炭治郎に死んでほしくないよ。だから炭治郎がなんて言おうと勝手に助けるから」
「ここで死ぬ気はないよ。俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ」
炭治郎の確かな決意を、十三は感じとった。鋼のような硬い意志に、涙の味がする悲しさが混じっている。いったいどうして、と十三は不思議に思った。己の軽薄さと比べ、炭治郎は真摯だ。鬼殺隊に入らなければならない理由はなんなのだろう――だが、尋ねる言葉は目の前に現れた光景に奪われた。
「えええ!? なんだこれ!? すごい!」
山一面が薄紫に染まっていた。満開の藤の花で埋め尽くされていた。
「咲く時期じゃないはずなのに」
炭治郎が幻でないか確かめるように藤の花に触れた。
「綺麗だけど、なんだか不気味だなァ」
まるで人外魔境の地に踏み込む気分だ、と十三は思った。何が襲ってきてもいいように、腰の刀の位置を確認した。
道は石段に続いていた。上ると、切り開かれた小さな広場に出た。もう夜の帳が落ちてすっかり暗くなっている。すでに十三と同い年くらいの子供が二十人ほど集まっていた。
選抜を見届けるのは、華やかな着物を着た二人の童子だった。顔立ちも背丈もそっくりで、違うのは髪と服の色くらいだった。
「この藤襲山には鬼殺の剣士様方が生け捕りにした鬼が閉じ込めてあり、外に出ることはできません」
「山の麓から中腹にかけて鬼共の嫌う藤の花が一年中狂い咲いているからでございます」
ひとりは黒髪でもうひとりは白髪の双子の説明を聞きながら、十三は豪奢な着物を着た二人をまるでお姫様みたいだと思った。言葉遣いも村の人間とは全然違う。
「しかし、ここから先には藤の花が咲いておりませんから鬼共がおります。この中で七日間生き抜く」
「それが最終選別の合格条件でございます」
集まった候補者たちの間に緊張が走った。
鬼。人を喰らう化け物。一度でも鬼と遭ったことがある者なら、生きて帰ることがどれほど困難か身にしみてわかっている。。
十三はゴクリと唾をのんだ。恐怖と期待、両方が混じっていた。死ぬかもしれない恐ろしさと、ここの鬼たちはどんなに美味しいのかという楽しみで。己こそが捕食する側だというように、まるで強大な獲物に挑みかかる肉食獣のように、十三の目は輝いていた。
「では行ってらっしゃいませ」
双子が深々とお辞儀したのを合図に、十三たちは一斉に駆け出した。十三は人食い鬼のいる藤の牢獄の中へ、迷いなく飛び込んだ。