Prologue

 北側の女子トイレは夏場でも肌寒かったが、少女のお気に入りの場所だった。使用する人が少ないから泣くには丁度良い。

「オリーブなんて死んじゃえばいいのよ!」

 一番奥の個室で蓋をした便座を椅子代わりにしながら、ぽっちゃりとした指で強く目を擦った。涙をぬぐうのに邪魔だから眼鏡は膝の上に置いていた。オリーブが馬鹿にした眼鏡だ。

「死ね! あのアバズレ、死ね!」

 口汚く罵っても、咎める人もいなければ慰めてくれる人もいない。元々不人気な場所であり、加えて今は就寝時間が近いからみんな寮にいるはずだ。それに一番大きな理由なのだが、この女子生徒には心配して来てくれる友達がいなかった。
 学校なんて自分をからかってくる嫌な奴ばっかりだ。
 そろそろ寮に戻らないと校則違反になってしまうが、それがどうしたと自棄になって居座り続けた。授業では減点されてばかりの落ちこぼれなのだから、今さら評価を気にするのも馬鹿らしい。
 しばらくの間、嗚咽と手洗い場の蛇口から落ちる水滴の音だけが響いていた。窓ガラス越しの夕日は不気味なほど鮮やかに燃え、滴る水を血のような赤さで照らし出している。
 やがて少女はローブの袖に最後の涙を吸わせると、ゆっくりとした動作で眼鏡をかけた。最近は疲れているのか肩が重い。おまけに時々誰かの視線を背中から感じることがあった。今も誰かにじっと見つめられている気分だったが、まさか背中と便器のタンクの間に他人が入る隙間はない。きっと気のせいよ、と少女は自分に言い聞かせた。泣きすぎて目が痛いし、何もかも最悪だった。
 キィ……と女子トイレの入り口のドアが開く音がした。足音がする。誰かが入ってきた。
 今までこういう時に来るのは自分を馬鹿にする奴らだけだったから、落ち着き始めていた気持ちはまた波立った。独りぼっちの惨めな自分を笑いに来たに違いない。
 足音は手洗い台の前でとまった。
 声が聞こえる。英語ではない。シューシューと蛇が舌舐めずりするような、聞いたことのない言語だった。だが、言葉の意味より男の声ということの方が少女にとっては重要だった。
 少女は乱暴にドアの鍵を外した。出ていけ、男子トイレを使え、と言うつもりで。そしてドアを開けた瞬間、凍りついたように指一本動かせなくなった。