Chap.1 The Basilisk

 黄金に輝く双眸が少女の目をとらえたはずだった。蛇の中の王、バジリスクに睨まれた者は一瞬で命を奪われる。それが蛇の目だと気づく間もなく。
 女子生徒は蛇を正面から見据えていた。鮮緑色の光沢のある鱗や樫の木のように太い胴を認識する前に、彼女は死ぬはずだった。しかし一向に倒れる気配がない。バジリスクは獲物をしとめられなかったことに動揺したのか首を揺らした。毒牙で刺すか思案する様子で、口から剣のように大きな牙をのぞかせた。
 ふっくらとした顔が、蛇の傍らに立つ少年――トム・M・リドルの方を向いた。彼女の眼鏡が、まだ沈み切らない夏の夕日に反射して光った。鏡だ。眼鏡のレンズが鏡面になっている。
 リドルは素早くバジリスクに命令した。シューシューと歯擦音でできた蛇の言葉だった。バジリスクは従順に顔を壁の方にそむけた。鏡面に映ったバジリスクの目を、リドル自身が見ないようにするためだった。

「一体どういうことだ!」

 リドルは杖先を少女に定めて怒鳴った。人を力で従わせることに慣れた杖の構え方と口調だった。

「それはこちらの台詞だ。どういうことなのだ、これは」

 強い違和感を覚えて、リドルは相手を睨みつけた。声は紛れもなく少女のものだったが、振る舞いはまるで別人だった。古めかしい発音は大昔に死んだゴーストが喋っているようであり、足を肩幅に開いて爪先を外に向け、男らしく立っていた。いつもの彼女ならパニックになって泣きわめくような状況だというのに落ち着いている。胸の前で腕を組み、抜け目なく手には杖を握っていた。バジリスクを警戒する様子はあるものの、リドルに対する態度には知り合いに対する気安さがあった。

「マートルじゃないな。誰だ?」
「その通り。まずはその物騒な物をしまってから話そうではないか。ここはトイレだが、騒ぐような場所ではないはずだ。図書館と同じように。そうだろう、リドル」
「ラングレイですか!」
「正解だ」

 自分で考えたなぞなぞが当たって喜ぶような無邪気な微笑みが少女の顔に広がった。マートルがしそうにない表情だった。
 リドルは優等生の態度になり、杖を静かにおろした。先程までの暴力性は刃物が鞘におさめられたかのように消えていた。しかし、杖をローブにしまうことはなく、いつでも魔法を放てる状態を保っていた。

「どうして、なぜここにいるんですか? マートルの姿になって……いえ、とりついているんですか?」
「説明する手間が省けて助かる」

 ラングレイ・ボーグナインは頷いた。ホグワーツに住むゴーストだった。普段は図書室の隅にいるため、図書室の常連なら顔を合わせたことがあるだろう。性格は穏やかで、蔵書探しを手伝ってくれる。こんなふうに誰かにとりつくようなことをする幽霊ではないし、図書室から出てくることはほとんどなかった。リドルが驚くのも当然だ。

「それで、おぬしはここで何をしているのだ?」

 眼鏡の奥の目は鏡面に隠れて見えなかったが、首の動きからバジリスクに目を向けたのがわかった。

「サラザール・スリザリンの秘密の部屋を探していたんです」

 リドルは正直に答えた。危険な魔法生物の存在は半端な誤魔化しでどうにかなるものではない。

「秘密の部屋だと?」
「はい。ずっとスリザリンについて調べていたんです。ホグワーツを創った偉大な魔法使いですから。調べているうちに、彼の書き記した本の中に秘密の部屋の行き方のヒントを見つけました。それだけではたどり着けず、他にも隠された道筋を探さないといけませんでしたが。暗号を解いているようで面白くて、途中でやめるなんてできませんでした。この気持ち、ラングレイならわかるでしょう?」
「おぬしが好奇心旺盛だということは知っている」
「まさかバジリスクがいるなんて思いもしませんでしたけど。僕が蛇と会話ができる魔法使いでよかったです。でなければ死んでいたでしょう。あなたはまるでバジリスクがいることを知っていたようですが」

 邪魔な眼鏡だ、とリドルは腹立たしく思った。目撃者を始末し損ねたばかりか、開心術を使いたくても相手の目を覗きこめない。

「ああ、部屋が開きそうな予感がしたから来たのだ。彼女の身が危なそうだったゆえ、一時的にとりつかせてもらった」
「部屋が開くことがわかっていたんですか?」
「確証はなかったが」
「どうしてわかったんです? ラングレイ、あなた、スリザリンと関係があるんですか?」
「さてな」
「はぐらかさないでください。気になるじゃないですか」

 少女の口は微笑むだけで、疑問にこたえる様子はない。リドルは、道端で密かに輝く宝石に気づいたようにラングレイを注視していた。

「その眼鏡は一体? それで見えているんですか?」
「マジックミラーだからな。急いで変身させたが我ながらうまくいった」

 少女の体が胸を張った。悪戯が成功して胸を張る烏のような愛嬌のある仕草だ。それはラングレイが、求められた一冊を膨大な蔵書の中から探し当てた時にする仕草そのものだった。

「さて、バジリスクは秘密の部屋に帰してくれないか。うろつかせるのは危険すぎる」
「部屋のことを知っていたのなら教えてくださってもよかったのに」
「自分だけのものにしておきたかったのだ。博物館のように物見客が詰めかけるのは嫌だからな。だからリドル、おぬしの好奇心も見逃そう。そのかわり、部屋は閉じ二度と開けないことだ。何か問題が起これば私はおぬしを校長に報告する。そうなれば、バジリスクは退治されるであろう」

 教師への報告は避けられないことだと覚悟していたから、ラングレイの言葉は願ってもないことだった。笑みが浮かびそうになるのを堪えて、しおらしく反省したふりをする。

「はい。軽率な行動でした」
「ふふん、男が女子トイレに入るものではないぞ」
「それはあなたもでしょう」
「人助けだ。見逃せ」

 リドルは蛇語でバジリスクに指示を出した。大蛇は体をくねらせて後退すると、パイプの中――手洗い台がある場所に大きな穴が開いていた――に姿を消した。続けて蛇語の合言葉を言うと、手洗い台がせり上がり元の位置に戻った。

「ホグワーツにいる人で秘密の部屋のことを知っているのはあなただけなのですか?」
「おそらくな。少なくとも私は誰にも言っていない。ほら、早く寮に帰りたまえ。就寝時間は過ぎているのだ。先生に見つかっても私はかばってやれないぞ」
「マートルのことはどうするんですか?」

 ラングレイは杖先で眼鏡を叩いた。リドルの姿を映していた鏡面が元に戻り、度の強いレンズ越しに少女の目があらわになった。

「マートルは気を失ったような状態でいる。私が体から出ていけばすぐに目覚めるだろう。このことは覚えておらんし、とりつかれたことも気づいていない。うたた寝していたと思うはずだ」
「そうですか。彼女が死ななくてよかった。僕が部屋を開けたせいで死んでいたかもしれないと思うと……本当にあなたにはいくら感謝しても足りません」
「うむ。私もすごくハラハラしたぞ」

 リドルは杖をローブにしまうと、大人しくトイレから出ていった。その姿を見送った後、ラングレイはため息をついた。リドルの目には鼠の巣穴を見つけた猫の瞳のような輝きがあり、大人しく引き下がったのは今のうちだけであることは一目瞭然だった。
 ラングレイは便座に腰掛けた。自分が出ていって脱力した体が床に倒れ落ちないよう姿勢に気を配る。少女の体から抜け出たゴーストが天井近くまで浮かび上がると、肉づきの良い手足は人形の様に無防備に垂れ下がった。ほどなくして瞼や指先に力が入り、マートルが目をさました。

「……あら、いつの間に寝ていたのかしら」

 マートルは独りごちると、ふらつく足どりでトイレから出ていった。空中に漂うゴーストから見つめられていることに気がついた様子はなかった。