Chap.2 Tom M. Riddle

 マートルがトイレから出ていったのを見届けた後、ラングレイは壁や床をすり抜けて図書室に行った。生徒はもちろん司書も帰った後の図書室は物音ひとつしなかった。銀色のゴーストの体が滑るように移動する。夕闇が深まるにつれ半透明の体は輪郭をはっきりさせていった。
 ラングレイは指定図書の棚にある『ドラゴンの血液とその効用』という本にとりついた。紫色の表紙は角がすり減って丸くなり、古いインクとすえた羊皮紙の臭いがした。本の中に潜り込んで誰にも邪魔されずに眠るつもりだった。マートルのように感情の起伏が激しい子に憑くと疲労がたまる。おそらくリドルは今日の続きを話しに来るはずだ。リドルはラングレイが本にとりつくことを知っているが、どの本にとりついたかわかるまい。ホグワーツの図書室の蔵書は膨大だ。
 翌日の昼、誰かが本を開いた。眠りを邪魔されたラングレイは不機嫌な顔を本のページから突き出した。

「よくわかったな」

 本を手に取ったのはリドルだった。静かに微笑むリドルは品性方向な少年で、女子トイレに侵入したりバジリスクに命令したりするような人物には到底見えない。しかし、こうして来訪があったことが昨日のことが夢ではない証拠だった。

「初めて会った時もこの本の中にいましたから」
「そうであったか?」

 ラングレイは記憶を手繰り寄せた。そうだ、リドルの言う通りだ――……

……――初めて会った時、リドルはまだ初々しい1年生だった。棚から抜き出した本からゴーストの顔が出てきて呆然とするくらいにはホグワーツの暮らしに慣れていなかった。

「この本を開くとは勉強熱心だな。感心だ」

 ラングレイは言った。ドラゴンの血液の効用については教科書に載っていることもあり、わざわざこの本を読むのは教科書以上の知識を求める者くらいだ。
 ページから突き出ているのは二十歳を少し過ぎたくらいの若い男の顔だった。癖のある髪を三つ編みにし、前に垂らしている。本から体が出てくると、渡り烏が刺繍された古いデザインのローブを着ていた。全身があらわになっても足はなく、腰から下が霞がかったようになっていた。
 ゴーストの霞んだ足から顔に視線を戻したリドルはそっと小声で尋ねた。

「あなたはいつも図書室にいるゴーストですね」
「さよう」

 古めかしい言葉遣いは古くからいるゴーストにはよくあることだった。言葉は時代とともに変化する。現代に生きている人間と接する機会が少ないほど、言葉の変化に取り残されていってしまう。

「本の中に入れるんですか? どうやっているんですか?」
「私はゴーストだからできるのだ」
「それは生きている人にはできないということですか? なぜゴーストにはできるのですか?」

 リドルは好奇心旺盛に訊いてきた。自ら学ぶ意欲は好ましい。ラングレイは快くこたえた。

「ゴーストは肉体がないため人や物に簡単にとりつけるのだ。おぬし、名はなんという?」
「トム・マールヴォロ・リドルです」

 生身であればハッと息をのんだことだろう。だが呼吸を必要としないゴーストだからこそ動揺が体に表れることはなかった。驚愕でドキリとはねる心臓だってもうないのだから。平静な態度でラングレイは言った。

「ラングレイ・ボーグナインだ。<足なしラングレイ>やら<足のないゴースト>等、色々な名で呼ばれているがな」
「どうして足がないんですか――あ、いえ、気に障ったならすみません」

 ゴーストにはニックのようになぜ<ほとんど首なし>なのか語りたがる者もいれば、スリザリンのゴーストのようになぜ<血みどろ>なのか語らないものもいる。

「かまわん。生前に足をなくしたわけではないからな。ただ、なんと説明したらよいのか……魂に刻まれた固定観念が反映されたというべきか、まあそんなところだ」
「魂?」

 リドルの目が赤く光った。ランプの灯が反射したのだろう。だが、獲物を見つけた蛇のようにぞっとするものがあった。リドルはその頃から魂について知りたがっていた。
 ラングレイは人差し指を口の前で立てて言った。

「これ以上のおしゃべりは図書室の静寂を壊してしまう」

 そして棚を通り抜けてリドルの前から去った――……

……――それからリドルはラングレイに話しかけるようになった。ただ、ゴーストだからといって魂について、生と死の秘密について知っているわけではないとわかると関心は薄れていった。しかし昨日のことで再びリドルは強い興味をラングレイに抱いたようだった。

「図書室で話すと邪魔になりますから外に出ませんか?」

 リドルが言った。ラングレイは頷いて、リドルと共に図書室から出た。2人が廊下を歩いていると、石壁からゴーストがすり抜けてきた。ハッフルパフ寮に住む、太った修道士だった。

「おや、ラングレイが図書室から出ているとは珍しいですね」
「外の空気を吸いに来たのだ。部屋にこもりきりは健康に悪いからな」
「はっはっは。私も健康のために運動して腹の肉を落とさないといけませんね」

 ゴースト流冗談を交わして、太った修道士は出てきたのと反対側の壁に消えた。
 リドルとラングレイは近くの空き教室に入った。使われなくなった机と椅子が壁際に積み上げられている。リドルが杖を振ってカーテンを閉めた。陽の光があると、ゴーストの半透明の体は見えにくくなるからだ。

「それで何を聞きたいのだ?」

 ラングレイは、どんな本を探しているのか尋ねる時のように言った。リドルのこたえは、ラングレイの予想の範疇だった。

「あなたとスリザリンの関係について」
「私は彼と同じ時代に生きていた。ホグワーツの創立者から直々に魔法を教わった生徒の1人だったのだ。寮はレイブンクローだったがね。……ふふん、驚かないのだな」
「服装からその時代の人ではないかと思っていましたから」
「昔のファッションについても知っているとはさすがだな。頭が良いとは、自ら調べる姿勢のことだとは思わないか?」

 それくらいの賛辞は慣れているというように、リドルは質問を重ねた。

「ラングレイが秘密の部屋を知ったいきさつはどういうものですか?」
「本で知った。生前のことだ。その本には秘密の部屋の場所と1940年代に開くことが書いてあった。予言書みたいなものだな」

 嘘は言っていない。閉心術は使っていたが、リドルの開心術の腕前が自分の術より上だった場合に備えての用心だ。

「そんな本があったなんて。その本の著者とタイトルは何ていうんですか?」

 自分も読みたいとリドルの表情はありありと語っていた。魔法使いだからこそ、予言という言葉を信じたようだった。

「著者はJ. K. ローリング。この世にはない本だ。どんなに歴史を調べてもこの本と著者のことは出てこないだろう。後世に語り継がれず、時代と共に消えていった人も物も星の数ほどある。……リドルは予言を信じるのか? 魔法使いでも予言や占いの類を信じない者はいるが」
「ラングレイだって信じているんでしょう?」
「まあ、そうだな」

 ラングレイはじっとリドルを見つめた。その本によると、リドルは人を殺し、不死の術を手に入れ、闇の帝王として魔法界を恐怖に落とし入れる。
 リドルが「どうしましたか?」と不思議そうに尋ねた。ラングレイは真正面から訊いた。

「どうして不死を求める?」
「僕がどんな本を読んでいるか調べているんですか?」

 リドルが不愉快そうに顔を歪めた。

「禁書の棚の本を読むような生徒はおぬしくらいだから気になってな」

 リドルは教師から許可をもらって正当な手続きを踏んで禁書を読んでいた。教師たちは将来有望な若者を応援したいという気持ちで許可したのだろう。まさかそこで得た知識を悪用するとは思ってもみるまい。たった1人を除いては。

「生きるのはそんなに良いことなのか?」
「学問として興味があるだけです。生きることの魅力は、この世にとどまり続けるあなたに説明するまでもないと思いますが」
「そうでもないのだがな……」

 ラングレイは頬をかいた。生きる魅力がわからないからこうなってしまったのかもしれない、と思いながら。