Chap.3 Albus Dumbledore

 ラングレイには2度の生と2度の死の記憶がある。1度目は平凡な日本人に生まれた。古今東西の本を読み、J. K. ローリングが書いた『ハリー・ポッター』シリーズも読んでいた。
 2度目はイングランドの魔法使いの家に生まれた。親から教わる魔法だけでは満足できなくなり、やがてロウェナ・レイブンクローに師事して学んだ。学舎のホグワーツも師のレイブンクローも『ハリー・ポッター』に出てくるものだった。だが、ラングレイが生きた時代は、主人公のハリーが生まれる千年以上前のことだった。
 リドルが秘密の部屋を開けることも、その本に書いてあった。小説の中ではバジリスクがマートルの命を奪っていたが、ラングレイの行動により物語の展開通りにはならなかった。マートルは死なず、ハグリッドが冤罪をかけられて退学することも、リドルが『ホグワーツ特別功労賞』を受賞することもなかった。秘密の部屋は、開いたことをリドルとラングレイしか知らないまま、再び閉じられた。

 これからどうなるのだろう。
 ラングレイは図書室の窓辺で日向ぼっこをしながら考えた。試験期間が終わり、図書室から生徒の姿はずいぶんと減っていた。羊皮紙に羽ペンを走らせる鬼気迫る音の代わりに、のどかにページを繰る音が時折聞こえてくる。穏やかで気持ちの良い日だった。
 ラングレイは窓枠に頬杖をつこうとしたが、そのまま床まで通り抜けた。段差があるのに気がつかずに足を踏み外した人のように、前のめりに倒れ込んだ。
 くつくつと誰かが笑い声を噛み殺した。鳶色の髪と髭に眼鏡をかけた背の高い魔法使いが後ろに立っていた。

「これはこれはダンブルドアではないか。恥ずかしいところを見られたな」

 起き上がったラングレイは、苦笑して頬をかいた。
 アルバス・ダンブルドアは変身術の教師だ。『ハリー・ポッター』に登場するダンブルドアは白髪の老人だったから、ラングレイはまだ働き盛りのこの男につい老いた姿を想像して見てしまう。

「間の悪い時に来てしまったかの」
「普段はこのようなことはないのだがな。久しぶりに生きていた頃を思い出したせいか、自分の体がすり抜けることを忘れていた。……それで何の用だ、ダンブルドア?」
「最近出た中でおすすめの小説を紹介してくれんか? 試験の採点も終わったことじゃし、本でも読もうかと思っての」
「ふむ」

 ラングレイはゴーストの有り余る時間を使って、図書室に入荷した本はだいたい目を通していた。ダンブルドアの好みにあいそうな本はあったかと考え込む。

「この冬に出た、古の怪物がよみがえるというパニックホラー小説はどうだ? 書評家たちは行き当たりばったりの展開だと酷評しているが、私としては伏線をなぎ倒し、勢いだけで進むノリは嫌いではない」
「面白そうじゃの」

 ゴキブリ・ゴソゴソ豆板が好きならきっと気に入るはずだ。もしホグワーツで映画が見られるならB級映画も一緒におすすめしたかった。
 ラングレイはダンブルドアを小説の棚に案内した。表紙に描かれた鮫のミイラが、ダンブルドアの指を噛みちぎろうと襲い掛かる。もちろん絵だから、指にはなんら影響はない。鮫が牙を噛み合わせる度に歯は抜け落ち新しく生え変わり、古い牙が水底へ沈んでいく。ダンブルドアの目は好奇心で星のように輝いていた。このジャンルで間違いなかったようだ。ラングレイは胸を張った。

「ところで最近トムと仲が良いようじゃな」
「いきなりなんだ」
「あの引きこもりがトムと外に出ていた、と<太った修道士>が言っておったぞ」
「たったそれだけで言いふらされるほど引きこもっているつもりはないのだが」

 引きこもりを完全に否定できないが、不本意な評価である。この前もマートルにとりついて外に出ていた。誰にもばれなかっただけで。

「いつの間にトムと親しくなったんじゃ?」
「前からリドルは図書室の常連だったからな、いつの間も何もない」
「トムはどんな本を読むのじゃ? この本も読んだかの」
「私は利用者の貸し出し記録を他人に漏らさないぞ、ダンブルドア。図書館は利用者の秘密を守るものだ。気になるのなら本人に直接聞けばよい」

 そうして正直な返答がくれば尋ねていない、というようにダンブルドアは肩をすくめた。

「トムが闇の魔術に傾倒していないか心配なんじゃ。生徒が間違った道へ行かないようとめるのも教師の役目じゃからな」
「教師の心配というより、闇祓いが犯罪者を監視しているようだが。私は、図書館は資料提供の自由を有すると心得ている」
「目の前で闇の道に進もうとしている者がいても黙って見ているつもりか?」

 ラングレイは口の端をつり上げて、ダンブルドアにそう言われてしまう自分を笑った。
 J. K. ローリンが書いた『ハリー・ポッター』という本は、この世界では予言書のようなものかもしれない。だがラングレイに未来を変えるとも変えないともいう強い意思はなかった。千年以上この世界で過ごした。この世界で生きる人の営みは瞬く間にすぎる川の流れのようだった。水の流れに手を入れれば一時流れは変わるかもしれないが、再び本来の流れに戻ってしまう。本格的に流れを変えようとするならば治水工事をする手間と熱意が必要だろう。生きている人の行動を変えるのは難しいのだ。たとえ未来を知っていても。
 それだけに、リドルがいちゴーストの言葉で大人しくなったのが意外だったし、まさかマートルが死なずに済んだのは驚きなのだ。

「だいたい生徒に読ませたくない本はすでに閲覧禁止にしているであろう? 教師の許可がなければ読めず、私に許可を与える権限はない。そのようなことを言われても困る。あなたこそ監視以上のことをしたのか?」

 閉心術と開心術に関しては何枚も上手のダンブルドアがどう思っているのか、ラングレイが見抜くことはできなかった。

「率直な意見を聞かせてくれ、トムをどう思う」
「わからない」

 ラングレイは本心から言った。本で読んだからといって、どれほどその人を理解したことになるのだろう。
 ゴホン、と誰かが咳払いをした。司書が書架の間に立っていた。

「しゃべりすぎたみたいじゃな」

 ダンブルドアが去った。ラングレイも非難がましい司書の視線から逃げるようにその場をはなれた。