Chap.7 Tom Riddle

 図書室のカウンターの奥に、銀色に輝くゴーストが浮かんでいた。暇を持て余したラングレイが腕を上げて大きく伸びをする。とうの昔に凝り固まるような肉体はなくなったというのに、肩の筋肉がほぐれて頭がすっきりするような気がした。
 ただひとりの利用者であるリドルは、机に向かって本を広げていた。話しかけて親交を深めたいところだが、邪魔をしすぎて嫌われるのは本意ではない。
 時間潰しのうたた寝でもするかとラングレイが目を閉じかけた時、図書室の扉が開いた。

「おや、ダンブルドアではないか。今日は何の本を探しに来たのだ?」
「ちょいとトムに用があっての」

 リドルが礼儀正しく立ち上がった。仕事のついでにリドルの様子を見に来る教師は少なくない。夏休みだからといって教師も休めるわけではないのだ。

「他に生徒もいなくて寂しくはないか?」
「先生方がいらしてくださいますし、友人たちとは手紙でやりとりしています。ラングレイも良くして下さっていますから」
「当然だ。私に任せた校長の判断は正しい」

 ラングレイが得意げに胸を張った。リドルがため息をつく。

「すぐに調子に乗ることさえなければ言うことないのですが……」
「仲が良くて何よりじゃ。リドルに渡すものがあっての。来年度の学用品のリストじゃ。やっと今日作業が終わって梟便を出したのじゃ」

 ダンブルドアが羊皮紙の封筒をリドルに差し出した。ラングレイはカウンターをすり抜けて、2人のそばへ行った。

「もうそのような時期か。学用品はいつ買いに行くんだ? リドルさえよければ是非とも一緒に行きたいものだ」
「嫌ですよ。なんで一緒に行かないといけないんですか」

 リドルはつれない。だが笑顔の仮面をつけていないだけ、気心の知れているとラングレイは思いたかった。

「リドルといるのは楽しいからな。こんなに楽しいのは久しぶりだ」
「生憎、人と会う予定ですので」
「友達か、なら仕方がないな。代わりに見送りでもしようではないか。いつ行くのだ?」
「見送りもいらないです」
「行く日だけでも教えてくれぬか? その日は図書室を開けなくてよいのだろう」
「仕事をサボる気ですか。日本人のような真面目さはどこに消えたんですか」
「誰も来ないのがわかっているのに開けるほど馬鹿ではない」

 リドルとラングレイのやりとりに、ダンブルドアがくすくすと笑った。仲の良いじゃれ合いを見守るかのように、微笑ましげに目を細めている。

「君に友人ができたようで大変喜ばしい」

 リドルは眉を寄せ唇を歪めた笑顔を作り損ねたような顔をした。笑顔で肯定するには今更で、顰めっ面で否定するには優等生の外面が邪魔をしたのだろう。このような顔をリドルにさせる人はホグワーツにそうそういない。ラングレイがまた誇らしげに胸を張った。
 リドルと自分は友達なのだろうか。少なくともラングレイは友情を抱いている。だから友達として言わねばならないことがある。
 ダンブルドア立ち去った後、ラングレイはリドルに向き合った。

「なあリドル、分霊箱なんか作るなよ。人殺しはよくない」

 分霊箱について書かれた本を、禁書の棚から借りて読んだことは知っている。
 リドルは唐突な話題の変更に驚いたのか目を丸くした。見開かれた目がまるで蛇の目のようだ。

「ええ、人殺しなんてしませんよ。ただの学問としての興味ですから」
「……それならよいのだ、それなら」

 ラングレイの頭に本の内容がよぎった。もし本の通りになるのなら、この夏リドルは最初の殺人をする。

***

 ある晴れた夏の夜のことだ。リトル・ハングルトンの村に住むトム・リドルとその両親がディナーを食べていると、居間の扉を叩く音がした。

「なんだ、入れ」

 トムが、扉の向こうにいるメイドに許可を出す。小高い丘の上に屋敷を構えるリドル家は、召使いを雇えるほど裕福だ。
 だが、扉を開けたのはひとりの青年だった。黒い髪に青白い肌、端正な顔立ちはトムの若い頃に瓜二つだった。
 トムの顔がどす黒く染まり、ナイフを握る手をテーブルに叩きつけた。青年が何者か一目瞭然だった。

「魔女の子め! 母親はどうした、もう姿を見せないからのたれ死んだと安心してというに。金でもせびりに来たか? 今すぐ出て行け!」
「お前がトム・リドルか」

 青年の嫌悪に満ちた表情が、さらにトムを苛立たせた。嫌な顔をしたいのはこちらの方だ。

「ひとつ訊くが、なんでゴーントの娘と駆け落ちしたんだ?」
「誰があんな女を好きになるものか! 薬か魔法でも使ってあいつは私を誑かしたのだ! 今頃になって私に悪夢を思い出させに来たか、魔女の子め! 貴様にやる金は1ペニーもない!」

 吝嗇家のトムは、青年が金を無心に来たとしか思わなかった。
 青年がポケットに手を入れる。ナイフでも出して脅すのかと身構えたトムは、青年が木の棒を出したのを見て失笑した。

「アバダ――」
「待った」

 その制止の声はトムには聞こえない。トムとリドルの間に割り込んだ、宙に浮く半透明の男の姿も見えなかった。
 癖のある髪を三つ編みにして前に垂らし、古めかしいローブを着て、腰から下が霞みがったようになくなっている。足のないゴースト――ラングレイ・ボーグナインだった。

「どうしてラングレイがここにいるんですか。まさかずっとつけて来たんですか?」

 青年、トム・マールヴォロ・リドルの眉が跳ね上がる。

「なんだ? 誰と話している。薄気味の悪い」

 マグルにゴーストの声も姿も知覚できない。わめいているトムに、リドルは冷たい一瞥をくれると杖を振って黙らせた。テーブルに着いていた人たちが全身を硬直させ、椅子から落ちた。

「悪いとは思ったが、今朝からリドルの鞄にとりついていた」

 リドルが煙突飛行でホグワーツを出て、ダイアゴン横丁で手早く買い物をすませ、汽車に乗ってリトル・ハングルトンの村に行く間も。それからスリザリンの末裔に会って上方を集めている間もずっと、ラングレイは鞄の中にいた。

「いつの間に……!」
「リドルが朝食を食べに行っている隙にだ」
「ラングレイが見送りに姿を見せなかった時点で、警戒すべきだったってわけだ。てっきりゴーストは壁をすり抜けて寮の中に入れないと思っていたけど、僕の思い違いだったわけですね」
「ちゃんと正面から入ったさ」
「寮の合言葉を知っていたんですか」
「血みどろ男爵は私の頼みを断らないからな」

 ラングレイが蔑みの色をにじませて口の端で薄く笑った。

「ラングレイが探偵まがいの尾行をしていたなんて残念です。あなたのことは信頼していたのに」
「私もリドルのことを信頼したかった。決して人を殺しはしないと。人殺しなんてするものではない、相手がマグルであろうとも」
「あなたも陳腐な倫理観を口にするんですね」
「殺された経験者としての言葉だ」
「なるほど、それは重みが違う」

 リドルの目の奥で赤い輝きがまたたいた。杖は構えられたまま、狙いはラングレイに定められている。秘密の部屋が開いた時にはなかった緊張が、2人の間に張り詰めていた。

「……以前、僕に分霊箱を作るなとおっしゃっていましたが、それも予言書にかいてありましたか?」
「そうだ。でなければ私だってストーカーはしないとも」
「ラングレイがとめに来るということは、僕は分霊箱を作るのに成功するんだ。違うか?」

 問いかけの形をとっていたが、ラングレイの答えを必要としていなかった。確信に満ちた口調だった。確約された未来への陶酔か、端正な顔に歪んだ笑みが浮かぶ。優等生のトム・リドルの顔はもはやなかった。
 ヴォルデモート、と呼びそうになるのをラングレイは堪えた。まだどうかリドルであってほしい。手遅れでないのだと信じたかった。不安で手が震えた。心の動揺が体に出るなんて、まるで生きていた頃以来ではないだろうか。

「私は……リドルに人を殺してほしくない。それ以上に、分霊箱を作ってほしくないのだ」

 それは人の命を奪うのは許されないことだとか、傷つき悲しむ人がいるとかではなくて、もっと身勝手な理由だ。

「この夏の間リドルと過ごすは楽しかった。私はずっと一緒に過ごしたい。だから不死なんかになるな。そして死ぬ時は、どうか私と一緒にあの世に逝ってほしい」
「絶対に嫌です」

 死の呪文をその唇が紡ぐ。緑の閃光がラングレイを貫いた。