久しぶりに黒の教団に戻ったスーマン・ダークは食堂に向かっていた。その心中は無事に帰投したエクソシストのものにしては、落ち着かないものだった。室長の「今あの子が帰ってきているよ」という言葉が頭の中に居座っている。彼女が無事なのは嬉しい。だがいつ彼女が目の前に現れるかと思うと、逃げ出したいような気がしなくもないのだった。
「スーマン!」
後ろから弾んだ声――今まさに頭にあった少女が、大輪の花が咲くがごとき満面の笑顔で駆け寄ってきた。同じエクソシストのルシル・ヒースだ。
「おっかえりー!」
ルシルはスーマンの胸に跳び込んだ。香水をつけているのだろう、甘い花の香がスーマンの鼻をくすぐる。跳び込んできた勢いのわりには小柄な体は遠慮がちに体に触れるか触れないかのところで止まり、首に回された腕の力は優しい。スーマンが怪我していないか推し量っていた。
スーマンはルシルが全力で抱きついても大丈夫だと判断する前に、彼女を引き剥がした。
「こういうのはやめてくれと言っただろう」
「ええー、いいじゃん。スーマンに会うの久々なんだし。この前本部に戻った時はすれ違いになっちゃったもんね」
ルシルは笑って、その場でステップを踏んだ。短いスカートがひらひら動き、白いタイツに包まれた細い足が引き立つ。色気が出るにはまだ肉付きが足りないはずなのに、スーマンは思わず少女から視線をそらした。
スーマンはこの少女が嫌いではない。それどころか彼女の安否は他のエクソシストの安否より気にかけている。抱きつかれるのも彼女の無事が実感できて悪くない――彼女が自分に男女の愛情を抱いてさえいなければ。
少女が教団に来たばかりの頃、家族と別れて寂しげな横顔を放っておけずに、スーマンから声をかけた。自分の娘とそれほど歳は違わないように思ったから。今でもあの頃とスーマンの気持ちは変わっていない。家族への思いも。それなのに自分の娘よりも少し年上の少女は、いつからか共に戦う仲間以上の思いを自分に向けるようになっていた。
「ねえねえ、今夜はどうするの? ジョニーとチェス? 寂しいならあたしが添い寝してあげるよ」
「私には妻と子がいる」
「知ってるよ」
ルシルはステップを踏むのをやめて、静かに微笑んだ。さっきまでの元気な少女が一転して女の表情だ。
「あたしは第2の女でもいいから。離婚してなんて言わない。嘘じゃない。未来永劫、誓うわ」
その後ろに暗いものがあることをスーマンはわかってしまう。スーマンが妻子に会うことはこれから先絶対にない。この世からアクマがいなくなり、エクソシストが用済みとなった世界が来るまでは。そしてスーマンも少女も、自分たちが生きているうちにそんな日が来るとは思っていないのだ。だから少女は、スーマンが決して家族の元に帰れないと知っているから、2番目の女でいいと言える。
「君には私よりも相応しい相手がいるさ」
「そんなことないわ。あなたより素敵な人はいない」
けれどスーマンはルシルの言葉に首を横に振る。スーマンには、ルシルがイノセンスに選ばれたばかりにちゃんとした恋をする機会を失ってしまったように思える。普通の生活をしていたら、こんな年上(しかも妻子あり)の男に惚れるとは思えない。
ルシルは瞳の奥に情熱を燃え上がらせてスーマンを見つめた。
「あたしはスーマンが好きよ。相応しいかなんて、そんなこと知らない」
触れれば火傷しそうな温度に、スーマンは逃げた。
「……夕食がまだなら、一緒に食べるか」
ルシルは不満げに唇を尖らせたが、弾む足取りを隠しきれずにスーマンの隣に納まった。食堂では何事もなかったかのように当たり障りのないことを話し、食べ終わると、ルシルは笑顔で「いつでもあたしの部屋に来ていいからね」と手を振ってスーマンと別れた。
翌日の昼、ルシルは次の任務に出立した。
***
ルシルが任務から戻ると、教団の空気がおかしかった。立て続けにエクソシスト殺しがあったからだろうか。しかし殊更こちらを気遣う態度をとられる理由にはならない。今までにも仲間の死は経験しているのだから。それで、エクソシストの中でもあたしと親しい誰かが死んだんだな、とわかった。通信でその死を伝えなかったのは、任務中に動揺させないためだ。
誰なのか、想像をめぐらそうとする心を抑えて、室長室に入った。コムイの顔を疲れていたがやつれてはおらず、リーナリーではないのだとわかった。ホッとする一方で不安が膨らむ。無事を祈ろうとすることさえ、その人の死を招きそうな気がして、感情を体から叩き出した。
コムイからねぎらいの言葉。任務の報告。機械的にいつも通りのことをした後、室長は告げた。
「スーマン・ダークが死んだ」
ルシルは自分の息の根を止められたような気がした。
「咎落ちだ」
なんで、と問おうとしたが、体は石のように硬くなって声が出ない。それでも室長はルシルの言わんとすることを察して説明を始めた。
聞きたくない――何度耳を塞いで叫びそうになったか。でも聞かなくてはならなかった。あの人のことだから、全てを。イノセンスに適合してからつらいことばかりだった。家族と引き離され、戦場に放り出され、それでも胸のローズクロスの重みに耐えてきた。それもこれもあの人と会って、泥沼の日々にもかすかな救いはあると知ったから。両足はしっかりと体を支えて立っている。全てを聞くまで倒れるわけにはいかなかった。
スーマンは敵に命乞いをし、見逃してもらう代わりに仲間のエクソシストの場所を売ったという。これが一連のエクソシスト殺しの真相だった。そして神は裏切り者に天罰を下す。
「なんで――なんで」
ルシルの声はひび割れていた。自分でも泣きたいのか、コムイに八つ当たりしたいのかわからなかった。
「ただ生きようとしただけじゃないですか。仲間を売った? 自分じゃ倒せない敵を仲間に任せただけですよ! どうして、どうしてただ生きようとしただけでそんな罰をうけないといけないの!?」
体は寒気を感じて震えた。ルシルは叫ばずにはいられなかった。こんな理不尽なことあってたまるか。
「あたしの所に敵が来てくれればっ! あたしが殺してあげたのに! あたしがスーマンの代わりに――……そうすればきっと、神様だって、こんなの裏切りじゃないってわかったのに――」
喉の奥がきゅっと締まって、しゃくり上げるかのように喘いだが、涙は出なかった。涙でくもった目では敵と向き合えない。全身に殺気が満ち、今なら誰にも負けないと思った。
コムイの表情はつらそうだった。
「……スーマンが他のエクソシストの居場所を訊いた時、ルシルちゃん、君の場所はきかなかったんだよ」
ルシルの顔がくしゃくしゃに歪んだ。膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。
あなたと出会えたから、神を恨まずにいられたのに。これではもう、神様のために戦う意味がわからなくなってしまう。
ルシルは、ずっと家族と共に生きることを望んでいたあの人のことを思って泣いた。