天国に一番近い場所

 スーマン・ダークは、床の上で倒れているジョニーを発見した。うつぶせになっているジョニーの指先が弱々しく動いく。頭を動かす力も残っていないのか、目線だけがスーマンを向いた。

「……あぁ、スーマン、僕はもうだめだ……すまない……」
「気にするな、ゆっくり休め」

 ジョニーの体から力が抜けた。すぅ、と安らかな寝息を立て始める。ここは黒の教団、化学班研究室。今日もまた、体力の限界を迎えた班員が寝落ちた。それだけ激務であったし、寝食を忘れて研究に没頭できる集中力が裏目に出たせいでもある。
 スーマンは、ジョニーをチェスに誘うために来ていた。だがこれでは仕方がない。床の上では体が痛いだろう、とスーマンはジョニーをソファに運ぼうとしたが、ソファの上は書類の山で占領されていた。研究室はお世辞にも整理整頓されているとは言い難い。スーマンはため息をついて、その辺にあった誰のものともしれない毛布をジョニーにかけた。

「リーバー、もしよければ資料の整理を手伝おう」
「悪いな。それじゃその棚の辺りを頼む」

 リーバーは書類とにらみ合ったまま言った。
 誰もいない自室に戻るのも寂しい。スーマンは雑多に詰め込まれた紙を年代順に並べていった。アクマの出没データだった。その中にドイツ国内のものを見つけて思わず手を止めてしまった。家族の住んでいる地域を探してしまう。どうか妻と娘がアクマに襲われることのないように――

「みなさーん、休憩にしましょう! ジェリーさんからクッキーをもらったの!」

 朗らかな少女の声が、甘い香りと共に研究室に飛び込んできた。エクソシストのルシル・ヒースだ。休日だから黒の団服ではなく、鮮やかな黄色のワンピースを着ている。

「うわ! ジョニー、そんな所で寝てたら踏んじゃうよ?」

 ルシルはぐっすり眠るジョニーをまたいだ。テーブルにあった書類を乱雑に落とし、クッキーの乗ったお盆を置く。どうりで資料がバラバラになるわけだ、とスーマンは納得し頭を抱えた。クッキーに群がる班員たちに、ルシルの行動を気にする者は誰もいないようだった。

「スーマンも食べよ」

 ルシルははずむ足どりでスーマンの隣に来た。スーマンは先ほどの行動を注意しようとしたが、見本となる大人たちがこの状態――科学班員のデスクに積み上がった今にも雪崩を起こしそうな書類や、物を詰め込みすぎて閉まりきらずに開けっ放しになった引き出しの惨状――ではまるで説得力がないだろう。代わりに、スーマンはルシルの服を褒めた。

「とても素敵だ。似合っているよ」
「えへへ」

 ルシルは嬉しそうに笑って、くるりと回った。ワンピースが、花がほころぶようにふわりと広がる。向日葵みたいに活発な少女によく似合っていた。会う度に、ルシルは新しい服を着ていた。成長期ゆえにすぐにクローゼットの中身が入れ変わるためであったし、クローゼットの中身が一巡する前にどちらかが任務に旅立ってしまうからだった。
 各地を飛び回るエクソシストの2人は会えない時間の方が長い。だから、2人揃っている時くらいは一緒に過ごせるよう、気を利かせてルシルにスーマンの居場所を教える職員は少なくない。ジェリーがクッキーを持たせたのも、そうなんだろうなとスーマンは推測する。ルシルがスーマンに恋心を抱いていることは、本人が公言していこともあって、周知である。
 しかし、幼い恋心は相手が自分でなければ微笑ましいのだが、とスーマンにとっては悩みの種であるのだった。

「ねえ、何見てたの?」

 ルシルがスーマンの手元を覗き込んだ。好きな人のことはなんでも知りたい、恋する乙女の好奇心だ。

「いや、これは……」

 とっさに隠した。故郷に残した家族への思いを知られたくなくて、隠す必要もないのにしていた。この少女にだけは、知られたくないという気持ちから起こった行動だった。幼い少女を、自分の娘の代わりとしてみている後ろめたさから。
 ドアが開いて、リナリー・リーが入ってきた。初めて見る老人と少年と一緒だった。新しいエクソシストに教団を案内しているの、とリナリーは言った。

「我らはブックマンと呼ばれる相の者。こちらの小僧の名はラビ。私の方に名はない。ブックマンと呼んでくれ」
「初めまして。スーマン・ダークです」

 スーマンが老人と握手を交わす。ラビと呼ばれた少年はまじまじとルシルを見て言った。

「あんたの娘さん?」
「いいえ、違うわ。ルシル・ヒース、あなたの先輩のエクソシストよ」

 ルシルはむっとした様子で、胸を張ってラビを睨み上げた。

「ははっ! そりゃ悪かった」

 ラビにまったく悪びれた様子はない。年下の少女の威嚇は他愛のないものなのだろう。ラビは、仲良くクッキーを食べている科学班員たちを見て言った。

「なんというか和気藹々とした雰囲気さね」
「ふふ、そうでしょ。ここを“ホーム”って呼び人もいるの」

 リナリーは微笑んだ。
“本陣”や“基地”じゃなくて、“家”としてのホーム。
 ルシルが、リナリーたちが部屋を出て行った後、スーマンに言った。

「ホームかぁ……。スーマンだったらここを何にたとえる?」
「そうだな……」

 スーマンは悩んだ。少なくともホームではない。スーマンのホームはドイツにいる妻子のところだ。

「私だったらね、“天国に一番近い場所”かな」

 澄んだ眼差しで遠くを眺めて、ルシルは言った。その横顔は全てを達観したように大人びていて、スーマンは少女の真意を測りかねた。

「美味しいご飯をお腹いっぱい食べれるし、いつでもお風呂に入れるんだもの。洋服だって、ほら! こんなに可愛いのを着れる!」

 スーマンの方を向いたルシルはにっこりと微笑んだ。いつもの元気な笑顔だった。
 黒の教団に来る前はとても貧しい生活をしていたのだ、とルシルからスーマンは聞いたことがあった。明日のご飯があるかわからず、たらいに張った水で体を洗うのがたまの贅沢で、つぎはぎだらけのおさがり以外の服は着たことがなかったのだという。

「うんうん、ここなら好きなだけ研究に打ち込めるしね」

 いつの間に起きたのか、ジョニーがクッキーを片手に会話に加わった。睡眠欲が満たされた次は食欲だというように、もそもそと食べていた。

「それにね、ここにはスーマンがいるもの」

 ルシルはスーマンの腕に抱き着いた。慌てるスーマンを、ジョニーが笑顔で見ていた。

***

――そうね、やっぱりここは天国に一番近い場所。

 心の中で、ルシルは呟いた。
 教団のホールに棺桶があった。白いコートのファインダーが棺桶にすがりついて泣いている。ルシルはこれから任務に向かう所だった。黒い団服がまるで喪服のようだった。

「ルシル……」

 見送りにきていたスーマンが気遣わしげに名前を呼んだ。平気よ、とルシルはこたえた。今さら他人の死で怖気づくには、あまりにも人の死を経験しすぎていた。

「ちょっと考え事をしていただけ」

 明日、あの棺桶に入って天国に送り出されるのはルシルかもしれないし、スーマンかもしれない。アクマとの戦いはいつだって死と隣り合わせだ。でも、だからこそ、

「行ってくるね」

 ルシルはスーマンに飛びついて、頬にキスをした。驚く彼の顔を目に焼き付けて、微笑む。いつ死ぬかわからないからこそ、今を全力に。ルシルは軽やかな足どりで戦場に向かった。