もうひとつの生き方

 腹を殴られた。みぞおちに一発。息が止まる。ルシルは後ろに倒れた。受け身をとる余力もなく、石畳の道に背中を打ち付けた。
 苦しい。科学班特製のコートを着ていなかったら、腹に風穴があいていただろう。

「死ぬがいい、エクソシスト!」

 アクマが来る。人の形をした、白と黒の殺戮兵器。同行していたファインダーはこいつに殺された。ルシルが守れなかった命。そして今は自分の命も危ない。
 痛みにあえいだ。指一本動かす気力もない。

――これで終わり。やっと終われる。

 自分が弱いことをルシルは知っていた。いつか戦いの中で殺されると思っていた。それは死ぬ覚悟というよりは、あたり前の事実としての認識だ。死なない人はいないんだから仕方ないよね、と諦めに似た受容の感覚。エクソシストが老衰で死ねるなんて思ってないもの。
 いつかくる死が、いま来たってだけ。
 怖い?
 ほっとしている?
 わからないけど、ルシルは自分でも不思議なくらい穏やかだった。ただあの人のことが気がかりだった。きっと悲しんでくれるだろう。
 ごめんね、スーマン。でもあなたが悲しんでくれると思うと、少し嬉しいの。
 痛みのせいか、視界が涙でにじんだ。
 死の淵で1つだけ望むのなら、どうかスーマン、私のことを忘れないで。

 アクマが、鋼鉄のように固い拳を振り上げ――そして、頭が爆ぜた。
 雷が落ちたかのような、鼓膜が痺れるほどの銃声が響いた。黒い血を噴き出しながらアクマが倒れる。まるで神が下す審判の鉄槌のごとき容赦のない一撃だった。圧倒的な速度と力で、逆らう暇も与えずに破壊した。
 ルシルは呆気にとられて、目の前に広がる青空を見つめた。気づけば涙は引っ込んでいた。鮮明になった視界に、男の姿が入り込んできた。

「よう、生きてるみたいだな」

 顔の半分を仮面で覆った男だった。鋭い目にふてぶてしい笑みを浮かべた口元。赤い髪は、新鮮な血液のような生命の色をしていた。
 助かったんだ、と実感がわいた。あぁ、くそ、神様め。なんて思し召しだろう。感謝でもすると思ったか。このロクでもない神様め。ここで生き残ったって、また今日みたいな苦しい目に遭うだけよ。まだ戦いだらけの人生を送れっていうの。――それでも、それでも、生きてるのが嬉しいなんて。

「起き上がるのに手はいるか」

 男が手を差し伸べる。
 ルシルは腕を上げようとしたが、くらったダメージは思った以上に大きかった。まだ少し寝かせて、と呟いた声は相手に届いただろうか。意識が遠のくのに任せて、ルシルは目を閉じた。

***

 アルコールと煙草の臭いがした。天井に紫煙が漂っている。ここは実家だろうか、とルシルは一瞬勘違いしたが、腹部の疼痛がアクマとの戦闘を思い出させた。ここは一体――?

「気分はどうだ?」

 声がした方を向けば、仮面の男がベッドに腰掛けていた。手には葉巻を持っている。サイドテーブルの上の灰皿は、大量の吸い殻でハリネズミのようなフォルムになっていた。その隣の酒瓶は洒落たデザインで、酒を飲まないルシルにも高級品だとわかった。
 休んだおかげで体を動かせるくらいに回復した。ルシルは上半身を起こした。

「助けてくれてありがとうございます」
「礼はいらん。こんな美人と知り合えたんだ、釣りがくるくらいだ。あんた、名前は?」
「ルシル・ヒースです」
「いい名前だな、ルシル」
「あなたは誰ですか?」

 ルシルが初対面の男に警戒心を抱いていないのは、男が同じエクソシストだからだった。仮面に気を取られてしまいがちだが、男が着ているのはローズクロスのエンブレムがついた黒い団服だ。

「クロス・マリアンだ」

 男は、当然知ってるだろというような自信に満ちた態度で言った。だが、ルシルはきょとんと首を傾げた。

「なんだ、まさか本部の奴ら新人に俺のこと教えてないのか!?」
「そうみたいです」

 言ってから、遅れてルシルは思い出した。うっすら聞き覚えがある。年単位で連絡をよこさない元帥のことを、コムイ室長はクロスと言っていなかったか。死んだか、サボりか、2つの憶測が流れていた。ルシルは、死んだ人を覚えていてもなんにもならないでしょうと早々に頭の隅に追いやっていたのだ。

「なんで本部に連絡しないんですか。みんな心配してましたよ」
「やっぱり知ってるじゃねえか」
「今思い出したんです」
「本部嫌いなんだよ」

 ルシルはうなずいた。自分もあまり好きじゃないから共感をこめて。
 クロスは水の入った瓶をルシルに差し出した。

「なあ俺と一緒に来ないか、ルシル」
「あなたの同行者がいいって言いますか?」

 ルシルは水を受け取って飲む。どれくらい寝ていたのか、すきっ腹に水が染み入る。
 部屋のベッドはルシルが横になっているものと、クロスが腰かけているものの2つ。ルシルのためにわざわざ用意したのではないだろう。几帳面に床に並べられた酒瓶の数が、何日も前からこの部屋に滞在していることがわかる。
 女、ではないと思う。化粧や香水の臭いがしないから。

「弟子が師匠の決めたことに逆らえるかよ」
「エクソシストなんですか!?」
「まだ見習いだがな」

 連絡はサボっているものの、ちゃんと元帥として後進を育てているようだ。ルシルは驚いて真ん丸に見開いた目のまま、クロスに訊いた。

「その人はどこにいるんですか?」
「借金取りに捕まっている」
「え?」
「あれくらい追い払えないんじゃまだまだだ。さて、腹は減っていないか?」
「んんん?」

 ルシルは耳を疑った。借金ってなに? 黒の教団がバックについていて金に困ることってある?

「俺の奢りだ。旨い飯をご馳走しよう」

 訊きたいことはまだあったが、空腹には勝てなかった。
 外は地中海の晴天が広がっていた。ギリシアの港町だ。レストランのテラス席にクロスとルシルはついた。新鮮な魚介類とスパイスのきいた味付けに舌鼓を打ちながら、他愛のない会話をした。好きなこと、嫌いなこと。今まで行った国の話。アクマやイノセンスの話題はない。

「ツケで。白髪のガキが払う」

 当たり前にクロスが言った。これが借金の理由だとわかったが、ルシルにはまだ疑問が残っていた。

「なんで教団に請求しないんですか?」
「足がつくだろ」
「なるほどです」

 もし自分が教団から逃げ出す時はいつか参考にさせてもらおう、とルシルは思った。幼い頃からエクソシストとして生きてきて、教団を離れるなんて今まで思いもしなかった。だが、目の前にいるクロスはこんなにも自由に生きている。こんな生き方もあるなんて。クロスといると驚きが多い。
 教団から離れて生きる術を知っているのに、クロスは団服を着たままだ。ローズクロスをつけていたらアクマに狙われるのに、自分がエクソシストだと隠しもしない。本部への連絡はサボっているけれど、エクソシストとしてアクマを破壊することは全うしている。すごい人だと、ルシルは尊敬した。
 2人は店を出た。ルシルはかわりに支払うことになる弟子に心の中で感謝した。ルシルは大きくのびをし、潮風を肺いっぱいに味わう。

「うん、やっぱり本部に戻ります。きっとスーマンが心配してるから」
「そいつがお前の男か」
「他人の男なんですけどね」

 無邪気に振る舞っていたルシルの表情に陰が差した。
 クロスは愉快そうに笑った。

「その歳で不倫とはやるな」
「付き合っていないんです。本気にされてないから。まだ子供だって」
「俺から言わせればそいつは見る目がない。そいつに愛想つきたらいつでも俺のところにきな。大歓迎だ」
「その時はこないだろうけど、覚えておきます」

 ルシルはにっこりと笑った。
 クロスはルシルを駅まで送ってくれた。汽車の車窓から身を乗り出したルシルは大きく手を振った。

「ありがとうございます! すっごく楽しかったです!」

 汽車が走り出す。プラットホームから見送るクロスの姿が小さくなっていく。向かうは教団本部のあるイギリスへ。エクソシストとして生きることは、痛くて苦しくて嫌なことばっかりだけど、生きてスーマンに会えるからまだ頑張れる。
 ルシルは座席に背を預けて、窓の外に広がる青空を眺めた。次の駅に着くまでの退屈な時間を、もしもクロスとその弟子と一緒に旅をしたらどんな日々になったんだろうと想像して楽しんだ。