1991年

 野々村叶世という女の子にはホグワーツから入学許可証が届かなかったけれど、ドロシー・ダーズリーには届く。だって、ここにはハリー・ポッターがいてホグワーツもあるのだから!

 

 

***

 1991年の夏はドロシーにとって特別だった。
 弾む足取りで学校を出て、鼻歌混じりに小雨の中を歩く。イギリスの天気には慣れたもので、すぐに乾くとわかっているから傘はささない。
 プリベッド通りに入ると、白髪混じりのおばさんが松葉杖をついてよたよたと歩いていた。隣に住むフィッグは、ドロシーとダドリーの誕生日に足を骨折したばかりだった。

「ご機嫌ね、ドロシー。いいことがあったのかい?」
「明日から夏休みなんです。困ったことがあったら言ってください。買い物くらいなら私が行ってきますよ」
「いいのかい? 助かるよ。この足じゃ重いものはとてもじゃないが運べなくて。明日リストを渡すから、悪いけど行って来てくれるかい?」

 ドロシーは笑顔でうなずいた。親からも親戚からもたくさん誕生日プレゼントをもらったが、フィッグの怪我が一番嬉しかった。物語の通りにハリーも一緒に動物園に行くことになり、蛇の水槽のガラスが消えたから。この世界には確かに魔法がある。
 4番地にある芝生の庭の一軒家がドロシー自慢の我が家だ。全世界に向けて言いふらしたいところだが、個人情報の観点から自重している。それにこのすごさが本当にわかる人はマグル界にも魔法界にもいないだろう。

「たっだいまー!」

 玄関マットで靴の裏の汚れを丁寧に落とした。いつもピカピカに磨かれた床を汚したくない。
 リビングに入ると、母親のペチュニアはマントルピースの写真立てをどかして、拭き掃除をしていた。娘の方を見ることなく、ペチュニアは訊く。

「ダドリーちゃんは?」
「ピアーズの家でゲームしてくるって」
「そう。これから買い物に行ってくるけど、余計なことをするんじゃないよ」
「はあい」
「本当にわかっているんだろうね? 絶対にするんじゃないよ。ハリーには罰が必要なんだからね」
「はいはい。部屋でジュース飲みながら漫画でも読んでるよ」

 ペチュニアは疑わしそうな目をしていたがそれ以上は言わず、現像したばかりのダドリーの写真を一番目立つ所に置き直した。ドロシーに似た顔が――自分が太るとこうなるのかと想像すると食欲を抑えられる――巨大なバースデーケーキを前にしてご満悦だ。誕生日当日は散々だったから翌日改めてバースデーケーキを食べたのだ。
 ドロシーは心の中でガッツポーズして、ペチュニアを見送った。買い物に行ったら1時間は帰ってこない。父親のバーノンが仕事から戻るのもまだ先だ。
 足音を立てないよう階段を上る。前にハリーが振動がうるさいと言ってから気をつけるようになった。
 両親の寝室に忍びこみ、壁にかかった風景画の前に立つ。美術館の展示品みたいに埃ひとつない額縁をひっくり返し、裏に吊るされた銀色の鍵をとった。使い終わったら手垢で曇らないよう拭いておかなければならない。小さな証拠だってママは見逃さないのだ。
 そっと階段を降りた。階段下の物置の扉をノックする。

「ハロー、ハリー。私よ」

 南京錠を外してドアを開けると、小柄な男の子が出てきた。ずっと薄暗い所にいたから眩しそうに目を細め、大きく伸びをして体をほぐす。痩せっぽちの体にはサイズの合わないダドリーのお古を着ていた。ドロシーの服の方が大きさが合うだろうが、女物はさすがに勧められない。

「今日も最悪って顔だね」
「こんな狭い所にずっといたら誰だってこうなるよ。今日で9日目だよ? まだダドリー軍団に追いかけらる方がマシさ」

 ハリー・ポッターはマントルピースの写真立ての中にはいないこの家の居候だ。ドロシーの同い歳の従弟で、両親をハロウィンの日に亡くしている。額にある稲妻型の傷跡はその時のが原因だ、とバーノンとペチュニアは言っていた。
 生き残った男の子――あの物語の主人公。

「顔がにやけてるよ」
「だって明日から夏休みなんだもん」
「ああ、忘れてた。これからずっとダドリーが家にいるのか」
「でも夏休みが終わればダドリーと別な学校に行けるよ」
「そうだけどさ。……ドロシーとも別々になるじゃないか。なんて名前の女子校だっけ?」

 ハリーはため息をついて、小さな肩を落とした。ドロシーの水色の目が喜びに輝く。

「それって私と離れたくないってこと!? 嬉しい!」
「うわっ!」

 衝動のままドロシーが飛びつくと、ハリーはよろめいたがしっかり受け止めた。肉付きが薄くて骨の硬さがはっきりとわかる体。これはいけない、とドロシーの使命感が燃えた。いっぱい食べさせなければ。

「冷蔵庫に卵があったはず。焼いて食べよう。棚のお菓子も。昨日の夜ダドリーが食い尽くしてなければね」

 ペチュニアがハリーに与える食事は育ち盛りの男の子がお腹いっぱいになる量ではなかったし、お仕置きにご飯抜きになることも珍しくなかった。ダドリーには際限なく食べさせるのに。ドロシーは両親のそういうところが嫌いだった。ハリーは居候の立場をわきまえなきゃいけない? そんな必要あるもんか。甘やかされてブクブク太ったダドリーもある意味不幸だ。飢えと肥満、どちらも健康的ではない。
 卵とミックスベジタブルでオムレツを作り、冷蔵庫からオレンジジュース、ダドリーのお菓子棚からチョコバーを頂く。ドロシーたちは束の間の自由を満喫した。

「ストーンウォール校ってどんなとこだと思う? ダドリーがいないってだけで天国だろうけどさ」

 大して期待していない様子でハリーは言った。学校の教師はハリーが受ける虐待や虐めに気づいていても何もしなかったから無理もない。
 大丈夫だよ、ハリーはホグワーツに行くんだから――喉元まで出かかった言葉をドロシーはオレンジジュースと一緒に飲みこんだ。
 前世の記憶があること、そこで得た知識のことはハリーにも秘密にしていた。今はまだ言うべき時ではない。普通じゃないことが嫌いなパパとママに隠すためには、ちょっと口を滑らしやすいハリーには言えなかった。

 

 

***

 野々村叶世は死んだ後、気がついたらドロシー・ダーズリーという赤ん坊になっていた。もう1歳を過ぎていて、家の中には双子の兄のダドリーと従弟のハリーがいた。ハリーには額に稲妻の形の傷跡があり、家では時々不思議なことが起きていた。物が浮いたり、ベビーベッドにいたハリーが風に乗ったように別な場所に移動したり……そんな魔法みたいなことが。
 どうやら異世界転生ってやつをしたらしいと気づくのは早かった。トラックに轢かれたわけでも、転生前にチートスキルを授けてくれる神様に会ったわけでもなかったが。
 ここは『ハリー・ポッター』の世界だ。叶世の大好きな物語。小説も映画も見たし、原書で読みたくて英語の勉強も頑張った。
 その物語にはドロシー・ダーズリーという登場人物はいなかったが、異世界転生とは得てしてそういうものだと他の小説やアニメで知っていたから気にしなかった。
 異世界転生したらチートスキルを持っているのが定番で、叶世の場合はきっと原作知識がそうなのだろう――もしかしたら数百年に一度のすごい魔法の才能があるのかもしれない――主人公のハリーにこれから何が起こるのか知っている。ほのぼの学園物にならないことも、死んじゃう人が出ることも……。でも、知っているということは防ぐこともできるということだ。セドリックもシリウスも誰も殺させない。ドロシーがみんなを助けるのだ。
 野々村叶世だった頃の11歳の夏、もうサンタクロースの正体が親だということも、特撮ヒーローは作り物でアクションシーンはスタントマンが演じていることも知っていたが、梟が手紙をくわえて飛んでくるのではないかと期待していた。結果はもちろん不思議なことは何も起こらず、例年通り夏休みが終わり小学校に登校した。夢見がちな少女はフィクションと現実の違いを思い知らされた。

――でも、この世界でなら。

 ドロシー・ダーズリーの11歳の夏は希望に満ちたものだった。ホグワーツから手紙が来ないか空を見上げて梟を探す癖がついた。

 ある朝キッチンに入るとひどい異臭に迎えられ、ドロシーは鼻の頭に皺を作った。

「うわ、何これ。ひどい匂い」
「ハリーの制服を作ってやってるんだよ」

 ペチュニアが灰色の液体で満ちた大きなタライに布を浸している。よく見れば雑巾ではなくズボンとジャケットだった。
 どうせ無駄になるのに、と思うが口には出せない。ホグワーツに行きたくても行けなかった可哀想なママ。哀れだし、ハリーを虐める様は無様だ。冷ややかに灰色に汚れるママの手を見た。きっとママも娘の気持ちに気づいているから息子のように愛してはいない。

「買った方が早くない?」
「ハリーのせいでどれだけ金がかかると思ってるんだい。ただでさえダドリーもあんたもパブリックスクールに入学するってのに」

 夫は社長で裕福だという自慢も、家の中ではこの通り。節約するならダドリーに食欲と物欲を我慢させる方が先じゃないの、なんて言っても無駄なことだ。ドロシーは黙って肩をすくめた。
 ドロシーが紅茶を淹れる用意をしていると、遅れて来たハリーとバーノンも異臭に面食らっていた。
 玄関の方から郵便が届いた音がして、ドロシーの心臓がドキリと跳ねる。今日こそ届いているかもしれない。すぐに行きたいのに、全員のカップに紅茶を注いでいる最中だった。

「ハリー、とって来い」

 バーノンに命令されたハリーは、ダドリーに押しつけようと言い合った後にキッチンを出た。そして戻ってくると、手紙をバーノンの前に置いた。ただ1通だけを除いて。ハリーの手には分厚い封筒がある。パルプ紙の白さとは違う黄ばんだ、きっとあれが羊皮紙というものだろう。
 ドロシーの鼓動はますます早くなった。唇を舐め、いつもと声色が変わらないようにしながら言う。

「ねえ、ハリー」
「パパ! ねえ! ハリーが何か持ってるよ」

 邪魔されたドロシーはダドリーを睨みつけたが、気づかれず余計に苛立ちを募らせただけだった。
 バーノンとダドリーの注意がハリーに向いているうちに(「それ、僕のだよ!」「お前に手紙なんぞ書く奴がいるか?」)ドロシーはテーブルから手紙をとった。
 請求書の茶封筒が1通。バーノンが読んでいたのはマージおばさんからの絵葉書だ。ドロシー宛の物はなかった。
 呆然としていたらバーノンに怒鳴られた。

「あっちへ行け! 3人ともだ!」

 手紙を奪われたハリーは食い下がったが、最終的にダドリーと2人襟首をつかまれて部屋から放り出された。それからドロシーも押し出され、部屋に突入しようとしていたハリーとぶつかった。
 ドアが閉まるや施錠の音がする。バーノンの態度は普通ではない。ドアに耳をつけてなんとか聞きとろうとする2人を、ドロシーは後ろからポツンとひとりで眺めていた。
 仕事に行く時間になりバーノンが出て行った後、ドロシーはハリーに訊いた。

「手紙って、ハリーだけ? 私宛のはなかった?」
「うん。ドロシーのはなかったよ」

 何かの間違いだ。考えられる理由が瞬時に頭に浮かぶ。きっと届くのが遅れているに違いない、手紙をくわえた梟が迷子になっているのかも……。
 胸がドキドキした。さっきと身体現象は同じなのに今は不安でいっぱいだった。

 それからの毎日はバーノンと手紙の攻防戦だった。ハリー宛の手紙は日増しに増え、配達の卵に紛れこんで侵入したり暖炉からあふれてきたり。いよいよ追い詰められたバーノンは車で逃避行を始め、嵐の小島に辿り着いた。
 物語と同じ展開なのにドロシーはちっともワクワクしなかった。

「奴らのせいでドロシーがすっかり元気をなくしたじゃないか。でもここまで来たら連中も諦めるだろう!」

 勝利を確信してバーノンは上機嫌だ。ドロシーがふさぎこむ原因はしつこい手紙のせいだと疑っていない。ハリーからはバーノンに振り回されて疲れているせいだと思われている。
 その夜は眠れなかった。
 小さなボロ小屋はファミリー向けの宿泊施設ではなかった。隙間風が入ってくるし、ベッドは奥の部屋に1つきりで両親が使っている。ダドリーはペチュニアが整えた居間のソファで眠った。ドロシーは硬いテーブルの上で横になったがまだマシな方で、ハリーは埃っぽく冷たい床だった。
 激しい雨と風が木の壁を叩く音。ダドリーのいびき。打ち寄せる波の音。空を裂く雷鳴。ドロシーの心臓の音はそれらに紛れて聞こえなくなったが、不安そのものは消えてなくならなった。
 稲光が部屋を照らす。ハリーはまだ眼鏡をかけて起きていた。テーブルから降りて、隣に座る。なるほど、ハリーはソファからはみ出たダドリーの手の腕時計を見ていたらしい。蛍光塗料が塗られた文字盤が時刻を教えてくれていた。

「もうすぐハリーの誕生日だね」
「うん。こんな最悪な誕生日は初めてだ。今までだっていいとは言えないけど、まだ寒さは防げていたからね」

 ううん、ハリーの誕生日はもうすぐ最高のものになる、とドロシーは心の中で呟いた。
 日付が変わり7月31日になった。
 大砲のような大きなノックで小屋全体が揺れる。待ち望んでいたお客様の登場だ。ドロシーはドアに駆け寄り、かんぬきを外して開けた。
 目の前に立つ巨大な人物が壁となって横殴りの雨を遮る。ハグリッドはにこりと微笑んだ。

「よう、ここまで来るのは骨だったぞ。中に入れてくんねえか?」
「どうぞ」
「入れるな、ドロシー!」

 奥の部屋からバーノンが出てきて叫んだが、すでにドロシーは道を開けて通していた。

「お茶でも入れてくれんかね?」
「ごめんなさい。何もないんです、ここ」
「こっちには銃があるんだぞ!」

 バーノンがライフルを手に威嚇するが、ハグリッドにとっては子供の兵隊ごっこみたいなものだろう。気にせずにハリーに話しかけていたが、バーノンが喚き続けるのでうんざりしたらしい。銃を奪い、あっさりと曲げて隅に放り捨てた。
 ハグリッドがハリーに話す間、ドロシーは黙って聞いていた。手紙は、手紙はまだ?

「ハリー――お前は魔法使いだ」
「僕がなんだって?」

 困惑するハリーに、ハグリッドは絶対に喜ぶと疑わない顔で手紙を渡した。

「さて、手紙を読む時が来たようだ」

 ドロシーは待った。でも、ハグリッドがもう1通手紙を出す気配はない。

「――ねえ、私の手紙は?」
「うん?」
「私にはないんですか? ホグワーツの入学許可証」
「いんや、俺が預かったのはハリーの手紙だけだ」

 ああ……やっぱり。途中から嫌な予感がしていたのだ。
 目の前が暗くなるというのはきっとこういうことだ。ふらついたドロシーを支えたのはペチュニアの手だった。ママから触られるなんていつ以来だろうか。それもこんなに優しく。
 哀れなママがドロシーを見つめる。唇が震えて口角がわずかだが確かに笑みの形に上がっている。同類を見る目――見下していた相手と同じところに落ちた。

「よかったのよ、ドロシー。魔女なんてなるもんじゃないわ。あなたはママたちと同じまともな人間なんだから!」

 きつく抱きしめられながら、ドロシーは自分が魔女じゃないことを認めるしかなかった。

 

 

***

 ホグワーツに入学したら梟を飼うのが夢だった。叶世という名前だった頃、梟の飼い方の本を図書館から借りたりネットで梟の種類を調べたりした。アナホリフクロウ、コキンメフクロウ、ワシミミズク……今でも見れば種類を当てられる。
 マグルのドロシーが通うのは地元のパブリックスクールで、ペットの持ち込みは当然不可。そもそもママは家が汚れるという理由で梟はおろか犬も猫も嫌いだ。
 魔女じゃないなら、スマートフォンもない1990年代なんてつまらないものでしかない。夢や希望はなく、残りの人生を消化試合のようにこなしていく日々。
 家ではハリーの名前も夏休みの出来事も口に出すことは禁忌だ。ドロシーにとって自分が魔女ではないと知らされた過去は思い出したくないことだったので都合が良かった。 

 それなのに、魔法の欠片がドロシーの前に現れた。

 ホーホホーホッホー、夜空に溶けるような深みのある鳴き声が外から聞こえてくる。
 ベッドの中で眠りに落ちるのを待つだけだったドロシーは、最初は無視するつもりだったが全然やむ気配がないので少し苛つきながらカーテンを開けた。
 向かいの屋根にシロフクロウがとまっていた。ツンドラ地帯を生息地とし、木々の代わりに信号機と街灯が並ぶイギリスの街中にいるはずがない生き物だ。満月みたいに輝く目と目が合う。ヘドウィグはまっすぐドロシーに狙いをつけて飛んできた。
 このままではガラスにぶつかる。急いで窓を開けた。ヘドウィグは羽をたたんで通り抜け、本棚に着地した。挨拶するように、ホーと鳴く。

「こら、鳴かないで。鳴かないでってば。パパとママが起きてきちゃう。……そう、いい子だからそのまま大人しくして」

 ヘドウィグは片足を突き出した。丸めた羊皮紙が足にくくりつけてある。ドロシーの表情が強張った。受けとりたくない。魔法なんて最初からなかったことにしようと目を逸らし続けていたのに。
 なかなかドロシーがとらないので、ヘドウィグは焦ったそうに爪で棚を叩いた。

「わかったわかった、とればいいんでしょ。だから音を出さないで」

 渋々受けとった羊皮紙を広げる。窓から差しこむ街灯のおぼろな光源でも、前世の体より夜目がきくこの体には十分だった。

『ドロシーへ』

 続く文字を目に入れたくなくて手紙を閉じた。羊皮紙、インク、羽根ペン、ホグワーツの学校生活、ドロシーが望んでも手に入らなかったもの。体中の血管をざわざわと醜い嫉妬が駆け巡る――見せびらかすなんて――ハリーに悪意がないことは理性でわかっていたので、ゴミ箱に投げ捨てたい衝動を抑えこんだ。

「さあ、行きなさい。手紙は受け取ったんだから。何? まさか読むかどうか見張るつもり?」

 ヘドウィグはじっと見つめていたが、やがて机に飛び移り鉛筆立てを足で蹴った。

「返事を書けっていうの?」

 蹴りたいのはこっちの方だ、と破れかぶれに思いながらノートのページを引きちぎる。

『ハリーへ
 パパとママに見つかる前にヘドウィグを帰すから返事を書く時間がないんだ! ごめん!
ドロシーより』

「これでいいでしょ?」

 四つ折にした紙を突き出すと、ヘドウィグはくわえて飛び去った。手元に残された手紙は引き出しの奥に突っこんだ。
 次はもう来ないでほしい――という思いとは裏腹に、12月の頭にヘドウィグは再びやって来た。

「また来たの、お前」

 ドロシーは聞こえよがしにため息をついた。前回と同じように走り書きした手紙を差し出すが、ヘドウィグは頑として受け取らなかった。
 満月の目と見つめ合うこと数十秒。先に折れたのはドロシーの方だった。

「もっとマシな返事を持ってくるようハリーに言われたの?」

 ヘドウィグは置き物のように動かない。このまま朝になって家族に見つかる未来が想像できた。

「明日も学校があるから早く寝たいんだけど。どうしても読ませたいわけ?」

 前の手紙はまだ引き出しに突っこんだままだというのに。いっそパパを起こして追い払ってもらうかという考えが頭をよぎるが、結局はベッドに腰を下ろしていた。
 読まなければと思いつつ、手紙をなかなか開けない。緊張で呼吸が浅く早くなる。ヘドウィグがいつでも出ていけるよう窓を開けたままにしているからいい加減寒さが限界で、それが手紙を読む一押しになった。かじかむ指で羊皮紙を開き、目を走らせる。

 ハーマイオニーと仲良くなったこと。
 クィディッチの試合の話。
 ニコラス・フラメルという人物が何をした人なのか探しているということ。

 叶世が憧れてた物語と同じ出来事がこの世界で起きているというのに、ページやスクリーンの中と同じくらい遠く手の届かないままだった。
 知らず知らずのうちに奥歯を噛み締めていたが、クリスマス休暇はホグワーツで過ごすという文章を読んで、ふっと顎から力が抜けた。

「……もしかして、ハリーへのクリスマスプレゼントがほしいの?」

 ヘドウィグは囁くように小さく鳴いた。賢い梟はこの部屋では静かにしなければならないと理解していた。

「そう……飼い主想いだね、お前」

 ヘッドボードにとまるヘドウィグの頭を撫でる。ふわふわと柔らかく羽毛の中に指が沈みそうになった。ヘドウィグは気持ちよさそうに目を閉じている。

「まだプレゼントを準備してないんだ。だから、そうだね、5日後にまた来なさい。次の休みに買いに行くから。それまでどこか別な所で待っていて」

 ヘドウィグは白い翼を広げて飛び立った。
 すっかり冷えきった室温に震え、ドロシーは両腕をさすった。ああは言ったものの、魔法使いが何をほしいというのだろう。魔法界にはマグルの物よりずっと魅力的な物にあふれているに違いないのに。

 翌々日、決心して最初に届いたハリーの手紙を読んだ。他人が聞いたらたかが手紙を読むだけなのにと笑うかもしれないが、48時間というのはドロシーにとって必要な時間だった。
 友達になったロンのことにグリフィンドールに入ったこと、ホグワーツでの暮らしを語る中にドロシーの作ったスコーンが懐かしいなんて内容が混じっていたから笑ってしまった。そんな物でよければいくらでも作ろうじゃないか。
 休日に材料を買って焼き、全部食べ尽くそうとするダドリーを蹴り飛ばし、家族には友達にあげると説明してラッピングした。魔法使いなら杖を振って雪に濡れないようにできるだろうが、ドロシーには上からビニールで包むしかできない。
 クリスマスカードにはこう書き添える。

『ニコラス・フラメルって錬金術師で賢者の石を作った人でしょ? マグルにも知られた人だよ』

 約束通りの日に来たヘドウィグは、プレゼントを見て嬉しそうにドロシーの手に頭を擦り寄せた。

「そっか、ハリーに手紙を出す人なんて私くらいだもんね」

 名付け親はまだアズカバンにいて、同じ建物で暮らす友人たちがわざわざ梟便を使う理由がない。ヘドウィグが喜んでくれるなら、ほんの少しだけ魔女ではない自分に価値が生まれる。
 掌で感じる温もり。ずっと触れていたいけど、また来てくれるから寂しく思う必要はない。

「またね、ヘドウィグ」

 夜空に飛び立つヘドウィグに、微笑みながら手を振った。言葉と表情に嘘はない。それでも心の中から消えてくれない妬みをどうすることもできなくて、ドロシーはベッドに倒れると枕に顔を押しつけた。

 クリスマスの夜にはヘドウィグが来て、ハリーからのプレゼントを届けてくれた。魔法界の羽根ペンとインクセットだ。南国の鳥か着色したものなのかカラフルな羽根に、インクは七色にキラキラと色を変える。光の加減で見えた方が変わると誤魔化すには無理があるそれは、必然的にハリーへ手紙を書く専用になった。
 ハリーと文通を重ねるうちに、ヘドウィグは腕にとまるようになった。的確なアドバイスをするドロシーをハリーは称賛した。

「……ホグワーツに行けないんじゃこんな知識あっても意味ないのにね」

 ヘドウィグはドロシーが用意した水を飲んでいたが、コップから顔を上げて首を傾げた。

「ああ、ごめん。お前を責めてるわけじゃないよ。返事を書いておくからまた2日後に来てね」

 1人と1羽の夜の交流は――シロフクロウの目撃情報が噂になり、ピリピリしたバーノンに問い詰められしらばっくれる出来事があったが――ハリーが夏休みになって戻ってくるまで続いた。
 ハリーと直接顔を合わせるのは気が重く、なかなか寝つけなくて目を擦りながら出迎えることになった。

「ただいま、ドロシー」
「おかえり、ハリー」

 ハリーが笑顔を見せるから、ドロシーもつられて返す。大丈夫、ちゃんと笑えている。

「とっととこの馬鹿げた荷物を車から出せ!」

 バーノンの怒鳴り声にハリーは肩をすくめた。いつもの魔法嫌いのダーズリー家の光景だ。また豚の尻尾を生やされるんじゃないかと怯えるダドリーは魔法薬学で使う大鍋を爆弾か何かのように見つめ、ドロシーと同じで魔女になれなかったペチュニアはハリーを睨みつけている。
 境遇は同じ、でもママのようにはならない。ドロシーは深呼吸して決意を新たにすると、重いトランクを引っ張り出すハリーに駆け寄った。

「私も手伝うよ。ちょっと何これ、詰めこみ過ぎでしょ」

 1人ではふらつくほど重くても、2人で持てば平気だ。

「お土産のお菓子もたくさん入れたからね」
「本当? カエルチョコある?」
「こら、ドロシー! お前は自分の部屋に行ってろ!」
「運び終わったらね!」

 ドロシーとハリーは笑いながら荷物を2階の部屋に運びこんだ。
 夕飯の時間までハリーの部屋でホグワーツの話を聞いた。物語に書いてあったこと、本や映画にはなかったハリーのなんてことない日常のこと。胸の奥は相変わらず締めつけられるように痛んだが、心の準備をしていたからドロシーはちゃんと相槌を打ちながら聞くことができた。
 だが、予想外の言葉を聞いた時はさすがに息を詰まらせた。

「ドロシーが魔女だったらグリフィンドールに組み分けされただろうね」

 ドロシーが求めてやまないもしもの話をするなんて! ひどいと叫びたくなる気持ちを必死で抑えていると、何も知らないハリーは無邪気に続けた。

「グリフィンドールって前にも言ったけど、勇気ある人が選ばれるんだ。この家で僕の味方をしてくれたのは君だけだ。ドロシーほど勇気のある人はいないよ」

――もしもホグワーツに入ったらどこの寮がいい?

 きっと『ハリー・ポッター』に夢中になった人なら一度は考えたことはあるだろう。叶世の答えはこうだった。

――もちろん、ハリーと同じグリフィンドール!

 苦しいのに、最高の賛辞だったから、ドロシーは泣きたい気持ちのまま微笑んだ。

「ありがとう、ハリー。……ねえ、私の話を聞いてくれる? 私の秘密を教えてあげる。これを聞いたあなたがみんなを救ってほしい」

 ハリーはぱちくりと目を瞬かせ、不思議そうな顔をした。その表情がおかしくて、ドロシーは自然と笑っていた。ちょっとだけ気持ちが楽になる。……まだ、苦しいけれど。いじけて、魔法界の彼らを見殺しにしたくない。直接会ったことはなくても、叶世にとってもドロシーにとっても大切な人たちだから。
 言っても信じてもらえないかもしれないし、物語と状況が変わってひどくなるかもしれない。それでも勇気があるとハリーが言ってくれたから、ドロシーは口を開く。

「あなたの未来の話。私はね、ハリーが主人公の話を読んだことがあるんだ。映画にもなった私の大好きな物語。タイトルは『ハリー・ポッター』」