1992年――1

 カサンドラはトロイの破滅を予言しましたが、誰も彼女の言葉を信じませんでした。

 

 

***

 ハリーをキングズ・クロス駅まで迎えに来たバーノン叔父さんは盛大にいらついていた。赤信号に捕まる度にハンドルを叩き、前の車が遅ければ舌打ち、改造車が猛スピードで追い越せば「事故ればいい」と吐き捨てた。
 ホグワーツの小舟は安全運転だったよ、とハリーは言いかけたが、急停車した勢いで前につんのめり言葉は胸に押し返された。口から出ていたら不思議なことが大嫌いな叔父さんの機嫌をますます損ねていただろう。

「ほら、着いたぞ小僧。さっさと荷物を下ろせ! いつまでも気味の悪い物を積んでおけるか」

 リビングの窓からはペチュニア叔母さんが汚らしいものでも見るかのように睨みつけ、従兄のダドリーは怯えたように覗いている。カーテンの陰に隠れているつもりなのだろうが、丸々と太った体がはみ出ていた。
 こんな所で夏休みの間中過ごさないといけないなんて、悪態を吐きたいのはハリーも同じだ。だが、玄関先にいる従姉のドロシーを見つけると、ハリーは笑顔になった。

「ただいま、ドロシー」
「おかえり、ハリー」

 ドロシーもにっこりと笑顔を返す。

「とっととこの馬鹿げた荷物を車から出せ!」

 バーノンの催促に、ハリーは肩をすくめた。ドロシーが駆け寄って、重いトランクの持ち手を半分持ってくれる。

「私も手伝うよ。ちょっと何これ、詰めこみ過ぎでしょ」
「お土産のお菓子もたくさん入れたからね」
「本当? カエルチョコある?」

 不思議なことが大好きなドロシーは魔法界のお菓子に興味津々だ。昔からハリーの周りで普通じゃないことが起こると、目をキラキラと輝かせて「すごい!」と言っていたのだ。
 二階のハリーの部屋は出て行った時と変わらず、物が減ったり増えたりしている様子はなかった。

「ダドリーに部屋を奪われてなくてよかったよ」
「みんなここに入ったら呪われるって思ってるみたい」
「学校の外では魔法を使っちゃいけないんだけど、叔父さんたちには内緒にして」

 ハリーがにやりと笑うと、ドロシーは心得たとばかりに微笑んでうなずき返した。

「ドロシーに魔法を見せられないのが残念だよ。そこの本を木箱に変えたり宙に浮かせたり……マグルの町中じゃなかったら箒の後ろに乗せて飛べるのに」
「私も飛びたかったな」

 ドロシーは心からがっかりしたのか暗い顔を見せた。お茶をとりにキッチンに走り出す。
 まだ手伝ってほしかったが、残りの荷物は一人で持てないほどではない。ニンバス2000、大鍋、ヘドウィグが入った籠――全て部屋に入れる。タイミング良く紅茶を持って戻ってきたドロシーの表情に翳りはもうなかった。
 夕暮れの風がカーテンを揺らす。今頃ロンとハーマイオニーは両親にホグワーツの学校生活を話しているだろう。孤児のハリーにとってはドロシーがその相手だった。すでに手紙で伝えてあることでも笑顔で聞いて相槌を打ってくれるから、ついあれもこれもと話してしまう。

「ああ、そうだ。これを渡したかったんだ。ほしいものがあったら教えて。遅くなったけど誕生日プレゼントにしたいんだ」

 トランクに詰めこんだ洋服の合間から、分厚いカタログを掘り出した。ロンやシェーマスにからかわれたくなくて、荷造りの際に隠すように入れたのだ。
 魔女向けのアクセサリーや文房具の写真が載った可愛らしい表紙に、ドロシーの目は釘づけになった。

「いいの? ありがとう。……ふふ、魔法界の本だから写真が動くんだ」
「クリスマスプレゼントの羽ペンとインクもここから買ったんだ。ハーマイオニーがこのカタログのことを教えてくれて。ロンが『彼女へのプレゼントか』なんて言うから大変だったよ」

 ドロシーはもうカタログをめくり始めて夢中になっている。金色のまつ毛に縁どられた水色の目。ダドリーと同じ色。顔立ちだって、ダドリーが痩せたらこうなるのだろうと思うくらいには似ている。
 でも、もし二人が組分帽子を被ったら別の寮になるだろう。

「ドロシーが魔女だったらグリフィンドールに組み分けされただろうね」

 思いつきを口にしてみると、他の寮が考えられないほどしっくりきた。

「グリフィンドールって前にも言ったけど、勇気ある人が選ばれるんだ。この家で僕の味方をしてくれたのは君だけだ。ドロシーほど勇気のある人はいないよ」

 一緒にホグワーツに行けたら絶対もっと楽しかった。大広間の天井の魔法に目を輝かせたり、ドラコとスネイプの態度に怒ったりするドロシーの姿が目に浮かぶ。
 もしもの話はハリーの胸を躍らせたが、なぜかドロシーは泣きそうな顔をしていた。

「ありがとう、ハリー」

 ドロシーは微笑んだ。瞳に涙の膜が張ったように見えたのは気のせいだったらしい。

「ねえ、私の話を聞いてくれる? 私の秘密を教えてあげる。これを聞いたあなたがみんなを救ってほしい」

 話が見えなくて、ハリーは目を瞬かせた。

「あなたの未来の話。私はね、ハリーが主人公の話を読んだことがあるんだ。映画にもなった私の大好きな物語。タイトルは『ハリー・ポッター』」

 繊細な魔法を唱えるように言うものだから、まるで自分の名前が呪文になった気分だった。梟の羽で撫でられたようにくすぐったく、同時に得体の知れない気味の悪さが背中を這い上がる。

「僕の本?」

 自分が現代の偉人というカテゴリーで本に載っていることは知っている。マグルなのに手に入れることができたのだろうか――だとしても、おかしい。

「未来って……?」

 過去にヴォルデモートを倒したから本に載ったというのに。それに魔法界にラジオはあっても映画はない。
 違和感の理由に気づくと、柔らかな気分はどこかに消えた。禁書の棚に自分の名前を見つけたような嫌な気分だけが残った。
 ハリーの困惑をよそにドロシーは話し続けたが、ほとんどは耳を右から左に通り過ぎた。内容が信じられなかったし、熱に浮かされたように話し続ける様子は普段とかけ離れていた。
 どこか遠くを見るような目で、未来なんてわかるはずないのに確信を持って語っている。テレビ番組に出ていた霊能力者みたいだ。昔、叔母さんたちがいない隙にドロシーと見たことがある。あれは魔法使いだったんだろうか? それともマグルのインチキ? ドロシーはなんて言っていたっけ……?
 ハリーの思考は思い出に逃避しかけたが、すんでの所で踏みとどまった。慌ててドロシーの言葉をさえぎる。

「待って。何を言ってるだい? 前世の記憶? 急にどうしたの。今までそんなこと言ったことないだろう」
「だってママもパパも不思議なことは嫌いだし。ハリーだってホグワーツに行く前にこんなことを聞かされたら信じた?」

 一瞬納得しかけた。でも、自分が叔父さんたちと同じだと認めることになる気がして、うなずけなかった。

「……信じたかもしれないだろ。僕の周りでは不思議なことがしょっちゅう起こったんだから」

 一晩で坊主頭から元の髪の長さに戻ったり、蛇の水槽のガラスが消えたり。そうだ、魔法があるのだから生まれ変わりだってあるのかもしれない……?
 ドロシーは微笑んだ。見慣れた表情にほっとしたのも束の間、

「優しいね、ハリーは。でも、今は信じてるの?」

 心を読んだかのように的確に突いてくる。
 ハリー首を縦にも横にも振れず沈黙した後、なんとか言葉を絞り出した。

「信じられないよ……。だって、ヴォルデモートが復活してたくさんの人が死ぬから僕にとめてほしい、なんて」

 かろうじて頭に残った言葉によるとそうらしい。

「そりゃヴォルデモートはまだ生きてたけどさ。でも、僕が? 選ばれし者で、僕にしかできない? ダンブルドアだっているのに」

 ハグリッドとダイアゴン横丁に行った時、出会った魔法使いからヴォルデモートを倒したことを感謝された。自分では覚えていないのに称賛されるのは今でも慣れなくて困惑する。でも、あの人たちはハリーにこれから何かをしろとは言わなかった。
 ドロシーはハリーの肩に断りなく重い荷物を乗せていることに気づいているのだろうか。

「ハリーならできるよ。だって賢者の石も守ったんだから」
「僕は途中で気絶して、駆けつけたダンブルドアに助けられたんだ。その途中だってロンとハーマイオニーに助けられたから進むことができたんだよ」

 今ここににハーマイオニーがいてくれたらいいのに。ドロシーの言っていることは間違っていると理路整然と指摘してくれるだろう。

「信じられないのも無理ないか。……じゃあ、まず夏休みの間に起こることを言うから、それで信じるかどうか決めて」

 ハリーの返事を待たずにドロシーは続ける。

「今年の夏はロンからもハーマイオニーからも手紙が届かないの」
「まさか! 二人は手紙を書くって約束したんだ。いくらなんでも怒るよ」
「ううん。二人ともちゃんと手紙を書いてくれたよ。でも、ドビーっていう屋敷しもべ妖精がハリーが受けとる前に全部隠したんだ」
「何妖精だって?」
「屋敷しもべ妖精。魔法使いの家に住みこみで働く妖精。主人の命令には逆らえないんだけど、でも一人だけ自由を求めて戦った妖精がいるんだ。それがドビー」

 まるで古い知り合いのことを話すような口ぶりだった。本当に屋敷しもべ妖精というものがいるのか、魔法界で育ったロンがいたなら教えてくれただろう。
 背中を這い上がっていた気味の悪さが、じわじわと体中に広がっていく。目の前にいる人が見知らぬ他人のようだった。

「本当に君はドロシーなの?」

 クィレルのように誰かが寄生しているのではないか、そいつがドロシーの体を操っているのではないか。そうであってほしいと願ったが、きょとんとした表情はハリーのよく知るものだった。

「私は私だよ?」
「さっきから僕の知っているドロシーじゃないみたいだ」
「ずっと昔から私は変わってないよ。ドロシー・ダーズリーで野々村叶世、それが私。誰にも言ってなかっただけで。……家族には秘密にしてね」

――秘密ということはつまり、学校中が知っているというわけじゃ。

 賢者の石を守った後、ダンブルドアはそう言った。同じ単語でもドロシーの言う"秘密"にはハリーの口を閉じさせる響きがある。
 ドアの隙間から美味しそうな匂いが漂ってきた。汽車の中でお菓子をたくさん食べたからお腹は空いていない。叔母さんから食事抜きにされることは度々あったから、食べられる時に食べる癖がついた。

「夕飯できたかな。先に降りてるね」

 ドロシーは足音を立てずに出て行った。階段下の物置がまだハリーの部屋だった頃、足音が響いてうるさいとこぼしたことがある。それ以来ドロシーは静かに歩くようになった。もう部屋の場所が変わって静かにする必要はないのに、すっかり体に染みついているらしい。
 ドロシーは優しい。意地悪なダーズリー家の中で唯一の味方だった。本当の家族のように笑いかけて気にかけてくれて、同い年だけど姉がいたらこんな感じかなと思う。
 けれど今は心から信じることができなかった。

 

***

 七月三十一日はよく晴れていた。ハリーは庭のベンチに座ってぼうっと生垣を眺めていた。今日は叔父さんの大事な商談相手が来るというので叔母さんから掃除の邪魔になると家から追い出されたのだ。
 ハッピーバースデーソングを自分あてに小さく歌う。惨めさがより募っただけだった。
 虚しく響く歌声に、明るい声が重なった。

「ハッピバースデー、ディア、ハリー! ハッピバースデー、トゥユー!」

 ドロシーが機嫌のいい足取りで近づいてきた。育ち盛りの手足を夏の日差しに晒している。日焼け止めを愛用している肌は白い。

「ここにいたんだ。カフェで時間潰す? 奢るよ」

 魔法界では両親が残してくれたお金のお陰で買い物には困らなかったが、マグルの世界では違う(「両替しておかないから!」と想像上のハーマイオニーが声を上げる)。

「暑くて動きたくないよ」
「そう? じゃ、私は出かけてくるね」

 することがないとどうしても嫌なことを考えてしまう。今のところ祝ってくれたのはドロシーだけ。つまり、ロンとハーマイオニーからの手紙が一通も来ていない。

――ドビーっていう屋敷しもべ妖精がハリーが受けとる前に全部隠したんだ。

 そんなことあるわけないと否定したら、手紙が来ない理由はどうなる?
 ロンとハーマイオニーを信じようとすると、ドロシーの言葉も信じざるを得なくなる。とはいえ、言っていることは突拍子がないし、誰かが死ぬ未来を簡単に受け入れられるわけがなかった。

 その日の夕食はローストビーフの焼ける匂いを嗅ぎながら、パンとチーズの質素な食事を腹に詰めこんだ。ダドリーがいる限りこの家で食べ物が余ることはなく、残り物をもらえる期待はできない。
 まだ空腹を訴える胃袋を抱えて廊下に出る。おめかししたドロシーが階段を降りてきた。

「どうかな?」

 くるりと一回転すると、赤いドレスが元気に広がった。

「ああ、うん、いいと思う」
「もっとちゃんと褒めてよ」
「そう言われても……」
「しょうがないなあ。そんなんじゃ将来彼女ができた時どうするの」

 やれやれとばかりに肩をすくめた。それから、ハリーの肩に手を置き、耳元に口を近づける。

「今夜ドビーが来るよ。もう部屋で待ってるんじゃないかな?」

 背筋に冷たい緊張が走った。
 すぐにドロシーは身を離した。リップで色づいた唇が弧を描く。ハリーを置いて一人だけ大人になったみたいだ。

「部屋にパンとか缶詰とか色々買ってきた物を置いたから」

 ドロシーは言うだけいってキッチンに入っていった。
 囁かれた言葉を聞かなかったことにしたいが、頭の中から消えてくれない。妖精エルフといわれても、ファンタジー映画やお伽噺を蛇蝎の如く嫌っているダーズリー家で育ったハリーには想像がつかなかった。大きな目と大きな耳を持ち、枕カバーを着ているらしいが……。
 足音うるさくダドリーが降りてきた。

「おら、どけよ」

 考え事に熱中し過ぎたようだ。いつもなら簡単に避けられるのに、突き飛ばされて壁にぶつかった。文句を言うのも出遅れ、ハリーが口を開いた時にはダドリーはキッチンに入っていた。
 ドア越しに叔父さんと叔母さんの声が聞こえてくる。

「まあ、なんてかっこいいの! 世界中の人があなたに夢中になるわ!」
「わしの自慢のハンサムボーイだ!」

 ドロシーを褒める言葉は出てこない。ちゃんと可愛いとか綺麗とか言えばよかったかな、と思ったけれど、やっぱり恥ずかしくて口にできる気はしなかった。
 自分の部屋に入る前に、ドアに耳を当てた。……何も、ヘドウィグの鳴き声も聞こえない。ほら、やっぱり屋敷しもべ妖精なんていないんだ。
 安心してドアを開けた。テニスボールみたいに大きな目と目があう。聞いた通りの特徴を持つ生き物がベッドの上にいた。

「君は誰?」

 ハリーは叫びそうになるのを堪えて尋ねた。階下からはダーズリー一家がお客さんを迎える声が聞こえてきた。

「ドビーめにございます。ドビーと呼び捨ててください。屋敷しもべ妖精のドビーです」

 ドビーの甲高い声はよく響いた。下の階に聞こえるのではないかとハリーは心配になった。
 困ったことに、会話はちっとも静かにいかなかった。感激して泣き出したり自分で自分を罰するために頭を殴ったり、その度に静かにしてほしいと言う羽目になったのだ。
 ノックの音がした。
 ハリーは驚いて小さく跳び上がった。

「ハリー、入るよ」

 ドロシーだ。ハリーは胸を撫で下ろした。
 ドアが開くのと、部屋の中でパチンと音がしたのは同時だった。

「物音がしたから来たの」

 ドロシーは部屋の中を見回したが、ドビーの姿はどこにもなかった。ハリーも一緒に探したが、窓は閉まっているし、ベッドの下に隠れてもいない。

「さっきまでドビーが来ていたんだけど」
「私が来たから隠れたんだと思う。マグルだから」
「ねえ、ドビー。ドロシーには姿を見られても大丈夫だよ。……もう出ていったのかな」
「姿を透明にしただけじゃないかな。会いたかったのに残念。ねえ、ドビーとはどんな話をした?」

 ドロシーの登場でわきに追いやられていた怒りが戻ってきた。

「聞いてよ、ひどいんだ。ホグワーツに行くなって言うんだよ。僕が行きたくなくなるようにって手紙まで隠して――そうだ、まだ返してもらってない!」

 あろうことかドロシーは口元に笑みを浮かべた。

「ほら、私の言った通りでしょ。信じてくれた?」

 ハリーは言葉に詰まった。冷水をかけられたように怒りが小さくなる。疑念はまだ渦巻いていて、信じたという言葉は出てこない。

「そっか……」

 ドロシーは肩を落としてがっかりした様子だが、すぐに立ち直った。

「あのね、ドビーは魔法を使ってハリーを退学にさせようと考えてるんだ」
「え?」
「未成年の魔法使いは学校の外で魔法を使ってはいけない。ハリーがルールを破って退学になればホグワーツに行けなくなる」
「僕が魔法を使わなければいいんでしょ」
「そう思うよね。でも、魔法省はどこで魔法が使われたかはわかっても、誰が使ったかわからない。ハリーの住んでいるこの家で魔法が使われたとわかったら、魔法省は真っ先に誰を疑うと思う?」
「そんな!」
「しっ、静かに」

 ドロシーは唇の前に指を立てた。階下にお客さんがいるのだ。誰もいないベッドに向かってマグルの従姉は言う。

「ねえ、ドビー。どうせ魔法を使うなら少しでもハリーの役に立った方がいいと思わない? この部屋の掃除とか」
「それじゃ僕は退学になるじゃないか!」

 ドビーは提案を受け入れた。声はなかったが、部屋中の家具が浮かんだのを見れば明らかだ。フローリングの床に泡があふれ、数秒後に風と共に消えると、ピカピカになった床に家具が静かに降りた。最後に、鳥籠から糞と抜け落ちた羽根が消える。驚いたヘドウィグが鳴いた。

「私の部屋もやってほしいくらいだ」

 ドロシーは満足げに微笑んだ。もちろんハリーにとっては笑いごとではない。

「僕を退学にしたいの!?」
「違うよ、ハリーは退学にならない。必要なことなんだ。ママが作ったとっておきのデザートを魔法で浮かせて落として台無しにするよりマシじゃない?」
「どっちでも結果は同じなんでしょ。僕は魔法を使った濡れ衣を着せられて、部屋に閉じこめられる」
「ハリーのためなんだよ。ロンのお父さんは魔法省で働いているから、これでロンにハリーの状況が伝わるの。しばらくしたら迎えに来るから待ってて」
「しばらくっていつ? 今日、明日、それとも一週間後?」

 自称前世の記憶があり未来に何が起こるかわかる従姉は黙りこんだ。ハリーの不信感はピークに達していた。

「答えられないんじゃ信じられるわけないよ」
「だって本に書いてないことまではわからないから」
「ここは本の中じゃないし、僕は本の登場人物じゃない」

 ドロシーはぎゅっと唇を結んだ。言い負かした爽快感はなく、後味の悪さだけが胸に残った。ハリーだってこんな喧嘩をしたいわけではない。
 荒っぽい足音が階段を上がってくる。バーノンは乱暴にドアを開けた。顔が赤黒く染まっているのはワインのせいではないだろう。ハリーの顔面に羊皮紙を突きつけ、低く押し殺した声で告げる。

「今しがた梟がこれをメイソン夫人の頭に落としていったぞ。夫人は鳥が嫌いだというのにだ」

 商談がどうなったか、わざわざ問うほどハリーは愚かではない。ドロシーは息を呑み「苦手だって忘れてた……」と呟いたが、バーノンの耳には入らなかったようだ。

「読め! いいから――読め!」

『ポッター殿』から始まる手紙は魔法省魔法不適正使用取締局からのものだった。未成年が学校の外で魔法を使うと退学処分になる可能性があると警告している。
 ハリーは絶望的な気分で『休暇を楽しまれますよう!』という締めの文を読んだ。惨めな休暇の始まりだった。

 

 

***

 ハリーが魔法を使えないと知ったバーノンは容赦しなかった。ドアには「餌差入口」、窓には鉄格子がとりつけられ、囚人のように扱われた。叔母さんが持ってくる食事は侘しく、ドロシーがくれた非常食セットがなければ一日中お腹を空かせていただろう。
 非常食袋の中には暇潰しの漫画まで入っていたが、こうなると予見していたのだと突きつけられるようで読む気が起きなかった。
 カチカチ、とヘドウィグが鳥籠を噛んだ。外に出られなくなったのはヘドウィグも同じだ。大きな黄色い目が非難がましくハリーを見つめた。

「僕が悪いって言いたいのかい? 僕だってドロシーと喧嘩したいわけじゃないよ。ただ、未来を知ってるって言うならさ、こうならないようにしてくれたっていいじゃないか。……きっと閉じこめられたことがないから、どんなにつらいかわからないんだ」

 今日で三日目だ。明日は外に出られるよう願いながら眠りにつき――夜明け前に目が覚めた。
 夢の中で聞いた音は、窓の向こうから響いていた。鉄格子越しにロンが見つめている。
 ハリーは飛び起きた。鉄格子の隙間に手を入れて窓を開ける。

「ロン、一体どうやって?――なんだい、これは?」

 夜空にトルコ石色の車が停車していた。後部座席にロン、前にはフレッドとジョージが座っている。
 ロンが言うには、ハリーからゼ全然返信が来ないし、魔法省勤めの父親から公式警告状が出たと聞いて、自分たちで迎えに行くことにしたらしい。

「ドロシーの言った通りだ」

 呆然としたハリーの呟きは車のエンジン音にかき消された。

「何か言ったかい?」
「話せば長くなるから、後で言うよ」

 フレッドが投げて寄越したロープを鉄格子に巻きつけた。魔法を禁止されているから、車の馬力で引きはがす。破壊音が響いたが、叔母夫婦の寝室から誰かが起き出した気配はなかった。
 ジョージが器用にもヘアピンでドアの鍵を開ける。階段下の物置に、とりあげられた学用品が押しこめられているのだ。

「それじゃ、僕たちはトランクを運び出す。君は部屋から必要な物を片っ端からかき集めて、ロンに渡してくれ」

 ジョージがドアノブを回すより先に、ドアが開いた。ハリーの心臓が飛び上がり、ロンが息をのむ。

「ああもう、そんな音を立てたらパパたちが起きるって」

 パジャマ姿のドロシーだった。素早く入り、手を突き出した。指先で摘んだ鍵が車のバックライトで銀色に光った。

「これ、物置の鍵。ハリーがホグワーツに行っている間に合鍵を作っておいたんだ」
「やるじゃん」

 にやりと笑ってフレッドが受けとり、ジョージと一緒に静かに走っていった。

「荷物を積めばいいんでしょ? 手伝うよ」

 ドロシーに言われ、ハリーは慌てて行動を開始した。クローゼットから手当たり次第に服をとり出す。ドロシーがそれを受けとってロンに渡した。

「あなたがロンだね、会えて嬉しいよ。私はドロシー、よろしく」
「あ――どうも」

 ポカンと口を開けていたロンは、顎の動かし方を思い出したようだ。体の方はまだのようで、押しつけられた服を抱えたまま棒立ちになっている。

「ほら、車に入れて。ああ、この目で空飛ぶ車が見れるなんて……!」

 ロンがハリーをちらりと見た。なんとなくハリーは何を言いたいのかわかる気がした。この子、ハーマイオニーと同じタイプ?

「ねえ、会ったばかりだけどこんなことを訊くのもなんだけど、ロンの家にマグルの私でも遊びに行ける?」
「ええ? どうだろう……うちってマグル避けの魔法かかってるし、マグルは入れないんじゃないかな」
「そっか」

 バケツリレー式のやり方ですぐに荷物は積み終わった。フレッドとジョージがトランクやニンバス2000を持って戻ってくる。夜逃げは順調に進んでいた。

「ヘドウィグを忘れないで」

 後部座席に乗りこんだハリーに、ドロシーが鳥籠を渡す。

「あっ」

 二人同時に声を上げた。窓から身を乗り出していたドロシーがバランスを崩し、ハリーは車の振動で揺れて、二人の手から鳥籠が滑った。すんでのところでハリーは籠の隙間に指を引っかけた。
 ヘドウィグにしてみればたまったものではない。猛烈に羽ばたいて鳴き、抗議する。

「悪かったよ! お願いだから静かにして!」

 ハリーが宥めても機嫌は直らない。

「あの忌々しい梟めが!」

 バーノンの怒声が雷のように轟いた。ドロシーはドアに駆け寄って体で押さえた。

「早く行って!」

 トルコ石色の車が夜空を駆け上がった。

「来年の夏にまたね!」

 ハリーの声はドロシーに届いただろうか。あっという間にバーノンがドアを叩く音が小さくなり、街灯の灯りが遠ざかっていく。

 夜風に吹かれながら、ハリーはドビーのことを話した。ドロシーの前世のことは隠した。フレッドとジョージからそんなことあるわけないだろと笑われた方がいいような、三頭犬やドラゴンのことのように無闇に話すことではないような、ハリーはまだ信じるか決めかねていた。
 ロンには包み隠さず話した。日中はウィーズリー一家と賑やかで楽しい時間を過ごしたので(ロンたちは車を勝手に運転してモリー母さんに叱られたが)、二人きりになれたのは就寝時間になってからだった。
 明かりを落としたロンの部屋。ハリーの声が静かに響く。ベッドに入っても、まだ高揚して目が冴えている。ロンの口数は次第に少なくなり、寝てしまったのかと思ったが、欠伸混じりの声が返ってきた。

「人が死んだらどこに行くかわかってないんだ。生まれ変わりが本当にあるか怪しいよ。君のママは魔女なんだろ。ママが残した本でも読んだんじゃないか?」
「あそこは叔父さんが買った家だから、母さんが入ったことあるとは思えないよ。それに、そんな物があったらドロシーは秘密にしない。……たぶんね」

 ふうん、とロンが打った相槌の終わりの方は寝息に変わっていた。