1992年――2

 ハリーが出て行った夜から、ドロシーは常に部屋の窓を小さく開けていた。防犯上褒められたことではないけれど、二階だし、足場になるような木はないから大丈夫だろう。日本の蒸し暑い夜を網戸でしのいだ時だって平気だったのだから。
 一週間が過ぎてもハリーから手紙は来なかった。その次も、次も。クリスマスプレゼントを待ち望む子供のように毎朝起きると部屋を見渡して、ため息をつく。
 手紙を書くのを忘れるほど楽しく過ごしているのかも、と自分を慰めるが、もう口を聞きたくないほど怒っている可能性の方が高いと心の冷静な部分は判断していた。
 日に日に大きくなる不安は、ダドリーのいじめっ子のセンサーに引っかかったようだった。夕飯の時間が近くなり、ドロシーがリビングに降りる。ペチュニアはまだキッチンで作っている最中で、バーノンは仕事から帰っていなかった。スナック菓子とジュースをお供にバラエティ番組を見ていたダドリーが、ニヤニヤ笑いながら振り返る。

「ハリーがいなくなって残念だったな。あいつがいなきゃ、うちで一番いらない奴はお前だもんな」
「あんた呑気ね。パパが会社を継がせるなら私だって言ってるの、知らないんだ?」

 口喧嘩には自信があるし、スナックの誘惑から気を逸らすのにちょうどいい。ドロシーは向かいの席に座り、挑発的な笑みを浮かべた。

「嘘だ! パパは僕が社長だって言ってたぞ」
「それっていつの話? 最近言われた? 昔はそう言ってたけど、今は違うって。九九も言えないくせに社長になれるわけないでしょ」
「そんなわけない! だって勉強なんかできなくていいってパパもママも言ってるぞ」
「それを信じてるから呑気なんだってば。売上とか費用とか数字を使うんだよ、わかる?」

 ダドリーの顔が真っ赤に染まり、顎の肉が震えた。間にテーブルがなければ今頃殴られていただろう。口では勝てないと思ったらどうするのか、身に染みて知っている。

「こら、ダドリーちゃんを虐めるんじゃないよ」

 キッチンから叱責が飛んできた。

「ママ、あいつの言ってることなんて嘘だよね」
「もちろんよ、ダッダちゃん」

 甘える声と猫撫で声。ここにハリーがいたらドロシーと顔を見合わせて肩をすくめただろう。
 甘さを捨てた声がドロシーに向かってくる。

「あんたを社長なんて聞いたことないわ。いい加減なこと言うんじゃないよ、まったく。座ってないで手伝いなさい。気の利かない子なんだから」
「可愛いダッダちゃんにさせたらいいじゃん」

 食器が乱雑にぶつかり合う音と力任せに戸棚をしめる音が響いた。ママの不機嫌メーターが振り切る前にドロシーはキッチンに行った。

「母親を楽させようって気はないのかい。ハリーのことは手伝うっていうのに。実の親よりあんな奴の方が大事かい」

 そんなことない、と言ったところで白々しいだけだ。ドロシーは黙って人数分のカトラリーを準備した。
 昨年の夏に芽生えた魔法使いになれなかった者への連帯感はとっくに枯れている。結局、ダドリーの言葉は的を射ているのだろう。肉親よりハリーを選んだ結果だ。後悔はない。それでも、家が居心地悪いというのはなかなか堪えた。
 もしもママと仲が良かったら色々訊けただろうか――ママはリリー伯母さんに連絡をとりたい時、……ううん、ママじゃなくておじいちゃんおばあちゃんでもいいんだけど、どうしていたの? 向こうから梟が来るのをずっと待っていたの?

 

 夏休みが終わりに近づく八月下旬、ドロシーは太陽が高く昇ってもまだベッドの中にいた。昨夜もヘドウィグを待って夜更けまで本を読んでいたのだ。寝転がったまま大きく体を伸ばすと、指が何かに触れた。
 薄くて軽い。指で挟んで引き寄せる。この手触りはもしかしなくても……羊皮紙の手紙だ。
 跳ね起きた。黄ばんだ羊皮紙に黒いインクで『Dear ドロシー』と書いてある。羽ペンに慣れて去年よりは上手くなったハリーの字だった。ベッドのヘッドボードの上ではヘドウィグがまどろんでいる。

「起こしてもよかったんだよ」

 ヘドウィグは薄く目を開けた。ドロシーが机の引き出しからフードをとり出すと、臭いにつられて目が完全に開いた。
 野々村叶世だった頃に調べた限りでは、梟の餌は冷凍マウスやウズラだった。冷凍庫にそんな物があったらママが悲鳴を上げてヘドウィグを追い出そうとしただろうけれど、幸いハリーが持ってきたのはペレットタイプの物だった。需要が高い分、魔法界の方が餌の開発が進んでいるに違いない。

「魔法界に冷蔵庫ってあるのかな? アイスとかどうやって保存してるんだろ? ねえ、隠れ穴のキッチンを見たんでしょ。どうだった?」

 フードをついばむヘドウィグに向かって、ドロシーは問いかける。
 食べ物に長期保存できる魔法をかけるのか、物を冷やす魔法がかかった箱があるのか、この目で確かめられたらどれだけ良かったか。
 嫉妬の針先が胸を刺した。去年から繰り返される痛みに慣れることはなくて、瘡蓋ができても剥がれるものだから膿が出ている。

「あの時、私も空飛ぶ車に飛び乗れていたら……魔法界に行くことだけでもできたなら、満足できたと思う?」

 静かな部屋にフードをついばむ乾いた音が響いていた。ヘドウィグは素晴らしい聞き手だが、今日は話して楽になるどころか虚しさが増しただけだった。
 ブランチでエネルギーを補充してから、ドロシーはベッドに座って手紙を開いた。
 ハリーはウィーリー家で元気に過ごしているようだ。庭小人を追い出すのを手伝ったり、箒で飛んだり、ダイアゴン横丁では大変な目に遭ったらしい……。
 どことなくホグワーツにいた頃の手紙と比べると簡潔でそっけないのは気のせいだろうか。読み進めていくと、ドロシーの疑問にこたえるように答えが書いてあった。

『ここに書いたことも君は知っていたのかい? 本当はもっと早く手紙を出すつもりだったんだ。でも書こうとすると、ドロシーはもう知っているんじゃないかって思って――君の言葉を信じたわけじゃないけど――何を書いていいかわからなくなるんだ』

 横面を張り飛ばされたような衝撃を受けた。良いことをしていると疑っていなかった。反射的に理解を拒み、頭の中が真っ白になる。それでも二度三度と繰り返し読み、頭に染みこませた。
 仰向けに倒れこむ。癒しを求めてヘッドボードの上で寝ているヘドウィグを撫でようとしたけれど、伸ばした腕は力なく落ちた。
 信じてほしくて、躍起になって話して、ただハリーを困らせただけだった。
 過去の自分を殴ってとめたい。グリフィンドールに入れたかもってハリーに言われたからって調子に乗って馬鹿みたいだ。未来を知ってるとか厨二病かよ、ハリーだって困るよそりゃ。

「あー、もうっ」

 猛烈な恥ずかしさに襲われ、堪らず枕に口を押しつけ言葉にならない悲鳴を上げる。過去の自分を殴れない代わりに足をばたつかせた。暴力的な衝動が過ぎ去った後、残ったのは諦めきれない気持ちだった。

「だって、どうしようもないじゃん」

 小説で死んでいったみんなを救いたいのに、マグルのドロシーには魔法界への参加権がない。誰かに託す以外の方法が思いつかなかった。
 気持ちよさそうに眠るヘドウィグを見つめた。羽毛の柔らかさも、腕にとまらせた時の重さも知っている。ずっとずっと老いて飛べなくなるまで手紙を届けてほしい。

「今から手紙を書いて……新学期には間に合わないか……うん、まあ大丈夫」

 今年はホグワーツ特急に乗り遅れる。防いだら車が禁じられた森で野生化しない。アーサー・ウィーズリーには悪いけれど、魔法不正使用の警告と同様必要なことだと判断した。
 この事件を起こしたドビーは、ルシウス・マルフォイの企みを知っていて、ハリーが危険な目に遭わないように行動している。何度も説得しようとするドビーに仲間意識がわいたけれど、すぐに霧散した。ドビーは姿を見せてくれなかったじゃないか。
 まるで魔法界から拒絶されてるみたいだ、と膿があふれ出す。胸の痛みを押し退けて、ドロシーは机に向かった。杖はないからペンをとる。クリスマスにハリーからもらった羽ペンとインク。七色に変わるインクがドロシーに許された魔法の道具だ。
 今年は本の通りで問題ない。死者は出ないから。でも、来年までに信じてほしい。
 来年はシリウスが脱獄する。ペティグリューを捕まえたかった。ハリーの後見人の無実を証明したい。ダーズリー家を出た後は一緒に暮らしてほしい。叶世はそんなもしもの話を想像していて、ドロシーに名前も姿も変わっても思いだけは変わらない。