第10話 無自覚な罪

 昨年度の期末試験対策に変身術を教えてからアルタイルはたまにハロルドの勉強を見るようになっていたが、今日は珍しく立場が逆転していた。

「世界地図を見たことがないんですか? 梟がユーラシア大陸を横断して、さらにインドネシアの島々を飛び越えて、オーストラリアにたどり着くまでどれくらい距離があると思っているんですか。渡り鳥じゃないんですよ?」

 きっかけは朝の梟便だった。ハロルドがオーストラリアに住む両親から送られてきたお菓子をいつものお礼にくれた時、アルタイルが「オーストラリアから飛んできたのか」とうっかり感心したからである。

「オーストラリアからイギリスに梟便を送る場合、まずオーストラリア国内の郵便局宛に梟便を出します。どこの国に送ってほしいか書いて。それを受け取った局員が――煙突飛行かポートキーか知りませんが――とにかく魔法で海を越えてイギリスの郵便局に届けます。そして、イギリスの郵便局で梟に手紙をたくして宛先に届けるんです。国際便の流れ、わかりましたか?」

 大広間を出て廊下を歩いている間も解説は続いた。今日は日曜日なのでいくらでも時間はあった。
 アルタイルはわかったとうなずいたが、かつて自分が海外旅行をしているアルファード叔父に送った時はそんな手順ではなかったと思い出していた。

「フランスに出した時は国際便は使わなかったんだが」
「フランスとオーストラリアじゃ距離が全然違います。ドーヴァー海峡から向こうのフランスが見えますけど、オーストラリア大陸が見える岸辺はイギリス中を探してもないですよ」
「地図は頭に入っているよ。ただ、梟の羽でどれくらいかかるか考えたこともなかったんだ。魔法を使えは海も山も一瞬で越えられるから」

 箒で世界一周しない限り距離は重要ではないと負け惜しみで思ったが、みっともない言い訳でしかないとすぐに気づいた。

「……ハロルドが教えてくれなければ、梟に南半球まで飛ぶという過酷な指示を出していたかもしれない」

 梟が可哀想という動物愛護の観点以外にも問題はあった。届くまでに時間がかかる上に、その分途中で梟が倒れたり捕まったりして配達できない可能性が上がる。
 ハロルドは得意げに笑った。

「アルタイルでも知らないことがあるんですね。もっと外に目を向けた方がいいですよ」

 廊下の角を曲がると、人だかりに行手を遮られた。アルタイルは嫌な予感がした。騒ぎの中心には大体シリウスがいるのだ。ピーブズの悪戯には慣れて素通りするホグワーツ生でも、シリウスとジェームズの悪戯は面白いようだった。

「うわー、またですか」

 うんざりした顔のハロルドも人だかりの中心に誰がいるのか予想がついたらしい。シリウスと同級生だから騒動に遭遇しやすかった。

「とめに行くんですか?」
「ブラックの血を引く者としてあるべき姿を教えないとな」
「大変ですね」

 完全に他人事のハロルドは野次馬に混ざって見物するつもりのようだ。
 シリウスが関わっている以上アルタイルに他の選択肢はない。本気でとめられるとは思っていないが、周囲へ自分のスタンスをアピールすることが大事なのだ。

「何をしているんだ!」

 アルタイルが声をはり上げると、人垣が割れて道を開けた。ブラック兄弟の対決を面白がる視線を身に浴びた。見せ物扱いは気分の良いものではない。ハロルドは関係者ですという顔で前列まで出て、ちゃっかり見やすい場所を確保した。
 シリウスの隣にはジェームズ、後ろにはいつも一緒にいる小柄な少年ピーター・ペティグリューがいた。ピーター自身が問題を起こすことはないが、シリウスの後をついて回っているのでアルタイルも名前を覚えた。
 何があったか聞かずとも大体察しがついた。セブルスが全身ずぶ濡れになって床に膝をついている。髪にもローブにも丸洗いされたように虹色の泡がついていた。
 シリウスは悪びれもせずに言う。

「そいつの髪を洗おうとしただけだ。ねっとりした髪をサラサラにしてやるんだから、感謝してほしいね」

 セブルスは言い返そうとしたらしいが、口から出てきたのはカラフルな泡だけだった。
 野次馬から笑いが起きる。シリウスとジェームズを睨みつけるセブルスの形相を見ると、合意でないことは明らかでアルタイルには面白いとは思えなかった。

「有難迷惑以外の何物でもないみたいだが。これは……呪いか?」

 アルタイルは泡の様子に眉をひそめた。清めの魔法を人体に使えば口から泡が出てくるようになるが、様子がおかしい。セブルスが吐き出している泡は子供用の石鹸を飲み込んだように星形やハート形をしているのだ。
 シリウスは胸を張って無邪気に自慢した。

「ジェームズと俺が作った洗剤だ」
「まさかそれを飲ませたのか? どんな害があるかわかったものじゃない。人殺しになりたいのか?」
「スニベルスが勝手に飲んだんだ。せっかく俺たちが髪を洗ってあげている途中で口を開くから。たぶん、人畜無害だ」
「お前が作った薬なんか信用できるか。安全だって言うなら自分で飲んでみろ。できないだろ?」

 アルタイルはセブルスに手を差し伸べた。話している間にもセブルスは苦しそうに咳きこんでいる。初冬の気温では体が冷えてさらにつらいだろう。

「医務室に行った方がいい。大丈夫か?」

 セブルスの黒い目と目が合った。
 今なら開心術を試せる。
 夏休みの間に散々かけられた経験から今が絶好のタイミングだとわかった。衆人の前で笑い物にされ心が動揺して、助けを出さされた今なら。それに彼なら――純血ではない彼なら――開心術の存在を知らないに違いない。
 わき上がった暗い誘惑を拒絶できなかった。心の中で呪文を唱える。

 Legilimens.

 だが、セブルスはアルタイルの手を強い力で振り払った。
 アルタイルのはハッとして開心術を中断した。いや、視線を外されて断ち切られた。心を覗こうとしたのがばれた?

「あなたたち、セブに何しているのよ!」

 凛とした声が響いた。人だかりからリリーが飛び出てセブルスに駆け寄った。

「やあ、愛しのリリー! スニベルスをきれいにしていたんだ。野良犬みたいにひどい髪だったからね」

 ジェームズは満面の笑みを向けたが、リリーは蔑みの一瞥を返した。

「セブにかまう前にあなたのその寝癖だらけの髪をなんとかしなさい」
「これは癖毛だよ。僕のチャームポイントとあいつの不潔な髪と一緒にしないでくれ」

 それでもリリーに言われると気にせずにいられないのか、ジェームズは髪を撫でつけた。手が離れると元気に跳ねた毛先は元の位置に戻った。
 リリーはジェームズを無視して、自分も濡れるのも構わずセブルスの肩を支えた。

「大丈夫? ポンフリーのところに行きましょう」
「待ってよ、リリー!」

 リリーを追いかけようとするジェームズの前に、アルタイルは立ちはだかった。

「しつこいと嫌われるぞ」
「人の恋時の邪魔をしないでくれるかい」
「女性を口説く態度にはとても思えなかったが」
「じゃあ君ならどう口説くのさ。手本を見せてくれないか?」
「馬鹿馬鹿しい。そんな挑発に乗るものか」

 突然ピーターが叫んだ。

「まずいよ、フィルチが来る!」

 管理人のフィルチが小鬼みたいに不機嫌な顔で近づいていた。

「ポッター、ブラック! 今度はなんの騒ぎだ!?」
「うわ、逃げるぞ」

 ジェームズが駆け出したが、物の見事に床に残った泡で滑って転んだ。アルタイルはすかさずその腕をつかんで捕まえた。

「馬鹿ジェームズ――った!」

 シリウスも転んだ。泡はうまく跳び越えたものの、人の足にひっかかったようだ。いつからいたのかレギュラスが他人行儀にシリウスを見下ろした。

「ああ、すみません」
「お前何するんだよ!」

 シリウスは威勢良く文句を言っていたが、次の瞬間フィルチに肩をつかまれ、顔をこわばらせた。

「洗剤を撒き散らしてそんなに床を磨きたいならモップでホグワーツ中を掃除してもらうか。え? 私はそれより一晩中逆さ吊りにする方がお前たちも反省すると思うんだけどねえ」

 ピーターは友達を置いていくことができず、助けを求めるように視線をさまよわせていた。しかし、周りの生徒たちはこの顛末に笑って見ているだけだった。
 シリウスとジェームズがフィルチに連行されると、見物人もはけて、残ったのはアルタイルとレギュラスとハロルドの三人になった。

「シリウスはいつもあんなことをしているの?」

 レギュラスが険しい顔で尋ねた。ハロルドがこたえる。

「ホグワーツにいればまた見ることになりますよ。一年生のころからずっとセブルスをいじめていますから」
「アルタイルはいつも今みたいにとめているの?」
「見かけた時はとめるようにしている」
「どうして?」
「うん?」

 レギュラスがなぜそんな質問をするのかアルタイルにはわからなかった。シリウスの行動に気品がないことはレギュラスも承知しているだろうに。

「だってスネイプは混血だ。グリフィンドールの穢れた血とも仲がいい。僕たちが助けることはないでしょう?」

 それは野次馬の中にいたスリザリン生がセブルスを助けなかった理由だった。シリウスとジェームズが他のスリザリン生を標的にしていたら、抗議の声が出ていただろう。

「……それでもセブルスはスリザリン生だ。あんな不快な行為を放っておくのも気分が悪いしな」
「アルタイルは甘いよ」
「じゃあレギュラスはシリウスがいじめていても放っておくのか? あんな振る舞いがブラック家としてふさわしいと?」
「そういうわけじゃないけど……」
「あー、えっと、今日はルーピンがいませんでいたね」

 ハロルドが強引に話題を変えた。「誰?」と首を傾げるレギュラスに、ハロルドは説明した。

「リーマス・ルーピン、グリフィンドール生でポッターたちの友人です。毎月授業を休む日があるので、今日もそうなんでしょうね」
「そんなに体が弱いのか?」

 アルタイルは季節の変わり目には体調を崩すローズの見舞いによく医務室に行くが、ルーピンと医務室で会ったことはほとんどなかった。

「よく知りませんけど、頻繁に休むってことはそうなんじゃないですか?」

 リーマスの細い体や青白い肌を思い出し、確かに病弱そうだとアルタイルは納得した。