第30話 遠い夜明け

 セブルスを医務室に運ぶと、すでにダンブルドア校長、校医ポンフリー、スラグホーン先生が待っていた。マクゴナガル先生が叫びの館で事情を把握するとすぐに守護霊の伝令を飛ばしたからだ。
 狼人間に噛まれてはおらず引っ掻き傷であること、応急措置に治癒魔法をかけたこと――運ぶ間に傷口が開きまた鮮血がローブを染めていた――を伝えた後はアルタイルとジェームズにできることはなかった。治療にとりかかる先生たちの邪魔にならないよう隅に立っている他ない。
 ポンフリーの指示でマクゴナガルが薬棚から魔法薬をとり出し、スラグホーンが自分の研究室へ足りない物をとりに走る。

「さて、君らはわしと一緒に校長室に行こうか。シリウスとピーターもそこで待っておる」

 ダンブルドアの声は褒めるでも叱るでもなく落ち着いていた。半月形の眼鏡の奥で青い目が満点の星空のように輝いている。血まみれの生徒を見ても平素と変わらない様子に、アルタイルは頼もしさと同時に恐ろしさを覚えた。グリンデルバルトを倒した功績の持ち主であることを実感し、それが血や怪我と切り離せないことに思い至ったのだ。

「さすがの僕も校長室に入るのは初めてだ」

 ジェームズはアルタイルに向けておどけた調子で言ったが、疲労の色を隠しきれていなかった。
 アルタイルも校長室に入るのは初めてだった。呼び出されるような功績はなく悪戯もしたことがない。ほとんどの生徒と同じように足を踏み入れることがないまま卒業すると思っていた。
 無言でダンブルドアの後をついて行く。通り慣れた廊下だというのに真夜中というだけでよそよそしい雰囲気がした。

「まあ、先生に見つかったのね」
「フィルチじゃなくてダンブルドアとは、こりゃあ大変だ」

 事情を知らない絵画の住人は暢気なものだった。よかったら今度どんな冒険をしたのか聞かせてね、なんて言う絵画の前を通り過ぎ、ダンブルドアはガーゴイル像の前で立ち止まった。

「黒胡椒キャンディ」

 唐突にお菓子の名前を言ったものだから、アルタイルとジェームズは顔を見合わせた。ガーゴイル像が脇に飛び退き、壁に隠された入口が開いた。合言葉だったらしい。ジェームズは忍び笑いを漏らし、アルタイルは笑いを噛み殺して真面目な顔で動く螺旋階段に足を乗せた。
 階段は円形の部屋に続いていた。組分け帽子の乗った棚があり、止まり木の上では不死鳥が微睡んでいた。壁には歴代校長の肖像画が並んでおり、そのうちのひとつからくどくどと説教をする声が響いていた。

「まったくお前はいつもいつも……ブラック家としての自覚が足りないと何度言ったらわかるんだ」
「はいはい、一生わかんねーよ」

 シリウスは先生に見つかった生徒にしては太々しく、踏ん反り返るように深々と椅子に座っている。その隣ではピーターができるだけ存在を消そうとするかのように身を縮めていた。

「フィニアス、それくらいにしておいてくれんかの」

 ダンブルドアが呼びかけると、フィニアス・ナイジェラス・ブラックはまだ言い足りなさそうな顔を向けた。文句を言おうとしたのか口を開きかけ、アルタイルの姿を見つけて目を見開いた。

「アルタイル! どうしたのだ、その血は!? 私の曾々孫が! 怪我をしたのか!? まさか噛まれてはいないな? ああっ、どうか無事だと言ってくれ!」

 絵の中から出ることができればすぐに駆け寄っただろう。顔と手を押しつけて、見えない壁を通り抜けようと必死だ。ブラック家の屋敷にもこの高祖父が出入りできる額縁があり、アルタイルも何度も話したことがあるがこんなに取り乱している様子は初めてだった。
 アルタイルはまだ自分のローブにも手にも血がついていることを思い出した。洗う暇はなかった。指を擦り合わせると血はすっかり固まっていた。

「大丈夫です、フィニアスお祖父様。これは僕の血ではなくて、手当てをした時についたんです」
「そうか……そうか……ブラック家の血が忌まわしい狼人間などに汚されては堪らんからな」

 安心して力が抜けたのか、額縁いっぱいに迫っていた顔が後ろに下がった。
 即座にシリウスが立ち上がり食ってかかった。

「リーマスは汚れてなんかいない! 狼人間だからなんだっていうんだ!」
「曾々孫の心配するのは当然だろう! お前は狼人間の危険さがわかってないのだ!」
「まあまあ、2人とも落ち着くのじゃ。友達を悪く言われて怒る気持ちも、子孫を心配する気持ちもどちらも悪いものではない」

 ダンブルドアがとりなすと、2人とも口をつぐんだが相手が悪いと顔に書いたままだった。

「さあアルタイルもジェームズも腰かけるといい。おっと、椅子が足りんな。なんせそう大勢の客が来ることは少ないのじゃ」

 杖を振って2人がけのソファを追加する。アルタイルはジェームズと隣り合って座った。グリフィンドール生とこんなに近くにいるのは変な感じがして居心地が悪かった。

「さて、何があったか話してくれるか?」

 アルタイルは昼間のセブルスとの会話から説明した。セブルスを探して寮を飛び出したところまで話すと、ジェームズが横から口を挟んだ。

「僕らも似た様なものです。これから寝ようって時にシリウスが『今夜は面白いことが起こる』なんて言うから詳しく聞いたら、スネイプに叫びの館に行くよう仕向けたって言うんで、慌てて飛び出して大広間に駆けつけたらブラックがいたので声をかけました。目的は同じだったから一緒に叫びの館まで行きました。ブラックが炎を出してくれたお陰で暴れ柳に殴られずにすんだんです」

 透明マントのことを知られたくないのだとすぐに気がついた。そういえば、いつの間にかジェームズが腕に抱えていたマントがなくなっている。叫びの館に隠してきたのだろう。棚の後ろや外れかけた羽目板の裏など、先生に見つからず狼となったルーピンに噛みちぎられない場所をジェームズなら知っているはずだ。
 この場で糾弾することができたが、それよりもアルタイルの腹の底ではシリウスへの怒りがふつふつと沸き上がっていて、噴き出さないように必死だった。握りしめた拳の中で爪が手のひらに食い込む。面白いことだって? セブルスの命が危なかったというのに?
 ジェームズはさも正直にすべてを話してますという顔で滑らかに嘘を吐く。

「僕が魔法で――失神呪文とか足縛りの呪いとか――とにかく知っている魔法を片っ端からかけて抑えている間にブラックがセブルスを部屋から連れ出してくれました。リーマスには悪いことをしたけど、ああしなきゃとめられなかった」

 アニメーガスのことも知られたくないのだ。当然だ。法律では魔法省に届出をするよう定められている。
 まだアルタイルは習得していないというのに歳下のジェームズが易々と使いこなしていた。怒りに悔しさが混ざって腹の中をかき回されたような不快感があった。
 ジェームズがマクゴナガルが館に来たところまで話し終えるのとほぼ同時に、校長室にマクゴナガルが駆け込んできた。

「ダンブルドア先生、スネイプは一命を取り留めました! 狼人間にもならなずにすんだと……! 噛まれずにすんだのは不幸中の幸いです」

 頬を紅潮させて上擦った声で報告し、そしてアルタイルの方を向いて微笑んだ。

「あなたが応急処置をしたお陰ですよ、ブラック」
「……よかった」

 安心したら一気に体から力が抜け、吐息と共に言葉がこぼれた。

「ルーピンをとめてくれたジェームズにも感謝しないとの」

 ダンブルドアがマクゴナガルに簡単に説明する。ジェームズは誇らしげに胸を張ったが、マクゴナガルの叱責が飛んできて首をすくめた。

「なんて危ないことを……! 誰か死んでいてもおかしくなかったのですよ。どうして誰も先生を呼びに行かなかったのですか。アルタイル、あなたもです。先程は褒めましたけど自分ひとりで解決しようとするのはまったく良いことではありません」

 肖像画たちはマクゴナガルに賛同する者もいれば、彼らが行かなければ間に合わなかったと擁護する者もいる。にわかに賑やかになった中、シリウスは呟いた。

「スニベルスなんてあのまま死ねばよかったのに」

 小さな声だったけれど確かにアルタイルの耳は拾った。

「今なんて言った、シリウス! もう一度言ってみろ!」

 もう抑えは効かなかった。衝動に身を任せて立ち上がり怒鳴りつける。シリウスの胸倉をつかんだ。杖を取り出して呪文を唱えるより、直接手を出した方が早かったから。

「なんどだって言ってやる。あいつは死んだ方がいいんだ」

 シリウスはせせら笑った。先生がいる前で何ができると目が言っている。
 アルタイルが握りしめた拳を振りかぶろうとした時、肩に手を置かれた。

「これ、手を離すのじゃ」

 ダンブルドアだった。口調は穏やかだが有無を言わさぬ響きがあり、アルタイルは胸倉を掴んでいた手を離した。シリウスはほらなとでも言うように唇の端を吊り上げた。ダンブルドアは骨張った手を肩に置いたまま言う。

「シリウス、今の言葉はわしも聞き逃せんぞ。死んだ方が良い者はひとりもおらんのじゃ。誰かを嫌いになっても殺すことだけは決してしてはならん。わしはセブルスが死んでもシリウスが人殺しになっても悲しいのじゃ」

 シリウスは黙って聞いていたが、表情は不満気で反抗心は隠しきれていなかった。権威をありがたがる性格ではなかったし、初めて言葉を交わした相手から君が大切だということを言われても実感はわかないのだろう。

「ええ……私も悲しいですよ」

 マクゴナガルの声は涙がにじんて震えていた。さすがにずっと世話になっている寮監に言われると堪えるらしい。シリウスは小さくうつむいた。
 小声でジェームズとフィニアスが話している。

「ブラックって実はすぐに手が出るタイプだったりする? 前も廊下でやりあってなかったかい?」
「幼い頃からアルタイルとシリウスの喧嘩は殴り合いになることが多かったぞ」
「勝率は?」
「そんなもの母親に怒鳴られて引き分けだ」
「どこの家も一緒だね。……マクゴナガル先生、黙りますから怒らないで」

 そのような会話を聞いては冷静にならざるを得ない。アルタイルは椅子に戻った。
 さて、と仕切り直したダンブルドアはこれからの話をしようと言った。

「今回のことは皆には秘密にしようと思う」