第29話 月夜に流れる血

 石造りの階段を駆け上がる。足音が夜の静寂を破り、眠りを邪魔された絵画の住人たちがあくび混じりに囁き合った。

「あらあら、フィルチに見つかったのかしら?」
「だが誰も追いかけて来ないぞ」
「じゃあなんで走っているの?」

 アルタイルに周囲を気にする余裕はなかった。早くセブルスに追いつかなければ。焦りで胃の辺りが落ち着かない。馬に拍車をかけるように急いた気持ちが内側から体を蹴りつける。
 玄関ホールの扉は閂がかかっていた。セブルスはまだ城内にいるのか、と思ったが、ホグワーツにはいくらでも抜け道がある。
 アルタイルの指が閂に触れる寸前、背後から声をかけられた。

「馬鹿、フィルチに捕まりたいのか?」

 驚いて肩が跳ねる。振り返ると、シリウスが立っていた。窓から差し込む月明かりが、呆れた顔を照らし出している。

「それを外すとフィルチの部屋の警報が鳴るぞ」

 前にやったことがあるような口ぶりだった。

「生真面目なお前が抜け出すなんてどういう風の吹き回しだ。そんなに急いで、デートの約束にでも遅れそうなのか?」

 のんきなからかいに腹が立った。アルタイルは苛立ちをぶつけるようにシリウスを睨みつけた。

「ルーピンが狼人間というのは本当か?」
「なんでそれをーー」

 シリウスが目を見開いて息を飲んだ。

「セブルスから聞いた」
「あいつがおまえに言うほど仲がいいなんて知らなかったな」
「セブルスは証拠をつかむために行ったぞ」
「本当かい!? シリウス、どこまで話したんだ!?」

 慌てたジェームズの声が割りこみ、何もない空間から姿を現した。もう透明になる魔法を使えるのかとアルタイルは驚いたが、透明マントを使っていたようだ。ベルベットのような光沢のある布をジェームズは腕に抱えこんだ。隣にはぴったりとくっつくようにピーターがいる。だが、ルーピンの姿はなかった。
 アルタイルの顔から血の気が引いた。最悪の事態がすぐそこに迫っていたーーもしかしたら、もう起きているかもしれない。

「早く行かないとセブルスが危ない!」

 アルタイルは乱暴に閂を外した。落ちた横木が大理石の床を転がった。ジェームズが駆け寄り、2人がかりで自分の身長の3倍もありそうな扉を押す。昼間は近づけば自動で開くのにもどかしい。

「ブラック、場所は知っているのか!?」
「暴れ柳だろ」
「ああ!」

 2人はこじ開けた隙間から外に飛び出した。晴れた夜空には丸い月が浮かんでいた。ランプいらずの月明かりに普段なら感謝するところだが、今は忌々しい。

「おい、あんな奴を助けに行く必要はない! スニベルスなんか死んだ方がましなんだ!」

 後ろでシリウスが叫んでいたが、アルタイルもジェームズも振り返ることはなかった。
 校庭の芝生を駆け抜ける。温室の向こうに、目的の木はあった。風邪にそよいでいた枝が不自然にしなる。大蛇のように太く長い枝が、先頭にいたジェームズに殴りかかった。

「おっと」

 ジェームズは後ろにステップを踏んで距離をとった。暴れ柳は枝を振り回して牽制し続けている。追いついたアルタイルも足を止めた。
 
「どうやってルーピンはこの木に近づいているんだ?」
「節を押すと大人しくなるんだけど。ピーターは……置いてきちゃったか。シリウスをなだめてるかな?」

 ジェームズはお手上げだといように肩を竦めた。

「節って……近づかないと押せないじゃないか」
「そうなんだよね」
「合言葉を言えば大人しくなるような安全な方法はないのか」

 アルタイルは杖を握り締めた。こうして話している時間も惜しい。無茶な方法でもやるしかない。

「Avis! Oppugno!」

 杖先から十数羽の梟が飛び出した。続けて、暴れ柳に突撃するよう命じる。柳の注意がそれてる隙に、アルタイルは気の根本に向かって走り出した。太い枝の一撃をくらった梟が、羽毛を散らして消えた。

「右だ! 危ない!」
「Relashio!」

 アルタイルが振り向くのと呪文を叫ぶのはほぼ同時だった。杖先から火花が噴き出す。弾かれたように枝が進路を変え、地面を殴りつけた。飛び散った草と土がアルタイルのローブを汚した。
 ジェームズが口笛を吹いた。アルタイルはさらに杖を振った。

「Incendio!」

 杖先から炎が躍り出た。柳の枝が怯えたように仰け反った。

「いいぞ! そのまま火を出してくれ!」

 宙を舞っていた羽根が焼け落ちていく中を、ジェームズは走り抜けた。幹に近いところにある枝の節を押すと、暴れ柳は石化の魔法をかけられたように動きを止めた。木の葉が風にそよぐこともない。

「ははっ! やったな!」

 ジェームズが快活に笑い、アルタイルも笑みを返した。
 炎を消すと、辺りに夜の暗さが戻った。木の根本に人ひとり通れるくらいの穴がある。そこへジェームズを先頭に這いつくばって入っていった。中は狭く、体をくの字にして歩かなければならなかった。背の高いアルタイルにはきつい姿勢だ。

「どこに繋がってるんだ?」
「叫びの屋敷」
「ホグズミードの?」
「ああ。夜になると聞こえる叫びってのはリーマスの遠吠えだろうね」

 杖灯を頼りに長いトンネルを進んでいく。獣の唸り声が前方から聞こえてきた。

「そろそろ着くぞ。準備はいいか?」
「ああ」

 アルタイルは杖を握り直した。手のひらは汗で湿っていた。
 穴の先は荒廃した部屋だった。壁紙は破れ、壊れた家具が放置されている。窓は板で塞がれていた。獣の咆哮と暴れて床を蹴るような音が天井から響いていた。

「リーマスは2階にいるみたいだ。あっちに階段がある」

 ジェームズがドアを開けてホールに進んだ。足音と息を潜めて階段を上がる。床板がきしんだ音を立てる度に、心臓が恐怖で脈打った。気配に気付いた人狼が襲いかかってくるのではないかーーセブルスを助けに来た自分たちが返り討ちにされる危険は十分にあった。
 部屋のドアは開いていた。覗き込んだジェームズはすぐに飛び出した。

「やめろ! リーマス!」

 狼が倒れた人の上にのしかかっていた。噛みつかれることだけは避けようと、セブルスは両腕で押し返していた。切り裂かれたローブから青白い肌と流れる血が見える。杖とランタンが床に転がっていた。

「Stupefy!」

 アルタイルが放った赤い閃光は狼の頭に命中した。失神呪文はしかし、狼をよろめかせただけだった。急な雨に降られたかのように身震いをすると、唸りながらアルタイルに向き直る。

「ブラック、リーマスは僕に任せて君はスネイプを連れ出してくれ」

 ジェームズは狼を見据えたまま背を丸めた。骨格が変わっていく。皮膚や服が毛に覆われていき、額から生えた角が枝分かれする。美しい肢体の牡鹿に姿を変えた。
 牡鹿は首を下げて角を突き出す姿勢で、前の蹄で床を叩いた。その音に誘われるように狼が飛びかかった。逃げることなく迎え撃つ。正面からぶつかり、相手の体を吹き飛ばした、さらに追撃。軽やかに、横たわるセブルスを跳び越えて、角を使って狼を壁に押し付ける。

「Accio, Severus!」

 アルタイルはセブルスを呼び寄せた。飛んできた体を抱きかかえて部屋を出る。暗い廊下を階段を急ぎながら、温かい血で自分の手が濡れるのを感じた。鉄錆のような嫌な臭い。セブルスの苦しそうな荒い呼吸。

「……おろせ。助けろなんて……僕は言ってない……」
「いいから黙っていろ!」

 1階のホールに着くと、そっとセブルスを床に横たえた。杖を振って天井から吊るされたランプに明かりをつける。切り裂かれたローブをはだけさせた。噛み傷ではない。爪で引っ掻かれたのだとわかって少し安心した。狼人間の爪には呪いはない。アルタイルは手の震えを抑えるため強く杖を握りしめた。

「Episkey…Episkey…Episkey…」

 繰り返し呪文を唱えながら、杖先で傷口をなぞるように動かす。舌がもつれて、最初はうまくいかなかった。こんな大きな怪我を見るのは初めてだった。どれくらい血を失えば人は死ぬのだろう。不安をわきに追いやって、教本の内容を思い出しながら、自分ならできると言い聞かせる。出血が弱まった。自信がつくと後は順調だった。
 すべての傷口が真新しい瘡蓋に覆われた。アルタイルは深く息を吐いた。長い間水の中に潜っていたような苦しさから解放され、体から力が抜ける。
 セブルスは眉間に皺を寄せ目を閉じていた。呼吸は前よりは楽そうだった。
 天井から獣の咆哮と壁にぶつかるような暴れる音が聞こえてくる。ジェームズは無事だろうか。階段を下りてくる足音に、アルタイルは振り返った。

「まだここにいたのか」

 人間の姿に戻ったジェームズだった。怪我はないようで安堵する。

「ルーピンは?」
「部屋に鍵をかけてきた。僕ならこれくらい簡単さ。リーマスは……可哀想に、全身打撲かもしれないな。どこも折れていないといいんだけど」
「鹿になるなんて喰われにいったかと思った」
「おや、狼人間は動物を襲わないってご存じない? 彼らは食べるために噛みつくんじゃないんだ。夕飯をお腹いっぱい食べた後ならなおさらね」

 アルタイルは冷ややかな眼差しを向けた。暴れ柳をくぐり抜けた時の連帯感はすっかり消えていた。

「狼人間にアニメーガスと本物の動物の区別がつかないなんて知らなかったな。いつの間に習得したんだ?」
「今夜のことは黙っていてくれよ。バレたら面倒臭いからさ。アニメーガスの申請とかやりたくないんだ。僕が華麗に出し抜いてなんとかしたってことでよろしく。この怪我じゃ先生に診せないわけにはいかないし。スネイプにも口止めしないとな。気を失ってる? 起きてる?」

 ジェームズは腰をかがめてセブルスをのぞきこんだ。そしてアルタイルの物言いたげな視線に気づいて振り向いた。

「頼むよ。僕らはルーピンにひとりぼっちの夜を過ごしてほしくないんだ。これからもね」

 いつもと変わらない軽薄さの中に真剣な響きが混じっていた。アルタイルは承諾も拒否もしなかった。
 暴れ柳に続く扉が開いた。

「あなたたち……! 一体何をしているのですか……!? ああっ、その血は……!」

 ネグリジェ姿のマクゴナガル先生がランタンを手に入って来る。血塗れのアルタイルとセブルスを見て、先生は表情を凍りつかせた。
 アルタイルは手早くセブルスの容態を伝えた。これから先生に事情を説明して叱責も受けなければならない。長い夜はまだ終わりそうになかった。