第31話 月が眠る頃

「おーい、そろそろ起きないと食いっぱぐれるぞ」

 エリックの声でアルタイルは目を覚ました。まだ覚醒し切らないまま時計を引き寄せると、針はいつもなら身支度をすませている時間を指していた。心地良いまどろみは一瞬で消えた。5分で支度をすませて大広間に行くか、朝食を捨てるか選択を迫られる。
 天蓋付きベッドの緑色のカーテンの間からエリックの心配そうな顔が突き出ていた。

「具合でも悪いのか?」

 迷ううちに時間が切れ、自動的に後者の選択になった。アルタイルは焦るのをやめた。髪をかき上げてから気になって手を顔の前に持っていき、爪の間に血が残っていないか確かめる。

「いや、大丈夫だ。ただの寝坊だ」
「昨日の夜、抜け出してたもんな。いつ寝たんだ?」

 ウィリアムのからかう声がカーテン越しに聞こえてきた。エリックが食いついて身を乗り出した。

「女か!?」
「そんな相手がいると思うか? 忘れ物をとりに行ってたんだ、シリウス関連の」
「なんだ、つまんないな。パンでも持ってきてやるからゆっくりしてていいぞ」

 話したくないことは深追いしない気遣いがありがたい。エリックの顔が引っこんでできた隙間をウィリアムの声が通り抜ける。

「フィルチに見つからなかったか?」
「ああ」
「本当かよ。スリザリンの点数減ってないだろうな」

 寮の点数は談話室にある砂時計を見ればわかる。スリザリンの点を記録するエメラルドは昨夜の消灯時間から減っていない。他に抜け出した生徒がいてフィルチに見つかっていなければだが。秘密にするからには、点の動きが原因で昨夜のことを探られるわけにはいかなかった。
 2人が部屋を出て行った後、アルタイルはベッドから降りた。寝不足以外に不調はない。スラグホーン先生もマクゴナガル先生も普段通りに授業を行うのだろうと思うと、サボるなんて甘えたことはできなかった。

 1週間が経つと大広間でルーピンの姿を見るようになった。遠目にも青白い顔をしていて、何も知らない友人たちに心配されていた。柔らかく微笑んで受け答えする姿は、人を見境なく襲う獣とはほど遠い。
 残忍で冷酷――狼人間とは満月の夜以外もそういう性質なのだとアルタイルは思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
 セブルスはまだ医務室で療養中だったが、面会禁止が解除された。怪我のことは大きな話題にならず、スリザリンの談話室で『魔法薬の調合中の事故なんて嘘じゃないか、本当は呪いの開発中にうっかり自分に跳ね返って先生にも隠しているんじゃないか』と囁かれたくらいだった。
 アルタイルが会いに行くと、ポンフリーの厳しい管理下におかれたセブルスはむしろ普段より顔色が良いように見えた。

「日頃の不摂生がわかるな。退院してからも面倒を見てもらった方がいいんじゃないか?」
「余計なお世話だ」

 アルタイルはサイドテーブルに見舞いの菓子を置いた。先にスラグホーンが来ていたようでメッセージカードつきの花束が飾られている。野花を摘んでまとめたような素朴なものだ。脇に置いてある丸椅子に腰かける。

「食事制限はないんだろう?」
「菓子より珍しい薬草の方がよかった」
「あんな無茶する奴にはあげられないよ。スラグホーン先生の花束で我慢するんだな。綺麗に見えて実は魔法薬の材料セットじゃないか」
「あるにはあるのか」
「僕の実家がどこだと思っている。ああ、全て合法だよ。変な勘ぐりをされる時もあるから念のため」

 戸棚の奥から20年前に取引禁止になった薬草や絶滅した魔法生物の爪が出てくるのは歴史の古い家ならではだ。

「怪我の具合はもういいのか?」
「ああ。ほとんど治ったようなものだ。……君には借りを作ったな」
「シリウスの尻拭いでやったことだし、気にしなくていいよ」

 シリウスがやったことを思い出すと心がざらついた。エリックに愚痴を言うこともできず、吐き出せない気持ちは石を飲み込んだみたいに体の中に残っている。レギュラスには、知ったらますます失望するだろうと考えると言えなかった。

「校長先生は秘密にすると言ったけれど、セブルスは納得しているのか?」
「ブラックの言葉に引っかかってのこのこと人狼に会いに行きポッターに助けられたことを公表しろと? ルーピンは退学になり、ブラックも批判されるだろうが――それとも家の力で揉み消すか?――ポッターはどうだ? ヒーローだ。スリザリン生だって助ける騎士道、素晴らしいじゃないか」

 セブルスは自嘲するように唇を歪めた。よりによって日頃自分を虐めてくる相手に助けられたことはこれ以上ない屈辱だろう。

「君の活躍も秘密になって悪いな」
「弟の不祥事を隠すことと引き換えだから仕方ない」

 それにもしも事実が明るみに出たとして、父様と母様はシリウスを庇うだろうか、それとも今度こそ見限って家系図から名前を消すだろうか。被害に遭ったのは混血と人狼だから、どうして助けたのかアルタイルの方が問われることになるかもしれない。

「セブルスのお見舞いに来ました」

 入り口の方からリリーの声がした。セブルスが渋い顔をしたが、日頃の2人の様子を考えると嬉しくて頬が緩みそうになるのを誤魔化したのだろう。

「笑顔で出迎えてあげなよ」
「来てほしいなんて言ってないし来られても――」
「僕はもう行く」

 アルタイルはわざと音を立てて丸椅子から立ち上がった。照れ隠しとはいえ、「迷惑だ」なんてリリーに聞かれない方がいいだろう。自分が原因で喧嘩したら目覚めが悪い。
 仕切りのカーテンから出る。ドアの前でリリーがポンフリーと揉めていた。

「セブルスが前からほしいと言っていた物で、スプラウト先生を手伝って、温室から採っていいって許可をもらったんです」
「ええ、それはわかりました。ですが、今問題なのはその薬草の入手経路ではなく、泥つきの根っこを医務室に持ちこむのは不衛生だということです!」

 

 

***

 図書室に整列する棚の間をプレートの分類を頼りにアルタイルは歩いた。手前にある必修科目の列を通り過ぎ、奥の上級魔法薬学のさらに後ろに治癒魔法の棚はあった。
 セブルスの体から流れ出ていく赤い血が忘れられない。
 自分はできる限りのことはしたと思う。拙くとも治癒魔法で応急処置はできた。あの夜のことを夢に見て汗をかきながら起きることも、時間の経過と共に日々の出来事に埋もれてなくなるだろう。
 それでも負けず嫌いな性格が上手くできなかった自分を許せなかったし、もしも闇の帝王に憧れるレギュラスが死喰い人になったら怪我をするかもしれず――帝王の手足となって働くレギュラスが誰かを傷付けることは脇に今は置いておく――将来後悔しないためにできることを増やしておきたいかった。
 ほとんど貸し出されないのか少し埃っぽい本を何冊か開き、自分のレベルに合ったものを探す。

「ブラック」

 遠慮がちに呼ばれて顔を上げると、リーマスだった。いつもシリウスとジェームズの悪戯を見守り、ピーターのように囃し立てることもないので、こういう声をしていたのかと思う。

「この間はありがとう」
「礼を言われるようなことをした覚えはない」
「誰かに聞かれてもいいように気を遣ってくれてるの? 場所を変えようか。嫌ならマダム・ピンスに見つかるまでここで話すけど」
「脅迫じゃないか」

“大人しい”というリーマスの評価を“意外といい性格をしている”に改める。

「場所はどこにするんだ? 本を借りてから行くから先に行っていてくれ」

 本2冊分重くなった鞄を持って、ひとつ上の階の物置に入る。皿の割れた河童のミイラにアメリカの魔法具だというドリームキャッチャー、古くなった教材が雑多に詰めこまれていた。
 夕陽が差し込む窓辺で、リーマスは片手で反対側の腕を握って佇んでいた。

「あ……本当に来てくれたんだ」
「約束を破るような奴に見えたか? ひどいな」
「人間相手にはそうでも、狼人間にはどうかわからないでしょ」

 リーマスが今まで受けてきた差別の一端に触れ、アルタイルは返す言葉がなかった。自分だってついこの間まで、狼人間は皆グレイバックのように人間を噛むのが好きだと思っていたのだから。

「わざわざ来てもらってごめんね。ブラックにはちゃんとお礼を言いたくて。……スネイプを助けてくれてありがとう。僕が狼人間だってことを秘密にしてるくれて、先生たちに透明マントもアニメーガスのことも黙っていてくれてありがとう」

 声が震えている。相手がすでに知っているとはいえ、自分が狼人間であることを言うのはリーマスにとってどれくらい勇気がいるのか、アルタイルは想像してみる。

「話を聞いた限りシリウスが勝手にやって君は巻きこまれたんだろう? 君が礼を言う必要はない」
「でも僕がセブルスを狼人間にせずにすんだのも、みんなにバレて退学にならずにすんだのも君のお陰だから」
「あいつがやったことが知られたら家の評判にも関わるからな」
「シリウスの言った通りだ」

 リーマスは緊張が解けたように小さく笑った。

「シリウスからは『礼を言う必要はない。どうせリーマスのためにやったことじゃないから』って言われてたんだ」
「……シリウスとはまだ仲が良いんだな」
「それはどういう意味?」

 リーマスの顔から表情が消えた。

「僕が狼人間だから? 弟から遠ざけたくて?」
「誰があいつの心配なんかするか。シリウスは君を利用してセブルスを殺しかけたんだぞ。僕なら今後の付き合い方を考え直すな」

 その言葉から逃げるようにリーマスは目を伏せたが、「それでも」と口を開いた時には意を決したようにアルタイルの目を見返した。

「シリウスは大事な友達だから。狼人間だって知っても変わらず友達でいてくれて、僕は初めて満月の夜を誰かと一緒に過ごしたんだ」
「そうか」

 リーマスの孤独はアルタイルにはわからない。彼がそれでいいと言うのなら尊重すべきだろう。

「それに僕だって校則どころか法律を破らせているんだから人のことは言えないよ」
「それもそうだな。一体いつからアニメーガスに……いや、やっぱりいい。これ以上共犯にはなりたくない。でも、ひとつだけ聞かせてくれ。シリウスは何の動物に変身するんだ?」

 変身する動物がかぶっていたら嫌だ。シリウスとおそろいなんて恥ずかしい。

「僕からは勝手に言えないよ。シリウスに直接訊いて」

 リーマスは笑って言った。