第1話 終わりの始まり

 これからホグワーツ特急に乗る息子たちに、母親が厳しい口調で言った。

「ホグワーツに行ってもブラック家の魔法使いとして恥ずかしくない振る舞いをしなさい。よいわね? あなたたちには誇り高い純血の血が流れているのだから」
「はい、母様」

 長男のアルタイルは礼儀正しくこたえた。背が高く、親譲りの黒い髪と灰色の目を持ち端正な顔立ちをしている。幼い頃から繰り返し言い聞かされる度に、母を失望させてはいけないと真面目に受けとめてきた。
 母親のヴァルブルガは満足げにうなずいた。しかし、返事が一人分しかなかったことにまなじりをきつくつり上げた。

「シリウス、聞いているの? あなたにも言っているのよ。家名に泥を塗るようなまねは決してしないと誓いなさい」

 高貴な血が流れているという自負がヴァルブルガに苛烈な威厳を与え、自信に満ちた振る舞いが美貌をさらに輝かせる。とはいえ、次男のシリウスにとっては母親の命令なんてそよ風程度のものらしい。
 シリウスはきょろきょろと辺りを見回していた。母親に似た人目を引く顔は好奇心でいっぱいで、何ひとつ見逃さないぞとばかりに目を大きく開いている。アルタイルが両肩をつかんでいなければ、今にも駅の探検に行ってしまいそうだった。キングズ・クロス駅に来るのは初めてではなかったが――昨年にアルタイルの見送りに来ている――壁一枚向こうのマグルが往来する場所には行っていない。
 アルタイルが肩を強く握ると、シリウスはようやくおざなりな返事をした。

「はいはい、わかってるっつーの」
「母親に向かってなんて口の利き方なの! そのような言葉遣いを教えた覚えはないわ!」
「いちいちうっせえんだよ」
「シリウス! あなたという子は……!」

 ここまで怒らせたら火を吹く直前のドラゴンさながらに手がつけられない。アルタイルは小さく天を仰いだ。母の横では三男のレギュラスが、余計なことばかり言う一つ上の兄に非難の眼差しを向けていた。幼いながら美しい顔立ちだが、まだ親のような迫力はない。

「まあまあ二人とも、そろそろ発車の時間だ」

 父親のオリオンがやんわりと口を挟んだ。妻とどことなく顔立ちが似ているのは従姉弟である証だった。ヴァルブルガは夫に鋭く睨んだが、さすがに外で夫婦喧嘩をする気はないようだ。ひとまず矛を収めたものの母は不機嫌な空気を隠さず、レギュラスが顔色を伺っていた。

「レギュラス、ホグワーツに着いたら手紙を出すからね」

 例年入学する弟に向けてアルタイルは言った。

「約束だよ。シリウスも手紙書いてよね」
「しょうがねえな」

 乱暴な言葉遣いをヴァルブルガがまた叱りつけようとしたが、汽笛が曇天を裂くように鳴り響いて遮った。シリウスはアルタイルの手を振り切り、軽快に真紅の汽車に飛び乗った。

「おい、アルタイルも早く来ないと置いていかれるぞ」
「父様、母様、レギュラス、行ってきます」

 アルタイルはきちんと挨拶をしてから乗りこんだ。
 コンパートメントに入ってすぐに汽車は走り出した。アルタイルは窓からレギュラスに向かって手を振り、その隣からシリウスが身を乗り出した。

「レギュラス、俺に会えなくなるからって泣いてんじゃねえよ!」
「泣いてないよ!」
「べそかいてるくせに!」
「泣いてないって!」

 汽車はどんどん速度を上げていく。プラットホームに残った人たちは伝統的なローブ姿だったりマグルの服装だったり様々だった。笑って手を振る人もいれば、誰かの妹だろう小さな子供は走って追いかけている。人混みの中から家族を見失わないようアルタイルは目を凝らした。保守的な魔法使いの姿が遠くに消えて見えなくなるまで。

「やっとあの家から出られる!」

 シリウスは勢いよく座席に座り、家の椅子と違う固い感触に眉をしかめた。勢いが良すぎて尻をぶつけにいったようなものだった。アルタイルは声をあげて笑った。

「どうした、家のソファが恋しくなったのか? 教室のはもっと固いぞ」
「ちげえよ、バカ」

 シリウスは少しの間座り続けていたが、すぐに落ち着きなく立ち上がった。

「探検してくる」
「正午に車内販売が来るから、それまでに戻っておいで」
「わかった」

 シリウスはコンパートメントから飛び出した。駅からずっと我慢していたのだ。リードをはずされて大喜びで走り出す子犬のようだった。
 アルタイルは友達に会いにいこうかと思ったが、つかまって戻れなくなったら困るし、シリウスはきっとアルタイルの友達を気に入らないだろう。鞄から『イギリス変身術の歴史』を取り出して昨夜の続きから読んでいると、コンパートメントの戸が開いた。
 茶色い髪の少年が澄ました顔に笑顔を浮かべる。ルームメイトのウィリアム・ブレアだ。

「ここにいたのか。向こうにエリックとローズもいるぞ、来ないか?」
「やめとく。今年は弟と一緒なんだ」
「へえ、ブラック家の御子息が」
「今はどっかに行っているけど、戻ってきた時に僕がいないと困るから」
「名前は何ていうんだ? 弟も一緒に来るといいよ。あいつらも歓迎する」

 友達の弟だからというより、ブラック家の子だからという感じだった。うんざりしているのが伝わらないようにしながらアルタイルは断った。無表情を保つのは得意だ。

「シリウスっていうんだ。悪いけど、兄弟だけで過ごしたいんだ」
「お前が弟思いなお兄ちゃんだったなんて知らなかったな」
「初めてで緊張しているみたいだし、ゆっくりさせてやりたいんだ」
「それじゃしょうがないな」

 ウィリアムは出ていった。シリウスが聞いたら怒りそうな言い訳であり、会ったことがあるエリックならあいつはこれくらいで緊張するタマじゃないだろと指摘しただろう。
 正午を過ぎて車内販売の魔女が来ても、シリウスは戻ってこなかった。カートに山積みになったお菓子はどれも家では食べさせてもらえないものだ。たまに叔父のアルファードがくれる以外は。母の顰蹙を買うけれど、アルタイルは叔父もお菓子も好きだった。
 アルタイルは蛙チョコと、シリウスのためにバーティー・ボッツ百味ビーンズを買った。魔女から商品を受け取っていると、走る足音が近づいてきた。

「間に合った! 百味ビーンズとドルーブルの風船ガムちょうだい」

 シリウスはコンパートメントに入るなり、アルタイルの持っているお菓子の箱を見て首を傾げた。

「百味ビーンズ好きだっけ?」
「お前の分だよ!」
「やった!」

 箱を投げつけると、シリウスは片手でキャッチした。
 シリウスは最高の奴にあったと上機嫌だった。さっそく友達ができたらしい。お菓子と屋敷しもべ妖精のクリーチャーが作ったサンドイッチを食べたり、たわいもない話をしたりしているうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。
 天井のランプに灯がともる。人里を離れて走る汽車の外は吸い込まれそうなほど闇が濃く、見えるのはガラスに写る自分の半透明な姿ばかりだ。

「そろそろホグワーツに着くな」

 アルタイルは独り言のように呟いた。シリウスから反応はなかったが、元より返事を期待していなかったので気にならなかった。
 会話が途切れて静かになったコンパートメントに、シリウスの声が落ちた。

「……俺はグリフィンドールに入る」

 アルタイルと目が合うと、シリウスはにやりと悪戯をする時のように笑った。
 とうとうこの日が来たか。驚きはしなかった。強いて言えばシリウスが宣言したことが意外なような、いやシリウスらしいのかもしれない。

「そんな気はしていたよ」

 シリウスは幼い頃から純血主義を嫌い、親の言うことに反発していた。アルタイルは最初に弟が異議を唱えた時から見てきたから、スリザリンに入れとは言えなかった。

「スリザリンは嫌か?」
「当たり前だろ。七年間ずっとあいつらの決めた寮にいるなんて俺は御免だ」
「何もグリフィンドールにしなくていいのに。レイブンクローなら父様も母様もあまりうるさく言わないよ。ハッフルパフなら馬鹿にしてくるだろうけど」
「だからグリフィンドールなんだよ」

 シリウスはふてぶてしく笑った。
 絶対にグリフィンドールに入る気だ。弟の硬い意志を感じる。組分け帽子が何と言おうとねじ伏せてしまうのだろう。いつだってシリウスは自分が正しいと思ったことをやってきた。
 ならばアルタイルに言えることは一つだけだ。顎を上げて、高慢な親の振る舞いをまねする。

「好きにしたらいいけれど、僕はブラック家の長男としてふるまうよ」
「クソつまんねえ生き方だな」

 シリウスが一笑に付しても、アルタイルには家も長男として家を継ぐべき立場も譲れないものだった。
 汽笛を上げながらホグワーツ特急がとまった。プラットホームに降りると、夜の冷たい空気が肺に染みた。

「イッチ年生はこっち! イッチ年生はこっち!」

 ホームの端で、森番のハグリッドがランタンを掲げている。並外れて大きな体は遠目にも目立った。

「じゃあ、上級生はこっちだから」

 アルタイルはシリウスに背を向け、シリウスは汽車で知り合った少年の姿を見つけて駆け出した。兄弟は互いに後ろを振り返らなかった。