1回目リドル

 ベッドから落ちる感覚がして、夢から叩き出された。あっやべ、と思った時には床と激突している。いってえ……。そんなにひどい痛みではなかったが、寝起きのだるさでしばらく床に伏せったままでいた。ひやりとした石の感触が頬や手にあたって気持ちいい。
 ん? ちょっと待て、おれの部屋は畳だろ。
 違和感に目を開けると、部屋はオレンジ色の薄明かりに照らされていた。瞼の暗闇に慣れた目には眩しすぎずちょうどいい。だが、おれは豆電球を点けずに真っ暗にして寝る派である。床の素材はやっぱり石で、白いインクで模様というか記号らしきものが落書きされている。……ここはおれの部屋じゃない、だと……?
 部屋を見回そうと身を起こすと、うわ、誰だよ。白い肌の外国人がいた。日本語は通じるんだろうか? 見知らぬ場所にいることよりもそっちの方が心配になる。歳はたぶんおれと同じくらい。つまり、男子高校生ってところだ。片手にいかめしい革表紙の本を持ち、黒いローブを着ている。大きな杖こそ持っていなかったが、魔法使いって感じの格好だ。コスプレだろうか? 最近のアニメや漫画にこんな服装のキャラがいたかな、と首をひねるがすぐには出てこない。
 そいつとおれは言葉もなく見つめ合った。状況が理解できずに呆然としているおれと違い、そいつは驚きで口がきけないようだった。だがその驚愕も興奮に変わり、笑い声が静寂を破る。

「は……ははっ、はははっ! この本に書かれていることは本当だったんだ!」

 流暢な日本語なのにホッとしつつも、なんだろう、こいつと話しが成り立つ気はあんまりしない。なんか人の話聞かなそうな感じ。
 相手が落ち着くのを待つ間、周囲を見てここの情報を集めることにした。オレンジ色の光は蝋燭の灯りだった。床の模様は円とどこかの文字らしく、ぐるりとおれを囲っていた。まるで魔方陣だ。というかそうなのか、黒魔術か。おれは召喚されたのか、と思うのはゲームか漫画の影響……いや、こいつのせいだな。目の前のやつがコスプレしてるせいだ。

「なんだかしょぼそうなのは残念だけど、まあこの際なんでもいいか」

 そりゃどういう意味だよ。言い返そうとしたけど、自分が寝巻きのダサいジャージ(小豆色。中学校の校章入り)姿なのと、自分の容姿が目の前の彼とは月とスッポンなので断念した。むかつくことに、目の前のこいつはコスプレじみたローブ姿でも、決してしょぼくないイケメンだった。世の女性たちがイケメンの黒魔術趣味を知ってドン引きすればいいのに。

「さあ魔神よ、まずはおまえの名前を聞かせてくれ!」
「魔神? 何言ってんだ、あんた」
「なんだ、僕は魔神以下の小物を呼び出したのか?」

 そいつの口調はいたって真面目で、おれの方が困惑させられた。ひょっとしてまだ夢の中にいるんじゃないか?
それにしては床の冷たさや肺にしみる夜の冷気がリアルだった。ここは夢か現実か、どっちなんだ。
 おれが黙っていると、相手は「それじゃ悪魔か君は? それならそれでいい。おまえの名前を言え」と偉そうに言ってきやがった。何様だ、おまえ。

「……その前に確認していいか? おれをここに呼び出したのはあんたなんだよな? おれをここから帰せるのはあんた次第か?」
「そうだ。僕の要求にこたえることができたら、ここから帰してやろう」

 相手のぶれない偉そうな姿勢に、おれが何を言ってもこいつは聞き入れないんだろうな、と諦めに似た理解が訪れる。おれは深めの呼吸をひとつして腹をくくった。とりあえずこの状況を丸ごと受け入れようじゃないか。

「オーケー、わかった。あんたの要求を叶えりゃ帰れるんだな」

 これが夢であれなんであれ、とりあえずこいつに付き合って帰してもらうことにしよう。帰り方はわかった。それが重要だ。

「おれの名前は奥峰龍臣。そっちは?」
「ヴォルデモート卿だ」
「はあ?」

 世界的大ヒット作の悪役の名前だった。何様かと思えば、俺様でしたか。その小説なら読んだことがあるから、夢なら出てきてもおかしくない。でも、おまえ、まだリドルじゃないのか年齢的に。学生だろ。いや、学生時代からその名前使ってるんだっけ?

「なんだ、僕の名前に不満が? 今はまだ無名かもしれないが、これから知らぬ者はいなくなる名前だぞ」
「あーいや、そこじゃなくて……それ本名か?」
「悪魔に本名さらす馬鹿がいるわけないだろう」
「そうなのか?」
「おまえは無知を装ってこちらを油断させようとしているのか? 生憎僕には効かないぞ」

 うーむ、悪魔については本当に無知なんだが。悪魔、悪魔ねえ……あ、でもひとつだけ知っていることがあるじゃないか。悪魔が出てくる物語なら読んだことがある。そこで悪魔は何をしていた?

「悪魔に用があるってことは、魂を売り渡す契約をするってことか?」
「おまえは何を言っているんだ」

 ほとほと呆れたようにヴォルデモート――いや、リドルはため息をついた。ヴォルデモートというと蛇顔のイメージが強くて、こいつの綺麗な顔にはトム・リドルという名前の方がしっくりくるんだよな。

「魔方陣の中にいる限り悪魔はこっちの言うことを聞かなければならないんだ。願いを叶える代わりに魂を渡すのは、悪魔の方から僕のところに来て話を持ちかけなくてはならない」
「ははあ、勉強になります」
「まったく、どうなってるんだ。悪魔ですらないのか、これは」

 いらだちを隠しもせず、リドルは舌打ちした。
 超常の力が使えないという点では、おれは悪魔どころか魔法使い以下だ。しかしそれを言って、万が一キレたリドルに殺されたら嫌なので黙る。
 これが夢なら、殺されれば夢からさめるのだろうか。英語原作の登場人物がこんな流暢に日本語を話しているのも、夢であれば説明がついた。

「あんた、日本語うまいな」
「何を言っているんだ。これが英語と言うことも知らないのか」
「おれにはあんたが日本語を話しているように聞こえる。だけどあんたは英語で話しているんだな。おれは日本語で話しているけど、どう聞こえている?」

 さっきから馬鹿な質問をするおれにいらついていたリドルが、急に真顔になった。

「この魔法陣、翻訳機能もあるのか」
「翻訳魔法なんてあるのか?」
 記憶に間違いがなければ、そんな便利な魔法は小説に出ていなかったはずだ。外国の魔法使いも登場していたが、片言の英語を話す描写がされていた。

「あるけどどれも実用に耐えない下手なものさ。これはずいぶん出来がいいな」

 リドルはあまり言葉の問題に興味がないようで、この話題をこれ以上広げなかった。

「龍臣、出てきた以上は訊いておくけれど、ホグワーツにある秘密の部屋の場所を僕に教えろ。知らないのなら探し出して教えるんだ」

 おっと、このリドルはまだ秘密の部屋の場所を知らないらしい。

「なんだ、そんなことならお安い御用だ」

 おれが言った途端、リドルの目が赤く輝いた。背筋に寒気が走る。獲物を見つけた蛇が急に飛び出してきたような――リドルが目的のためなら暴力も殺人も躊躇わないキャラだったと不意に思い出した。
 やばい。ここでふざけたら殺される。リドルは本気で秘密の部屋の場所を知りたがっている。
 リドルが秘密の部屋を開けると、中にいる蛇がひとりの女子生徒を殺すことになるのを思い出したが、だからどうした。おれがここで沈黙を通そうがあの生徒は死んで、というかもう本の中では死んでいて、殺したのは蛇であり、あの話を書いた作者だ。
 それにおれは自分の命の方が大事だ。いまさら、嘘です知りません、なんてリドルには通用しない。

「その部屋なら女子トイレの中にある。どこのトイレかまでは知らないから頑張って探してくれ。ホグワーツは広くて大変だろうけど」
「女子トイレだと?」

 リドルの目が鋭く細められて、おれは慌てて続けた。からかっているわけじゃないんだから、そんな怒らないでくれ。

「嘘や冗談なんかじゃない。おれの知る限り本当に女子トイレにあるんだ。流し台の蛇口に蛇語で話しかけるといい。『開け』とかなんとか。それで秘密の部屋への入口が開く」

 言っている間、リドルはずっと用心深くおれの目を見つめていた。翻訳魔法は出てこなくても、人の心を覗く魔法は出てきていた。開心術を使えば、相手が嘘を言っているかどうかわかるのだ。
 だからこそリドルは、『冗談だと言ってくれ』と顔で懇願していた。おれの言ったことに嘘がないとわかってしまったから。

「……それが本当だとして、なんで女子トイレなんだ。サラザール・スリザリンは男だろう」
「おれにきかれても」

 それは作者にきいてくれ。とりあえず適当に返す。

「変態だったんじゃねえの」
「馬鹿な! 偉大なスリザリンがへんっ……!」

 喉が締め付けられたようにリドルが絶句する。たとえ仮定であってもスリザリンが変態だとは口が裂けても言いたくないようだ。
 リドルの反応が面白いので、おれはまた適当なことを言う。

「あー、じゃあ本当はサラ・ザール・スリザリンとかいう魔女だったんじゃねえの?」
「ふざけるな! そうだ、男だということを逆手に取った巧妙な隠し場所だ……そうに違いない……」

 どうやら自分を納得させる説明を思いついたらしい。ぶつぶつと呟いて必死に自分に言い聞かせている。本当のところどうなんでしょうか、J. K. ローリングさん。

「で、おれはもう帰してもらえるのか? それとも本当に秘密の部屋があるのか確かめてからか?」
「いやもう充分だ」

 リドルは疲れた様子で首を左右に振る。それから思いついたように、「最後にひとつ」ときいた。

「おまえはなんで部屋の場所を知っているんだ?」
「それは……」

 正直に読者だからだと答えれば、リドルは先の展開を知りたがるだろう。それではいつ帰してもらえるかわかったものではない。ハリポタ世界にいられるのはなかなか魅力的だが、魔法陣の外に出られないんじゃ意味がない。それに君子危うきに近寄らずというし、未来の闇の帝王様からさっさと離れたい。
 この時もリドルは無言でおれを見つめていた。毒蛇に睨まれたような威圧感。開心術を使われているのなら、何を言おうとどう答えようと無駄なあがきに思えた。おれは早く帰って寝たいという気持ちを前面に出す。これだって嘘ではないのだし。寝ているところを叩き落とされたのだから。

「どうだっていいじゃないか。あんたは秘密の部屋の場所が知りたかった。だからおれが召喚された。それで充分じゃないか」
「ふうん……ま、いいけど。そういうことにしておこうか。さ、約束通り帰すよ」

 リドルが、おれには意味のわからない言葉を呟く。呪文なんだろう。せっかくの機会だから魔法を使うところを目に焼きつけようとしたけれど、低い声が堪らなく眠気を誘い、全ての光景は瞼が作る闇に閉ざされた。