3回目シリウス

 ベッドから落ちる感覚がして、夢から叩き出された。あっやべ、と思った時には床と激突している。いってえ……。二度あることは三度あるというが、しかし今度は石の床ではなく木の床だった。
 痛みにうめきながら顔を上げた。さらに今までと違うことに、おれを召喚したのは学生ではなかった。マジか。てっきり今度召喚されることがあったらハリーに呼ばれると思っていたのに。リドルに悪戯仕掛け人ときたらそう思うだろ?
 そこに立っていたのは長い黒髪の男だった。髪は皮脂と埃で汚れてもつれ、服はボロボロ。思わず鼻をつまみたいくらい臭う。もとはイケメンだったんだろうが、顔の肉がこけて昔の面影をとどめるばかりだ。やつれ果てた風貌の中、目だけが暗くぎらついていた。これから何かやってやろうとでもいうように。潜伏中の犯罪者ってきっとこんな感じだろうか。
 ああ、なるほど、今はアズカバンを脱獄したところか。だとすると、ここはきっと叫びの館なのだろう。
 男が口を開いた。声はかすれていた。長い間誰とも話さず、久しぶりに声帯を使ったかのようだった。

「おれが誰かわかるか?」
「シ――いや、違う。あれだあれ、パッドフット」

 あぶね、シリウス・ブラックって言うところだった。おれはその名前を知らないことになっているのだ。

「お前は変わらないな。悪魔は年をとらないのか?」

 おれの時間では、前回シリウスたち悪戯仕掛け人から呼び出された時から数か月しかたっていない。まあ、こっちの事情を伝えることもないだろう。

「驚いたな、あんたに召喚されるなんて。おれの力を認めてたようには思えなかったんだが」

 この前召喚された時にシリウスと友好的な関係を築けたとは言い難い。今だっておれを見つめるシリウスの目は、じっとりと負の感情を含んでいる。ちょっとやばいんじゃないでしょうか、おれ。冷汗が背中をつたう。ここにはあの時シリウスをとめてくれたリーマスがいない。殴り合いになったら勝てるかな? ろくに食べてなさそうな相手だしいけるか。魔法を使われたら終わりだが。こっちは非力なマグルなのだ。

「お前に言ってやりたいことがあってな」
「言いたいこと?」
「お前のせいでプロングスは死んだんだぞ!」

 シリウスがほえた。憎しみで顔を歪ませて。ジェームズが隣にいた頃の屈託のない様子はどこにもなかった。

「お前は知ってたんだ! プロングスが死ぬこともワームテールが裏切ることも! 予言したよなあ、プロングスの息子が有名になるって。なんで有名になるかも知ってたんだろ⁉ お前の予言は全て当たったぞ……ムーニーは今ホグワーツで教師をやっているし、ワームテールは夏に赤毛の大家族とエジプト旅行だ。お前がワームテールが裏切ることを言っていれば防げたんだ! プロングスは死なずにすんだんだぞ!」

 シリウスの怒声はまるで弾丸ような勢いでおれに叩きつけられた。しかし、ちっとも痛くはない。
 リドルから秘密の部屋の場所をきかれた時も、マートルが死ぬことがわかっていたが答えたのだ。先のことを言うことで防ごうなんて、悪戯仕掛け人を相手にした時にこれっぽっちも思いつかなかった。おれにとって目の前の男は生身の人間ではなく、本の中の登場人物だったから。かわいそうとは思っても、助けようとは思わない。本の中の人間をどうやって助ける? 作者に頼んで書きかえてもらうか? それじゃおれの好きになった話じゃなくなる。読んでいてこっちがつらくなるような展開こみで、その話が好きになったんだから。
 だからシリウスが、おれの予言した通り――本の通り――になったと言って、おれは喜びさえ感じていた。

「おい、なんか言ったらどうなんだよ。今の聞いてなんとも思わないのか?」

 シリウスの息は荒く、声はさっきより静かだ。長い囚人生活で体力が落ちているのだろう。血走った目だけがギラギラと輝き、まだ力を失っていない。
 おれの返事によってはシリウス・ブラックが本当に人殺しになってしまうんじゃないだろうか。身の危険を感じるが、リドルほどではない。隙を見せたらシリウスは飛びかかってくるだろうから、おれは腕を組んで平静を装う。野犬でも相手にしている気分だ。

「あんたの期待しているようなことは思わないな。自分で言ったじゃないか、おれのこと悪魔だって。悪魔に何を期待しているんだ?」

 また怒鳴られるだろうと予想したけど、シリウスは乾いた虚ろな笑いをこぼして、立つ気力すら失われたように床に座った。

「ああ……そうだ、お前は悪魔なんだよなあ。しょぼい見た目のせいで油断しちまったが。悪魔が人のためになることするわけないって気づけばよかったんだ、もっと早く。……思い出した。そういやお前、あの時帰れるかどうか気にしてたよな」

 シリウスは口角を鋭く上げて笑った。嫌な予感がする。

「一生お前はここにいろ。おれは絶対おまえを帰さない」

 全身から血の気が引いた。憧れの魔法界暮らしだやったね、と思えるほど呑気ではない。魔法が使えないのにハリポタ世界にいてどうするっていうんだ。マグル界で暮らすしかないぞ。戸籍とかどうするんだ。土下座して許しを乞う? まさか! 頭に浮かんだ選択肢を一瞬で打ち消した。
 特別な力のないおれに必要のはハッタリだ。ふてぶてしく見えるように顎を上げてシリウスを見下ろす。

「そんなことしたらどうなるのか、わかっていないみたいだな――シリウス・ブラック」
 勝ち誇っていたシリウスの表情が愕然と崩れた。
「な、なんで……おれの名前を……」

 悪魔に本名を知られたらまずいと教えてくれたリドルに感謝だ。おれはせいぜい冷酷に見えるように唇に笑みをはりつけた。悪魔らしく、ね。

「おれはなんでも知ってるんだぞ。お前が脱走して身を潜めていることも、これから何をしようとしているかも。ワームテールを殺すんだろ? そのためにアズカバンを脱獄したんじゃないのか。なあ、あんたがおれを帰さないって言うんならそれでもいいさ、シリウス。おれはあんたの居場所を通報する。どこに隠れたって無駄だ。だっておれはなんでも知っているんだから」

 シリウスはおれを睨みつけたが、そこにさっきまでの強さはなかった。

「お前を呼んだのが間違いだった」
「奥峰龍臣。おれの名前だ。一度くらい名前で呼んでくれよ」

 登場人物がおれの名前を呼ぶって普通じゃありえない体験だ。せっかくだし、呼んでもらいたい。たとえそこに良い感情が込められてなくても。

「絶対に呼ばねえ」

 シリウスは精一杯の抵抗をしてから、呪文を唱え始めた。
 眠気に襲われる前に、おれは言う。

「お前が文句を言うなら、おれじゃなくて神様にすべきだったよ。おれにはなんの力もないんだから」

 作者という創造主に。
 返事はなかった。シリウスは途切れることなく呪文を唱え続けていた。つーか、リドルとジェームズが手にしていた召喚の仕方が書かれた本をシリウスは持っていないんだけど、何年も前にやった手順を覚えているのか。すげえな。
 召喚されるのはこれが最後でいい。彼らと会うのは本越しが一番だ。悪魔じゃなくて読者として。
 瞼が落ちる。全ては闇に閉ざされた。