その後の話 2

 お前は頭がいい、天才だ、とばあちゃんはことあるごとに言ってくれた。それを信じるくらいにはリーバー・ウェンハムは素直な子供で、黒の教団に入った時も自分なら当然という気持ちがあったことは否定できない。しかし、科学班の先輩や同僚の頭の出来に、すぐに自惚だったと気づいたのだが。
 何の役職もないただの科学班員のリーバーは今日も書類に埋もれて机に向かっていた。最後に自室のベッドで寝たのはいつか考えたくもない。

「あんたがリーバー・ウェンハムさん?」
「ああ、そうだけど」

 聞き慣れない若い声に怪訝に思いながら顔を上げる。そのわずかな間にも、アクセントからドイツ語が母語の人間だと判断していた。地域は――。
 金にも見える薄茶色の目と視線が合い、思考がとまった。声が若いのは当然だった。相手は椅子に座る自分とそう変わらない目線の高さの子供だったのだから。
 エクソシストのハイダ・シェーファーだった。非番だからかシャツとズボンという気楽な格好をしている。ローズクロスのついた重々しいコートを脱ぐと街中にいる子供と変わらない……というには、彫刻のようにどこか人工的と感じるほど目鼻立ちが整っていた。

「俺に用?」

 何の用か検討もつかず、呆然と問いかける。彼女の任務に直接関係するような仕事はしておらず、興味を持たれるようなものでもないだろう。

「ええっと……言葉の、なんだっけ……言語学? が専門だって聞いたけど」
「ああ」

 あと数学と化学、と心の中で付け加える。

「じゃあ、辞書にも詳しい?」
「まあ、人よりは。辞書がほしいのか?」
「英語のやつがいるんだ」
「それなら書庫に行って訊いた方がいいんじゃないか?」
「あそこにあるの外に持ち出したらダメなんだろ? だから自分で買おうと思ってんだけど、どんなのがいいかわかんなくてアドバイスがほしいんだ。誰に訊けばいいかもわからないし、とりあえず言葉の専門家のところに来たんだが違ったか?」
「へえ、勉強熱心だな。そういうことなら司書でも俺でも大丈夫だ」

 抱えている仕事の量を考えれば司書に任せた方がいいのだろうが、面倒見の良いリーバーは引き受けた。頑張る子供の手助けができるのは嬉しく、自分の専門となればなおさらだ。私物の辞書でぴったりな物があればあげてもいい。

「英語の辞書か? 外に持っていくなら軽くて小さい物がいいか」
「それから簡単でわかりやすいやつ」
「子供向けのポケット辞書はどうだ」

 この時点でリーバーの手持ちの辞書は全て候補から外れた。子供向けの易しい物は実家の本棚に置いてきた。

「英英、それとも英独?」

 ハイダが不思議そうな顔をしたので、英単語の説明を英語でしているかドイツ語でしているかの違いだと言い添えた。

「俺はドイツ語の読み書きできないんだ。わかるのは英語だけだよ。それも怪しくて、報告書だって書き間違えてばっかだ。読めない単語も多いし、長い文章は頭が痛くなる」
「自分から学ぼうとするなんて偉いじゃないか」

 つい近所の子供にするように頭を撫でていた。癖のない髪には天使の輪と呼ばれる艶ができている。裕福な家の子であればまだ学校に通っている歳だ。こんな幼い子を選ぶなんて神様も酷なことをする。
 ハイダは避けたり振り払ったりしなかったが、顔を顰めた。

「悪い。嫌だったか」
「子供扱いしないでくれ。これでも一人前のエクソシストだ。さっさと大人の体になってあんたの背を抜かしたいよ」
「早く寝ないと成長ホルモンが出ないぞ」
「それが子供扱いだって」

 ため息混じりに詰られ、リーバーは肩をすくめた。早く大人扱いされたくて背伸びしたい気持ちには身に覚えがある。もう微笑ましいと思える歳になったし、自分も先輩たちからしたら大差ないのだろうと想像できる。
 エクソシストでもまだ子供でいていい、焦って大人にならなくていい、とは責務の過酷さを考えれば簡単に口にできなかった。舌に残った苦い現実の味を甘い炭酸飲料で流し、話を戻す。

「報告書か……それなら、うん、いっそオリジナルの辞書を作ってもいいな。子供向けにはないような専門用語も使うし、報告書の頻出ワードを調べて……いや、教団のことがわかるような内容だとまずいか」
「あー……ウェンハムさん?」
「リーバーでいいよ」
「じゃあリーバー、何も辞書を作れとは言ってなんだが」
「あれば便利だろ。教団に来て初めて英語を学ぶエクソシストはこれからもいる。彼らのためにもなる」

 糖分補給した頭からアイデアがあふれ出す。忙殺される内に忘れていた初心もつられて思い出していた。頭の良さを買われたからで、己の知的好奇心を満たすためであり、エクソシストをサポートするためにいることを。

「文法の解説もあった方がいいよな。報告書の雛形も載せるか。例文は報告書で使えるようなものにして」
「作る暇あるのか?」
「それなんだよなあ!」

 現実を突きつけられ、リーバーは崩れ落ちた。机に頬をつけ、過重労働を強いる職場への呪詛をぶつぶつ呟く。
 ハイダは科学班の奇行に慣れた様子で、リーバーの肩を優しく叩いた。

「あんたも苦労してるな」

 労いが疲れた心に染みる。

「辞書作りのことは伺いを上げとくとして、今は辞書の選び方だったな」
「うん、俺は今ほしい。作るのは構わないが、時間かかるんだろ。明日には出発しなきゃいけないんだ」

 リーバーはメモ帳に出版社の名前を書いた。

「俺はこの出版社が出してる辞書が好きだ。特に編者が学者の……いや、こんな話興味ないか」
「正直何一つわからないね」
「この先生が携わってるなら間違いはない」

 学者の名前も書き加えて渡す。ハイダは読めているのかいないのか、異国の切符を見るように不思議そうな顔をした。

「これを本屋で出せばいいんだな。ありがとう、リーバーに訊いてよかったよ」
「大したことはしてないさ」

 部屋を出るハイダの後ろ姿を眺める。アクマと戦う日常を受け入れ、不平不満も泣き言もこぼさぬ者の勇ましい足取り。
 リーバーは教団に旅立つ日にばあちゃんからもらったネクタイを締め直した。

「よしっ」

 幼いエクソシストが明日もその先も戦いを生き抜いていけるよう、気合を入れ直して仕事にとりかかった。

 

 数年後、科学班本部班長になったリーバーがハイダの真実を知って悲鳴を上げるのはまた別の話。