第1話 茶会

 デスクワークをしながらエドガー・チャン・マルティンはため息をついた。目を通さなければならない書類はまだ山のようにある。黒の教団アジア支部長補佐役の仕事は多い。ろくに休みもとれない忙しさは、しかし、問題ではなかった。心理的負担の原因はカウンセリングにかからずともわかっている。
『第二使徒計画』という極秘の実験。地下に広がるアジア支部の奥深く、厳重なセキュリティで隔絶された第六研究所。
 あそこから戻り通常の仕事をしていると、ほっとすると同時に、この事務所にいる誰一人として自分のしていることを知らないのだと眩暈がするような感覚に襲われた。
 力強いノックの音がして、勢いよくドアが開いた。

「エドガー、お茶しようぜ」

 キビキビとした動作で青年が入って来た。金髪碧眼のドイツ人で、二十代の若く筋肉質な体をエクソシストの黒いコートに包んでいる。背中には小銃を背負っており、胸のローズクロスがなければ教団関係者ではなく軍人に見えただろう。

「ウーヴェ、お誘いは嬉しいけど今は仕事中なんだ」
「エクソシストの任務報告を聞くのも仕事だろ。茶を飲みながら聞いてくれ。ハノイでなんだかよくわからないハーブティーを買ったんだ」

 ウーヴェ・シェーファーは晴れやかな笑顔で、手に持っていた紙袋を掲げた。エドガーは訝しげに眉をひそめた。

「わからないって……怪しいものじゃないだろうね?」
「その辺の露店で買ったけど、怪しい雰囲気はなかったぞ。多少ぼったくられたかもしれんが。ベトナム語わかんねえから交渉も難しくて」
「君は本当にお茶が好きだね」

 ウーヴェは任務に行く度に現地で買った茶葉を持ってくる。酒や煙草、コーヒーよりも、紅茶やハーブティーを好んでいた。

「ここにいる間はアクマに襲われる心配なくティータイムができるからな。トゥイはいるか?」

 支部長のトゥイ・チャンは第二使徒計画の技術面の指揮もとっており、まだ研究所に残っている。

「いや……今は巡視に行っていて。エプスタインと話しがあると言っていたし、しばらく戻ってこないと思う」
「それは残念だ」

 ウーヴェは給湯室に向かうと、しばらくして人数分の湯飲みを盆に乗せて戻ってきた。団員たちに茶を配って歩く。「茶菓子はないのか」という声を、「自分で用意しろ」と一蹴している。

「ほら」

 最後にエドガーの机に置いた。白い陶磁器に澄んだ緑の茶が映えている。茶器集めも趣味の一つであり、素材や飲み口の厚みが違う物を給湯室に揃えていた。エドガーには違いがわからないし、ウーヴェ自身も茶の知識があって使い分けているわけではなく、その日の気分で選んでいるのだと前に言っていた。
 茶の香りは以前嗅いだことがあるものだった。ベトナム出身の団員からもらったことがある。

「ああ、これ蓮芯茶かい?」
「何茶だって?」

 ウーヴェは非番でいない団員の椅子を引っ張ってきて、エドガーの向かいに座った。大仰な仕草でお茶の香りを嗅いで、片眉を上げてなかなかといった表情を浮かべる。それから湯飲みを口に運んだ。
 味を知っているエドガーには次の反応が予想できたため、フライングで笑い出さないように堪えなければなかった。

「うわっ、にっがっ! 砂糖入れてくればよかった!」

 予想通りになってエドガーは吹き出した。引き出しから干し杏を出して渡す。先日ズゥから貰った残りだ。

Danke.どうも そんなに笑うことないだろ」
Bitte.どういたしまして これは蓮――Lotosのお茶だよ。発芽する前の芽を実から取ったものだ」

 ドイツ人同士、簡単な挨拶や二人きりの時は母国語を使っていた。
 干し杏で口直しをしながらウーヴェは茶をすする。不味いという理由で残すことはしない男だ。口に入れる時は決死の表情なのに、香りは気に入ったのか嗅ぐ時は満足そうだ。

「でさ、ハノイから帰ってくる途中に飯屋で一緒になった中国人から聞いたんだけど、キョンシーって知ってるか?」
「任務の報告はどこにいったんだい?」
「イノセンスの回収は空振りだったから特に言うことはない。報告書は帰りながら仕上げたから目を通してくれ」

 コートのポケットから、ウーヴェは折り畳まれた紙を出した。エドガーは軽く目を通す。黒の教団に来て初めて読み書きを習ったというウーヴェの字はお世辞にも綺麗とはいえない。文章も簡潔すぎるきらいがあるので、いくつか質問しなければならないだろう。

「で、キョンシーの話なんだけど、死人を生き返らす秘術ってのがあるらしんだ」
「いや、あれは死体を魔術で動かしているだけで生き返らせるわけじゃないよ」
「なんだ、そうなのか。俺の中国語もまだまだだな、聞き間違えたか。キョンシーを作らないのか訊きたかったんだけど」

 お茶で温まったはずのエドガーの体は急に冷えた。動揺が声に出ないように気をつけながら言う。

「死人を生き返らせる研究はしないのかって?」
「そう。生き返らすまでいかなくとも、瀕死の人間を助けるようなものでもいい」

 それはまさにエドガーが秘密裏にやっている実験だった。人を助けるという崇高な理由ではなく、戦わせるためであったが。
 エドガーは両肘を机について、手を固く組んだ。震えた指先を押さえつけるために。

「医術には最大の努力をしているけど」
「それはわかってる。医療班に不満があって言っているわけじゃない。もっとこう、今の治療とは別な新しいことをやったりしないのかと思ったんだ。たとえばそうだな……怪我したり歳とったりしたら新しい若い体に移植する、みたいな? 義手義足でもいいや。機械仕掛けの。教団の技術はすごいんだろう?」

 ウーヴェは屈託ない信頼を向けてくれていたが、今のエドガーは胸を張って教団を誇れなかった。

「君は……そうされたいの?」
「死にたくないからな」
「今の体を失っても?」
「それで生きれるなら」
「そう……」
「そんな研究してないのか?」
「倫理的な問題があるからね」
「そっか」

 ウーヴェはあっさりと納得して、茶を飲み干した。彼にしてみればティータイムのちょっとした話題にすぎないのだろう。
 だが、エドガーは身を切り刻まれるような心地だった。倫理的な問題だなんてよく言えたものだ。実験の罪深さを知りながら、いくつも言い訳をして他者の尊厳を汚しているのに。
 でも、もし相手がそうされるのを望んでいるとしたら――?
 心の裏側から這い出た言い訳は魅力的だった。ほとんど考える間もなく、気がついたらエドガーは尋ねていた。

「ウーヴェは自分の体が別なものに変わっても生き延びたいの?」
「そう言っただろ。ああ、どうせ体が別なものに変わるなら顔もいじってほしいな。美男子に頼む。いや、どうせなら美女がいいかな」

 ウーヴェの口調は軽く、どこまでも冗談でしかない。もしもこの友人が被験体として運ばれてきたら、エドガーはやらなければならない。
 二人の間にある大きな溝を気取らるわけにはいかなかった。エドガーは軽口に聞こえるよう祈りながら返す。

「男の方が筋力があるよ。女性は生理があって大変だし」
「生殖機能はとっぱらえばいい。筋力の差はいい感じに強化してなんとかならないのか?」
「無理じゃないとは思うけど」
「なら、もしもの時は絶世の美女で頼むぞ」

 ウーヴェは快活に笑った。
 女性になった彼の姿はまるで想像できない。いや、オリジナルの体に似せる必要はないのだ。エドガーの科学者としての思考は感情を裏切って、女性型の第二エクソシストの設計図を描き始めている。技術的には可能だろう……。

「ああ、僕に任せて」

 エドガーは少し冷めた茶を飲み干した。干し杏はまだあったが食べる気は起きず、苦味は口の中に残り続けた。

 それからウーヴェ・シェーファーが殉職したのは半年後のことだった。