第2話 落ちた先

 そこに行けば死者が生き返るらしい。清国の山間部にある小さな――それでも死者を生き返らす産業で以前よりは栄えた――村だった。名前はファインダーから聞いたが、ウーヴェには発音が難しく忘れてしまった。
 村は秘境じみた崖の上にあった。断崖絶壁、風光明美という言葉をウーヴェは連想した(書けと言われたら無理だが)。仙人画の風景になっていそうな場所は確かに、奇跡が起こるのにふさわしいと信じさせるものがあった。
 訓練をつんで旅慣れたウーヴェですら大変と感じる道のりだ。台車やロバに死体を乗せて運ぶ労力は想像を絶するが、だからこそ苦労を対価に死者が生き返るのだと思ってやって来るようだった。

 雷鳴のような銃声が山間にこだまする。
 アクマの胴体に命中、弾傷から黒いオイルが噴き出す。飛沫が地面を汚すのとほぼ同時に、ウーヴェは再度引き金を引いていた。
 今度は頭部に当たった。完全な破壊を確認すると、アクマの体から出る毒ガスを吸わないよう風上に移動した。

「まったく、一人で来るもんじゃなかったかな……!」

 小さく悪態をつく。今ので何体倒しただろう。わざわざ山を登ってまで生き返らせたいと願う人がこんなに多いとは。苦労の見返りが悪性兵器の製造なのだから報われない。故人を求める気持ちを利用された人たちと山を駆け回る自分を哀れんだ。
 朝霧が白く立ち込め、見通しは最悪だ。視力に自信があっても意味がない。人選ミスだろ、と心の中で毒づく。耳の良いマリであれば視界の悪さはハンデにならないのに。
 同行していたファインダーには結界を張って動かないよう指示していた。迂闊に動かれて、アクマと間違えて撃ってしまったら洒落にならない。

「おっと」

 急に視界が開けた。慌てて足をとめる。霧の晴れた先に薄紫から桃色に変わる空が広がり、数歩先は崖になっていた。よくここまで登ったものだと呆れるほど高く、人生で一番空に近づいた。こんな状況でなければ縁に座って朝焼けを楽しめたのに残念だ。
 自分が来た道の方へ片膝をついて小銃を構えた。両手で銃を保持して銃床を右肩で支える。立って構えるよりも姿勢が安定し、腹這いになるよりも機動性を失わない。多少見晴らしがいいここなら陣取るのに最適だろう。
 呼吸を整える。銃身がぶれないよう動きを止める。わずかな気配も逃さないよう心を穏やかに、精神を集中させる。
 木の葉が擦れる音がした。
 引き金を引いた。
 弾が当たった音が返ってこない。代わりに葉を揺らす音が横へずれた。
 引き金を引き続けた。黒い銃身から弾丸が尽きることなく撃ち出される。この銃を手に入れてから一度も弾を込めたことがない。まさに神の奇跡だ――百発百中で当たるようにしてくれたら言うことなしなのだが。
 木の葉の音が近づいて来る。ジグザグの動きで前進してくるから弾を当てにくい。

「追い詰めたぞおおォォォ! エクソシスト!」

 霧の中から剣のような腕が突き出した。
 ウーヴェは横に転がって避けた。すぐさま立ち上がって銃を構える。
 アクマはずんぐりとした卵状の胴体に、不釣り合いに長い扁平の刃物の腕を持っていた。蛇のような長い尾が左右に揺れている。ピエロのようにメイクをした白黒の顔が殺戮の喜びで笑う。
 撃って牽制した。これ以上間合いを詰められると不利だ。いや、もうかなり危ない距離で、頭の中ではひっきりなしに警報が鳴っていた。

「コレでも食らえッ!」

 アクマが独楽のように回転した。尾の一打がくる。ウーヴェは跳び退いて避け――

「ぐっ……!」

 避けきれず脇腹にくらった。蛇腹の尾が伸びてウーヴェを逃さなかったのだ。
 教団特製のコートのお陰で胴が両断されずにすんだが、体は吹き飛んだ。崖の方へ――この高さから落ちて果たして無事でいられるのか?

「ヤッタ! エクソシストを倒したぞ!」

 アクマが耳障りな笑い声を立てる。

「この野郎ッ!」

 怒りをこめて撃った。狙いもろくに定めていないがむしゃらな一撃。ケラケラ笑っていたアクマの顔面が吹き飛んだ。

「はっ! ざまあみろ!」

 ウーヴェの口元に笑みが浮かんだ。こんな状態で当てるなんて我ながらやるじゃないか。しかし、報復の喜びは一瞬だった。
 落ちていく。
 アクマの姿はすぐに視界から消えた。
 血液が頭に上って視界が黒く狭まる。意識が落ちるのも時間の問題だった。片手に銃を握ったまま、もう片方の手を空に向けた。無駄だとわかりながらも、つかむものを求めて手をのばし続けた。

 

 

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 18××年××月××日、エクソシストのウーヴェ・シェーファーの死が発表された。
 任務に同行していたファインダーが崖下で彼を発見した時には、腰から下を激しく負傷しており、すでに虫の息だったという。
 遺族には空の棺が引き渡された。遺体がアクマの素体に使われるのを防ぐため、教団の規則通りの対応であった。

 ここまでが全体に公開されたものである。以下の情報は一部の団員にしか知ることを許されていない。

 ウーヴェの肉体はアクマのウィルスに汚染されていなかったため、ファインダーは頭部を切り離し延命装置に接続した。そしてアジア・第六研究所に運びこまれた。

 

 

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 のばした手をつかまれた。自分のものより大きな手が力強く握りしめ、ウーヴェの体は引き上げられた。
 水の中にいたらしい。体が濡れている。水で重くなった髪が、顔や首に張りついた。大きく息を吸いこもうとして、口の中の何かが邪魔をしているのに気がついた。四つ這いになって吐き出すと、白いマウスピースが硬い音を立てて床を転がった。
 運良く川に落ちて助かったのだと思った。なんとなく違うと感じる。
 まだ目覚めたての思考はぼんやりとしていた。違和感の理由を遅れて把握する。手足をついているのは砂利や草の地面ではなく、人工の床だった。周囲の音の反響からして室内だとわかる。周囲で複数の足音と人の声がしている。
 体に布をかけられた。素肌を滑らかな感触が包み込む。どういうわけか裸だった。

Bist du okay?大丈夫かい? Hörst du mich?僕の声が聞こえる?

 人の声がようやく言葉として理解できた。雑音にしか聞こえない外国語の中で、母語のドイツ語は闇に差し込む一筋の光のようだった。
 顔を上げると、心配そうに見つめるエドガーと目があった。膝を突いてウーヴェの視界に合わせている。エドガーの手が濡れているのを見て、自分を引っ張り上げたのが目の前の友人だとわかった。

Na ja,うう、 mir geht’s beschissen……最悪だ……

 喉から出た声はずいぶんと高くて、か細かった。発声の際に痛みはなかったが、喉を負傷したのだろうか。

Wo fehlt es?具合が悪いのか?
Ich habe keine Ahnung.わからないんだ。 Was ist mir denn passiert?一体何があったんだ? Wo sind wir hier……?ここはどこだ……?

 ウーヴェは何かヒントが出るのではないかというように頭を振ったが、脳味噌からは何も出てこなかった。座り込み、体にかけられていた布――エドガーの白衣だった――をしっかりと握って体を包んだ。吐く息が白く染まるほど寒い。
 辺りを見回す余裕が出てきた。何人かの白衣を着た人が自分を囲んで様子を見ていた。その中でウーヴェが名前を知っているのはアジア支部長トゥイ・チャン、科学評議会議長サーリンズ・エプスタイン、その娘で補佐官のレニー・エプスタインだ。

「あー……ここは……そっか、教団に帰ってきたのか。助かったんだな」

 頭がはっきりして、やっと英語を思い出した。

「ああ、そうだよ」

 エドガーも英語に切り替えた。なぜかひどく苦しそうな、泣きそうな顔をしていた。
 見たことのない部屋だった。天井と床には魔術式が描かれている。十字架を飾る祭壇はなかなか豪勢だ。背後の床には穴があり、中は水で満たされていた。そこにウーヴェはいたらしい。同じような穴がいくつかあったが、立ち上る湯気で他にも中に人がいるかわからなかった。
 助かったはずなのにひどく胸がざわついた。警戒すべきだ、と直感が囁く。
 エドガーの後ろに立つサーリンズが、ウーヴェを見下ろして言う。片眼鏡の奥の瞳には興奮の色が隠しきれていなかった。

「調子は悪くなさそうだな、ハイダ?」
「もうボケたのか? 俺の名前はウーヴェだぞ」
「いいや、今の君の名前はハイダだ。ウーヴェ・シェーファーは死んだのだ」

 ウーヴェは眉をひそめて不快感をあらわにした。

「冗談にしても最悪だな」
「本当のことだ」

 トゥイが「サーリンズ」と嗜めるように呼んだ。

「ハイダは目覚めたばかりだ。いきなり告げても混乱させるだけだろう」

 サーリンズの言葉を否定していない。支部長は質の悪いからかいをする性格ではなかった。嫌な予感が膨らんでいく。

「いずれ気づくことだ。ならば早い方がいい。……自分の体を見たまえ」
「まさか体が透明で幽霊になっている、とでも言うんじゃないだろうな?」

 そうなっていたらどうしよう、と二割ほど不安になりながらウーヴェは言われたとおりにした。
 まず最初に気がついたのは、白衣の前を握りしめている両手が変わっていたことだった。筋張っていない、柔らかで小さな手。すぐに白衣をはだけて全身を見た。鍛えて手に入れた筋肉はどこへいったのか、代わりにあったのは傷ひとつない滑らかな象牙色の肌と未発達な骨格だ。どう見ても幼い子供の体だった。それだけではなく股間の男性器は消えていた。信じられずに手を伸ばすと女性器に触れた。指先も性器も確かに自身のものである証拠に、どちらの触覚もあった。
 もしやと思って顔を触った。丸みを帯びた柔らかな頬に、低い小さな鼻。鏡がなくても別人の顔になっているのがわかった。
 体が震えた。決して寒さのせいではない。

「君は以前、別な体になってでも生きたいと言ったそうだな」
「なんのことだ? いつの話だ?」
「体を取り換えることで生き延びられるならそうしてほしい。そういう研究はしていないのか、とエドガーに尋ねたそうではないか」

 ウーヴェがエドガーを見ると、うつむいて視線をそらされた。

「こっちを見ろ、エドガー!」

 ドスをきかせて呼んだ。少女の声でどこまで迫力が出せるのか疑問だったが、エドガーには十分通用したようだった。

「覚えているかい? 君がキョンシーの話をしたこと」
「死体を動かすってやつだろ。……ああ、そうだ。したな、そんな話……でも、その時はそんな研究はしてないって言っていなかったか? してるって返事だったら忘れるはずがない」
「研究は機密に関わることだ。言えなかったんだよ」
「機密、か」

 ウーヴェはため息をついて、苛立ちを逃そうとした。隠し事をされたことに不満はあるが、仕方がない。エドガーの立場への理解はあるつもりだ。

「それはわかった。言えなかった理由があったことは。でも、だからって……」
「君の希望はできる限りかなえたつもりだよ」
「本当にやる奴がいるかっ!?」

 どうせなら絶世の美女に。思い出した。そう言った。
 体が変わった驚きや戸惑い、助かったことに安心すればいいのかなんなのか、感情がごちゃごちゃだ。ウーヴェはとりあえずエドガーの頬を一発殴っておいた。少女の力だから痛くないだろう、おそらく。