第3話 鏡の中の顔

 水で満たされた穴がある部屋は胎中室と呼ばれていた。そこから連れ出され、検査室で機械に繋がれて調べられたり丹薬を飲まされたりして、ようやく一息つけたのは数時間のことだった。

「これが俺の顔か……ふうん、なるほどな」

 ウーヴェは検査用ベッドの上であぐらをかき、手鏡を熱心に覗き込んでいた。検査室がそのまま“ハイダ”の居室になるという。壁には大きなガラス窓が一つあり、開けることはできず、隣の部屋から観察するためのものだった。必要ない時は覗かないと言われたが、水槽の中の魚になったようで落ち着かない。
 トゥイから借りた鏡にはアジア系の美少女が映っている。気の強そうな切れ長の目は明るい茶色で、光の当たり方によっては金色に見えた。薄桃色の唇は美麗な弧を描き、癖のない髪は艶やかな黒色だ。
 目を見開いたり口を歪めてみたりすると、鏡の中の少女も合わせて百面相した。間違いなくこれが新しい自分の顔なのだ。

「これがエドガーが思う絶世の美女か」

 にやりと笑って、傍で申し訳なさそうに身を縮ませて立つエドガーを見た。左の頬が赤く腫れている。ウーヴェにここまでする気はなかった。さすがに申し訳ない。少女の体にこんなに力があるとは思わなかったのだ。

「気に入らなかったかい?」
「いや」

 エドガーの隣に立つトゥイに視線を移動させる。言わんとすることを察したか、切れ長の目の美女

「お前の趣味わかりやすいな」
「ええ! どういうこと!?」
「無意識か! いいよ、可愛いじゃないか。気に入ったよ」

 本当に女にされたのには驚いたが、友人の希望を叶えようとするエドガーの真面目さを気に入っているのだ。

「成長したら胸デカくなるのか?」
「ちょっと何言ってるんだいっ!」
「気になるだろ」

 ウーヴェは服の胸元を引っ張って中を覗いた。胸は平べったく、腹にくびれはない。第二次性徴期を迎える前の子供の体型だ。
 サーリンズは呆れ果てた顔をしていた。

「胸などあったところで邪魔でしかないだろう。アマゾネスは戦うために右の乳房を切り落としたというぞ」
「右だけ? なんで?」
「弓を引く時に当たるからだ。君がなんで女になりたいか知らないがね、私は女体化には反対したのだ。エドガーがしつこく言い張るものだから仕方なしに許可したら……気になるのは胸の大きさだと? それがアクマとの戦いにどれだけ重要だというのだ。エクソシストとしての自覚が足りないのではないかね」
「はいはい、わかったから小言はそこまでにしてくれ」
「ハイダの身体機能は大の男にも引けをとらない。戦闘には十分耐えられる」

 トゥイが淡々と言った。ウーヴェの――サーリンズからしたらふざけた――要望に対してどう思っているのか表情から読みとれない。

「我々には新しい試みが必要だ。ハイダが初の成功例になるかもしれない」
「初? 今までは失敗続きだったのか?」

 なんの気なしに尋ねたことだったが、痛いところを突かれたかのように科学者たちは黙った。不治の病にかかった患者に特効薬はないのか訊かれた医師もこんな表情をするだろうか。
 ウーヴェは金色の目を細め、獲物を前にした狼のように、科学者たちを鋭く見つめた。

「……この研究を始めてどれくらいになる?」
「90年だ」

 トゥイがこたえた。この群のリーダーは彼女だ。

「俺と同じようなことをされた奴はどれくらい生きられたんだ?」
「その体には何も健康上の問題はない。病気や怪我に強い分、普通の人よりも長く生きられる可能性がある。だが、我々の目的は丈夫な人体を作ることではない。目的は人造使徒の創造――君がイノセンスに適合すればこの計画は成功だ」
「俺はエクソシストなんだからもう適合しているだろ?」

 不思議そうにウーヴェは返した。きょとんとした鋭さの抜けた表情は外見相応に幼く愛らしい。

「だといいが」
「体が変わったから適合者がわからないなんて、馬鹿な犬みたいなことがあるのか?」

 神に対して不敬だぞ、とサーリンズが説教することはなかった。苦々しい顔で片眼鏡の位置を直している。

「本当に馬鹿な犬以下だったのか……」

 ウーヴェの言葉を誰も否定しなかった。
 トゥイは腕を組むと、気を取り直すように厳格に告げた。

「適合実験は明日行う」
「いきなりだな。休暇もくれないのか。まあ、任務で飛び回っていた頃と変わりはしないけどさ」
「今日はもう休め。実験は体力を使う。後でズゥに食事を運ばせよう」
「ズゥも知っているのか」

 ウーヴェは声を明るくした。機密保持のため研究所から出られないと言われていたから、茶飲み仲間に会えるとは思いもしなかった。
 サーリンズが部屋を出て行った。ウーヴェはトゥイに手鏡を返した。

「そうえば、隣は誰かいるのか?」

 部屋にはもう一つベッドがある。トゥイは「そうだ」と短くこたえた。

「最近死んだエクソシストって誰かいたかな……」
「彼は記憶がないよ」

 エドガーが言った。手鏡をしまうトゥイが来るのを、ドアの近くで待っている。

「へ?」
「君のように覚えているのが例外だよ」

 ウーヴェは首を傾げた。言っている意味がわからなかった。

「彼はエクソシストだった時のことを覚えていないんだ。……覚えていない方がいいのかもね、死の記憶なんて」

 エドガーは目を伏せた。
 ウーヴェは研究所で目覚める直前のことを思い起こした。アクマの攻撃を受け、崖から落ちた。地面に叩きつけられる前に意識を失ったから、死の苦痛を味わってはいない。

「……死に様によっては覚えていない方が幸せか」

 戦いだらけの人生の中で悲惨な死も見てきた。エドガーの意見にはうなずける。

「だから彼が誰かなんて探らないでほしい。今の名前はパブロ。それ意外の何者でもない。いいね?」
「わかったよ。……なんだ、じっと見つめて。俺が信用できないのか?」
「いいや。本当にどこも調子は悪くないんだろうね、ウーヴェ? いや、ハイダ」
「おい、お前が言い間違えてどうする。そんな調子じゃ部下に示しがつかないぞ」

 ウーヴェは笑ったが、エドガーはくすりともせず真剣な顔を崩さなかった。ウーヴェは本気の心配を感じとり、居住まいを正した。

「どこも痛くはない。だからそんなに心配しなくても大丈夫だ、エドガー」
「僕が心配しているのは体じゃなくて心の方だよ。何か不調を感じたらすぐに言ってくれ」
「ああ、わかったよ」

 心の不調なんて自分には縁遠いものなのに何をそんなに深刻になっているのか。心配はありがたくも大袈裟に感じられた。
 エクソシストになってから、不眠になったこともなければ任務に行きたくなくてベッドから起き上がれなくなったこともない。戦闘は怪我をすれば痛いし死にたくもないと思うが、アルコールや麻薬で誤魔化さなければならないほどの恐怖ではなかった。アクマを撃ち倒す快感は他では味わえぬものであるし、見知らぬ土地に行ける楽しみだってある。
 エドガーとトゥイが去り、一人残されたウーヴェはベッドに大の字に寝転がった。検査用の物は固くて寝心地がいいとはいえなかった。もっといい布団を持ってこいと要求しようか、と考えているうちに検査の疲れからかすぐに眠りに落ちた。

 

 

 人の気配と台車の音で目が覚めた。さっそく食事か、と大きく伸びをして起き上がる。目覚めの良さは自慢の一つだ。
 白衣の研究員が二人がかりでストレッチャーを運んでいた。十歳前後の男の子が上に乗っている。研究員たちは手際良く男の子をベッドに移すと、傍らの機械に繋ぎ、点滴を刺した。細い手足には包帯が巻かれている。その子供の全身から漂う消毒液の臭いが、ウーヴェの鼻まで届いた。
 男の子は意識がないようでまぶたを閉じたままだった。黒い髪のアジア人。顔立ちでは元が誰かはわからない。ウーヴェの見た目が変わったように、彼も以前の顔とは別物になっているのかもしれなかった。

「彼が俺のルームメイトか?」

 作業がひと段落したところを見計らって声をかけた。坊主頭の男性研究員が振り返った。

「ああ。くれぐれも刺激するようなことは言わないでくれよ」
「事情はエドガーから聞いている」
「それならいい」

 長い髪をひとつに結った男性研究員がまじまじと見つめていた。視線に気づいたウーヴェは足を組んでポーズをとった。

「美人だろう」
「ホントに自分から実験に志願したっスか? それも女にしてくれって」
「まずは美しさを褒め称えないか。志願とはちょっと違う。というか、こんなことやってるなんて知らなかったんだから志願も何もない。もしもの話でやってくれとは言ったが。あと俺がなりたいって言ったのは美女だ」
「そこ、こだわるっスね」
「おい、いくら起きていないからってパブロの側でそんな話はするな」
「サーセン。じゃ、じっくり話すのはまた今度ってことで」

 二人の研究員は部屋を出て行った。
 ほどなくして、パブロが目覚めた。澄んだ緑色の目をしていた。

「初めまして。気分はどうだい? 元気そうなら自己紹介してもいいか?」

 パブロは顔だけ動かして茫洋とした目をウーヴェに向けると、小さくうなずいた。

「俺はウーヴェ・シェーファー。今日から君のルームメイトだ。よろしく」

 言ってから、ハイダと名乗った方がよかったかと思ったが、別にいいかと気にしないことにした。体は別物にしていいとは言ったが、名前を変えていいとは言っていないのだ。

「ハイダって呼ぶ奴もいるな。ま、ウーヴェでもハイダでも好きな方で読んでくれ」
「君はなんともないの?」

 かすれた小さな声だった。ウーヴェは質問の意図をつかみきれず首を傾げた。パブロは唇を舐めて湿らせると、今度ははっきりと言った。

「君は自分が何者か覚えている?」
「……それはどういう意味だ?」
「この体にされる前のこと」
「君は何も覚えていないって聞いていたんだけどな」
「幻覚を見るんだ。知らない人、知らない場所……」

 パブロは天井を向くと、腕を目の上に乗せた。今まさに幻覚がちらついて仕方がないとでもいうように。

「幻覚のことはエドガーたちは知っているのか?」
「言えないよ。適合がうまくいかないのに、さらに幻覚を見るなんて」
「どうして?」
「僕より前からここにいた子、ずっとどこにもいないんだ。博士は彼は外で働いていると言っていたけど、本当かな」

 適合の見込みがないと判断したら、トゥイたちはどうするのだろう。この体は長く生きる可能性があると言っていたが、最長どれくらい生きたか教えられていない。
 殺処分、という予想をウーヴェは飲みこんだ。パブロの様子は限界まで膨らんだ風船のように危なっかしく、少しの刺激で割れてしまいそうだった。

「夢を見たんだ。適合実験で気絶するとたまに見る。今日も見て、いつもの幻覚たちが教えてくれた――僕が、エクソシストだったこと」

 パブロは体を起こすと、枕に拳を叩きつけた。

「奴らは僕の記憶を改竄したんだ! アクマに殺された僕を生き返らせて!」

 悲痛な叫び声がウーヴェの鼓膜を殴った。パブロは激情に顔を歪ませて、宙を睨みつけている。もしもこの場に研究員がいたら、素手で殺しにかかったに違いない。
 あまりの気迫に、ウーヴェの手は無意識のうちにベッドの上をさまよって銃を探した。そういえばイノセンスはどこにあるのだろう。

「助かってよかったじゃないか」
「よかった? 本気で言っているのか? 死ぬことも許されずに戦わせられるんだぞ。聖戦のためだなんて言っているけど、死者を叩き起こして、奴らのやっていることは千年伯爵と何が違う!」
「……君はこの体になることに同意したわけじゃないんだな」
「誰が同意なんてするものか! 君だってエクソシストだったんだ。これからずっと死んでも戦わせられるんだぞ? なんでそんな平気な顔でいるんだ」
「俺は自分で望んだから。戦う羽目になっても死ぬよりはマシだ。まだ生きていたいんだ」
「僕はッ……!」

 叫んだパブロだったが、その後の言葉は続かなかった。殺気が消えて、輝きのない茫洋とした目に戻る。うつむいて黙りこみ、膝を抱えて小さくなった。
 なんと声をかけていいものか、ウーヴェはただ口を閉ざしているしかなかった。

「……生きてなんていたくない」

 パブロは包帯を巻いた腕に爪を立てた。声には涙がにじんでいた。

「こんな体で生きてなんか……。僕は男にしてなんて言ってない! 私の体を返して!」

 ガリガリと力強く引っかいて、包帯が解け出した。いったいどれだけ力を込めたのか、爪ではなく短剣で傷つけたように血がしたたり落ちる。

「おい、落ち着け」

 ウーヴェは慌ててベッドから降りて駆け寄った。ベッドは子供の背丈には高すぎるものだったが、強化された身体機能で難なく飛び乗ることができた。
 パブロの手をつかむと、彼は――いや、彼女は動きをとめた。顔を上げてウーヴェを見る。ガラス玉のように澄んだ緑の目に、新しい自分の顔が映っている。見慣れた自分の顔でないことに、ウーヴェは一瞬戸惑った。その隙をつかれた。
 パブロはおもむろに舌を出すと、躊躇いなく噛み切った。