第4話 血の池

 パブロの口から鮮血があふれた。

「おいっ、何やってんだ!」

 ウーヴェは血相を変えた。怪我の応急処置は何度もやったことがあるが、舌を噛み切った人は初めてだ。とりあえず止血を、と服を破る。棚の中にガーゼがあるかもしれないが探す余裕はない。
 パブロはまた舌を突き出すと、再び噛みちぎった。

「え?」

 完全にウーヴェの理解を超えた。さっき切り落とした舌は気のせいだったのだろうか? いや、一度目に成功した証拠にシーツの上に肉片が落ちている。遅れて、この体に備わっている再生機能によるものだと気づいた。ウーヴェも検査で小指を切り落とされて、正常に生えてくるか確認された。その時は怪我がすぐ治るなんていいと思ったが、何度も自傷するパブロを前にしては同じことは言えなかった。

「誰か来てくれ! 早く! エドガー! トゥイ! 来てくれ! サーリンズでもいい! 誰かいないのか!」

 ウーヴェはパブロの口に指を突っこんだ。これ以上舌を噛まないように。代わりに自分の指を思い切り噛まれたが気にならなかった。暴れるパブロを、馬乗りになって押さえつけた。

「どうした!?」

 坊主頭と長髪の二人の研究員が駆けつけた。すぐに坊主頭の方が、麻酔を持って来るよう指示を出す。
 パブロは強制的に眠らされた。研究員は彼女の口に管を入れて、中に溜まった血を外に出した。パブロもウーヴェも勝手に怪我が治るから治療は必要なかった。
 ウーヴェは手を洗って、血のついた服を着替えた。研究員はパブロをストレッチャーに乗せて運んで出て行った。

「夕飯じゃぞ」

 入れ違いにズゥが入ってきた。手にした盆の上では、美味しそうな粥が温かい湯気を立てている。

「ありがとう。またズゥ爺さんの飯が食べれて嬉しいよ」

 ウーヴェは盆を受けとろうと手を伸ばし、空振りした。以前の体の感覚で動いたため、子供の体になった今では腕の長さが足りなかったのだ。
 苦笑してやり直し、ウーヴェはベッドに腰掛けて食べ始めた。食欲は普通にあった。この体はまだ生を諦めていない。魚介の旨味がきいた味付けが空きっ腹に染みる。

「なかなか大変な所に来てしまったようだ。初日だっていうのに疲れたよ」
「ずいぶんと別嬪になったの」
「ズゥ爺さんならそう言ってくれると思った」

 ウーヴェは笑った。あっという間に粥を完食した。

 

 

 翌朝、ウーヴェは起きるとストレッチして体をほぐした。丁寧に動かして体の感覚をつかみ直す。急に子供の背丈になってみると、身の回りにある物が相対的に大きくなり、巨人の国に迷いこんだ気分だった。

「おはよう、ハイダ。よく眠れたかい?」

 エドガーが疲れた顔で入ってきた。白衣はよれて皺ができている。エドガーが自分よりずっと大きくなっているのも奇妙な感じだ。

「徹夜はよくないぞ。若い頃のように無茶がきかなくなってきたって前に言ってなかったか?」
「少しだけど寝はしたよ。今日の適合実験は中止だ。明日に延期になった」
「わかった。……俺が言うまでもないだろうが、パブロのこと気をつけて見ていてくれ」

 エドガーは視線を彷徨わせて躊躇った後、意を決したように告げた。

「彼は凍結処分が決まった」
「それは殺処分とどう違う?」

 沈黙が答えだった。エドガーは困ったように眉を下げた。

「……僕を殴らないのかい?」
「それは彼女がすることだ。俺が勝手にしていいことじゃない。あのさ、同意くらいとっておけよ。この極秘の実験とやらは、俺たちの意思よりも大事なものなのか?」

 ウーヴェは腕を組んで、エドガーを見上げた。研究のやり方が不快だったし、友人が加担していることに怒ってもいた。腹の底がふつふつと煮えるようだったが、エドガーの言い分は聞くつもりだ。

「人体実験してるなんて話が広がったらまずいから。僕たちのやっていることは人によっては神への冒涜に感じられるだろうし、教団には正義感の強い人が多いから……全体の士気に関わる」
「それに比べたら、記憶は変えられるから同意なんてどうでもいいってわけだ」
「僕だってこれが正しくないことはわかっている!」
「嫌なら手を引けよ」
「僕がやらなかったら他の人がやる。エクソシストを道具としか思ってない人が。今だってまともな扱いじゃないさ。でも少しでも君たちの環境がよくなるように僕は……僕にできることを……」
「水際の対応でしかないぞ」

 ぐうの音も出ないとでもいうようにエドガーは唇を噛み締めた。
 ウーヴェは深く息を吐くと、組んでいた腕を解いて体から力を抜いた。パブロにしたことを許すことはできないが、エドガーが苦悩していることは伝わってきたからだ。

「なあエドガー、お前にこの仕事は向いてないよ」

 いつの頃からだったかエドガーは疲れた顔でため息をつくことが多くなった。山積みの書類や加齢による体力の低下のせいだ、と言っていた。それだけではない気はしていたが、終わりの見えない聖戦の徒労かと思って、ウーヴェは少しでも気晴らしになればと茶に誘ったものだった。

「今更やめるわけにはいかないんだ」

 エドガーはその場にしゃがみこんだ。膝の上に乗せた両腕に顔を伏せる。
 人を研究材料だと割り切れるろくでなしであればよかったのに、とウーヴェは少しだけ哀れに思った。エドガーは苦悩しなくてすんだし、ウーヴェは遠慮なく怒鳴りつけることができただろう。どうせ良心の呵責を抱えていたところで免罪符にはなりやしないのだから。
 ウーヴェはエドガーの背中に腕を回して抱きしめた。そうしていると腹の中でくすぶっている感情が鎮まっていくのを感じた。

「なんで俺の記憶は消さなかったんだ? 俺が体を変えていいって言ったからか?」
「記憶を封印したら君はもうウーヴェではなくなってしまう。君と初めましてなんてしたくなかったんだ。反対も多かったけど、無理を通させてもらった」

 廊下の足音が部屋の前でとまった。ドアがノックされる。エドガーがはなれようともがいたので、ウーヴェはヘッドロックをかけた。

「いつまでも戻って来ないと思ったら何をしているんだ」

 トゥイが呆れた顔で、じゃれあう二人を見下ろした。

「えーと、朝の運動?」
「あまり仲が良いと妬けてしまうな」
「本当かい!」

 エドガーの声に喜色がにじむ。エドガーの方がトゥイにベタ惚れで、側から見ていても仲のいい夫婦だ。無理矢理テンションを上げていることはバレバレだったが、ウーヴェもトゥイも指摘しなかった。

「ハイダ、食堂まで案内しよう」
「外に出ていいのか?」
「いや、研究所の中にある食堂だ。所内は自由に出歩いていいが、くれぐれも外には出ないでくれ。まあ、鍵がかかっているし無理だとは思うが」
「無理にこじ開けようとしないから安心してくれ。逃げ出す理由もないしな。二人もこれからご飯か?」
「私たちは仕事があるから先に済ませた」
「残念だ」

 ウーヴェはエドガーを解放した。エドガーが首をさすりながら立ち上がる。

「うう、ハイダの身体機能は何一つ問題ないようだよ」
「さすが教団の技術だな。体が小さくなった違和感以外どこもおかしなところはない。耳なんか前より聞こえがよくなったくらいだ」
「それはよかった」

 エドガーが控えめに微笑んだ。そのくたびれた様子に、この研究をしていて感謝されたことがないんじゃないかと思った。

「なあエドガー、勝手に人の体と記憶をいじるやり方は気に食わないが、俺は命拾いして感謝してるよ。慰めじゃなくてこれは本心だ」

 ウーヴェは研究の全てを否定したいわけではない。唇の端を吊り上げ、金の目に不敵な光を輝かせてエドガーを見上げた。自分を被験体にしたこと、記憶を消さなかったことだけは後悔してほしくなかった。

「人造使徒だって、その挑戦は嫌いじゃない。人の技術がどこまで進歩するのかぜひとも見たいね。この聖戦とやらを神の奇跡に頼らずとも戦えるようになったら、さぞかし面白いだろう」
「君はどんな時でもへこたれないね」
「お前が戦争をするには優しすぎるんだ」
「優しくなんてないよ」

 エドガーは首を横に振った。優しい人なら最初からこんなことに手を出してはいないというように。
 誰も傷つかない方法でエドガーがその知識と技術を役立てられるようになれたら、とウーヴェは願わずにはいられなかった。

「さて、今日のご飯は何かな」

 ウーヴェは大きく伸びをした。部屋を出る間際に、言い忘れていたことに気づいて振り返る。

「ああそうだ、エクソシストを人として扱うって言うんなら、まずはいい布団をよこしてくれ。このベッド、寝心地悪いんだ」