第5話 まどろみ

 これが何度目の適合実験になるのかウーヴェは興味がないから数えていなかった。

「イノセンスとのシンクロを始めなさい」

 天井に取りつけられたスピーカーがレニーの声を届ける。その近くにあるモニターが、安全な場所から実験を観察する研究員たちの姿を映していた。

「了解。いつまで経ってもこんな大勢に見られると緊張するな」
「それがいつも失敗する言い訳か? もう三十三回目になるのだ。いい加減慣れたまえ」

 サーリンズの声がスピーカーから降ってきた。

「いつの間に記念すべき三十回を超えてたんだ。教えてくれたらよかったのに」
「なぜ失敗を祝わねばならん。ふざけるのも大概にしないか」
「引き延ばしたところで実験からは逃れられないぞ」

 背後からも、早くしろと苦情が来た。フードを目深に被った鴉と呼ばれる団員だ。身のこなしからして戦闘員であり、不測の事態が起こった時のためにいるのだろう。例えば、逃げ出そうとした被験体を拘束したり処分したり。エドガーに尋ねたらバツの悪そうな顔で誤魔化されたので、その考えは間違っていないはずだ。

「はいはい、ちゃんとやりますよ。集中するから、レニー、そこの小言ばかりの親父さんを黙らせてくれ」

 サーリンズがまだわめいていたが、ウーヴェはもう聞いていなかった。呼吸を整えて、正面にあるイノセンスと対峙する。
 部屋の中央には大きな円柱状の機械があった。頭のない男の上半身が突き出している。両腕もなかったが、背には白い翼が生えていた。グロテスクなオブジェだ。見る度に生理的な嫌悪感を覚える。
 それに向けて、ウーヴェは右手を伸ばした。イノセンスの名前を口にする。

黒い銃シュヴァルツェスゲヴェーア、発動」

 翼が伸びて、ウーヴェの腕に触れた。体の中に羽毛のように柔らかなものが入り込むようなむず痒い感覚があった。

「うっ……」

 とてもじゃないがこの感覚は受け入れられるものではない。エクソシストとしてイノセンスを使って戦っていた頃は装備型だったこともあり、イノセンスが体の中に入ることはなかった。
 体の中を探られる不快感。死体にたかる蛆虫を連想した。胸から上に這い寄ってくる。
 これ以上は無理だ、と思った瞬間、イノセンスはウーヴェの体を切り裂いて外に出て行った。

「ハイダ!」

 心配して叫ぶエドガーが、ウーヴェにはおかしくて笑ってしまいそうになる。これくらいで死なない体に作り変えたのはエドガーだというのに。
 喉の奥から血が迫り上がった。口から血を吐いて倒れる。肺を裂かれて息が苦しい。胸から下のいたるところに深い切り傷ができていた。右腕が特にひどく、骨が断たれ、かろうじて皮一枚で繋がっている状態だった。

「また失敗か。だが咎堕ちしないだけ希望はある。レニー、再生まで何秒かかる?」
「あと六百八十秒」

 多量の出血と酸素不足で意識が朦朧としてきた。痛みより、体の感覚が消えていくのが恐ろしい。何度目になろうと慣れるものではなかった。死にたくないと願ったはずなのに、何度も疑似的な死を体験している。

「ハイダ、まだいけるだろう? もう一度シンクロするんだ」
「サーリンズ、これ以上は無理だ。ハイダの負担を考えろ」
「いいや、いけるとも。もう一度だ。私の指示は聞こえているだろう」

 ウーヴェは咳き込んで気管に残っていた血を吐き出した。肺が治りだして呼吸が楽になる。手足の先まで血が巡るのがわかる。
 鴉がウーヴェの脇の下に手を入れて無理やり起き上がらせた。傷の深い右腕はまだ治りきっておらず、自重でちぎれ落ちそうになり激痛が走った。

「イノセンスとシンクロするんだ。お前ならできる」

 まだ酸欠で頭痛がする中で聞くサーリンズの声はいつにも増してうるさかった。
 今日はもうおしまいだ、とこたえるのも面倒臭い。ウーヴェはまぶたを閉じた。

「待て、寝るな!」
「起こすな。そのまま休ませてやれ」
「あいつサボる気だぞ!」
「今日はもういいだろう。気を失ったんだ」

 エドガーとサーリンズの言い争いを子守唄に夢の世界に旅立った。適合実験の後は決まって夢を見る。イノセンスと出会った時のことを。まるで体の中にイノセンスの欠片が残っていて、無理やり見せられるような気分だった。
 忘れるな、お前は神の使徒なのだ、と言われているような気がした。

 

 

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 あの頃は軍隊で働いていて、前線でいつ死ぬかわからない日々を過ごしていた。毎晩、今日も生き延びられたことを神に感謝し、明日も生き延びられるように神に祈っていた。
 だから助かったのだと思った。
 顔面に銃口を突きつけられていた。
 髭面の敵兵が外国語で悪態をつく。クソッタレ、弾詰まりか、とかそんなことだろう。もしかしたら弾切れに気づかなかった愚かな自分を罵っていたのかもしれないが、些細な違いだ。使えない小銃を投げ捨て、ナイフを抜く。
 ウーヴェはとっさにその銃に飛びついていた。磁石に引かれるように拾い上げ、膝立ちで構える。
 相手は髭の奥で口元を緩めた。勝利を確信した大振りなモーションでナイフを振り上げる。
 ウーヴェは落ち着いて狙いを定めた。死の恐怖は遠ざかり、精神は凪のように穏やかだった。敵兵を観察する余裕すらある。自分の父親より若く、兄よりは年上の働き盛りの男だ。喉の黒子まではっきり認識しながら――引き金を引いた。
 弾丸が射出される確かな手応え。
 髭面が赤く破裂した。
 それからのことは曖昧だ。とにかく狙いを定めて撃って撃って撃ちまくって、何人殺したか数えていない。弾をこめなくても、湧き水のように内側から装填されていく。人知を超えた武器の使い手に選ばれた高揚が体を満たし、かつてない充実した一時を味わった。

「この銃すごいぞ。お前も撃ってみろよ」

 戦闘が終わった後、仲間に試し撃ちをさせたが、引き金は石のように固く動かなかった。自分が選ばれたのだという確信をより強くさせ、ウーヴェはますます得意になった。
 仲間の死体を回収していく。倒れ落ちている敵の死体の中に見覚えのある者を見つけた。頭部がなく、喉に黒子がある。この神の銃を授けてくれた相手だった。
 どんな人だったのか気になった。首から数珠を下げていることに気がついて、引っ張って軍服の下から出した。ロザリオだった。彼がどれほど祈っていたか示すように、十字架は手垢で汚れ、角がすり減り丸くなっている。
 ウーヴェの体は死体の温度が移ったかのように冷えていった。この兵やその家族も毎日無事を祈っていたはずだ。顔を覚えていない兵たちの中にも敬虔な人がいたことだろう。彼らと自分の間にどんな違いがあったというのか。
 なのに神の力で撃ち殺した。
 その日から、ウーヴェは神に祈っていない。

 

 

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「あ、起きた」

 ウーヴェが目を覚ますと、鼻の頭に傷痕のある男の子がこちらを覗き込んでいた。
 検査室兼自室のベッドにウーヴェは横たわっていた。エドガーとサーリンズの言い争いは、エドガーが勝ったらしい。椅子などない殺風景な部屋だから、男の子はベッドに座っていた。

「初めまして! 僕はアルマってゆーんだ。一週間前に胎中室で目が覚めたんだ。君のことは知ってるよ。何度か廊下ですれ違ったことがあるの覚えてる? ずっと話しかけたかったんだぁ。ハイダっていうんでしょ? 適合実験ってめちゃくちゃ痛いよね」
「待て。一度にしゃべりすぎだ」

 ウーヴェはゆっくりと体を起こした。全身に痛みが走って顔を歪める。切り傷は跡形もなく治っていたが、しばらく安静にしないと傷が開くだろう。軽く頭を振り、夢の残滓を追い出した。
 その一連の動作を、アルマは言いつけを守る幼児の真摯さと並々ならぬ好奇心で見つめていた。視線が合うと、楽しそうに顔中を緩めた。

「へへへ。あ、もうしゃべっていーい?」
「なんだよ。人の顔がそんなにおかしいか?」
「違うよ! 嬉しくって頑張らないとすぐにやけちゃうんだよぅ。だって初めて自分以外の子供と話したんだもん」
「あー……なるほど」

 事前にエドガーから知らされた情報によると、アルマには被験体になる前の記憶がない。ウーヴェの知っている限り今は子供のエクソシストはいなかった。アルマの振る舞いが外見相応に幼いのは記憶がなくなったせいなのだろうか。

「サーリンズから俺に近づくなって言わてるんじゃないのか?」
「誰もいなかったからこっそり来ちゃった。一人じゃ暇なんだもん。ねぇ、なんでカーテンあるの? いいなぁ、ほしいなぁ」
「言えばくれるんじゃないか?」

 隣室から観察するための大きな窓をカーテンで隠していた。プライベートをくれという主張は、エドガーだけでなく他の研究員にもすぐに受け入れられた。意外なことにサーリンズも反対しなかったらしい。

「なんでキミと話しちゃダメなんだろ」
「俺が悪い影響を与えると思っているんだ」

 ウーヴェは肩を竦めた。パブロが過去を思い出したのは自分のせいではないと言っても、サーリンズには信じてもらえなかった。

「不良ってやつだね! すごいや……!」

 純粋な尊敬が面映い。
 不意にアルマが表情を消した。ドアの方を振り返ったかと思うと、何かを探すように部屋の中を見回した。その頃にはウーヴェも、廊下から響くヒールの音に気づいていた。
 アルマはベッドから飛び降りた。戸棚を開け、包帯やガーゼを脇に押しのけてスペースを作る。小さな体を中に収めると、器用に戸を閉めた。
 まもなくしてトゥイとエドガーが入ってきた。

「具合はどうだ?」
「チャン支部長、侵入者です」

 ウーヴェは軍人の流儀で速やかに上官へ報告した。指差した先、戸棚がガタッと揺れた。
 トゥイの眉間に皺がよる。戸棚に近づいたエドガーが穏やかに語りかけた。

「もしかしてアルマかい? 怒らないから出ておいで」

 トゥイは怒る気満々だが、とは言わないでおくウーヴェだった。

「開けるよ。いいかい?」

 エドガーが扉に手を伸ばした時、アルマが飛び出してきた。疾風の如き速さで一目散に走り抜ける。

「ハイダの裏切り者ー! バカ! アホ! 間抜けー!」

 部屋を出た後も、アルマの精一杯の罵声は開けっ放しのドアから入り込んできた。エドガーは苦笑し、トゥイがため息をついた。
 ウーヴェからしたら優秀な仕事人の二人が手を焼く様が面白かった。自分に監督責任はないから気楽なものである。

「被験体ってのはみんなああなのか? えらく世間知らずというか、まるっきり子供じゃないか」
「自分が子供だという暗示をかけてある。でなければ大人の精神で子供の肉体は堪えられない」
「……なんか平気でいる俺が異常みたいじゃないか」
「君のメンタルが健康なので驚いている」

 真面目な顔でトゥイは言った。舌を噛み切ったパブロのような反応は、研究員たちにとっては珍しくなかったのだろう。

「くれぐれも暗示が解けるようなことは言うな」
「はいはい、わかってるって。心配なら鍵でもかけて閉じこめておけばいい」
「そこまで行動を制限する気はない。今でも十分窮屈な思いをさせているが……」
「ねえトゥイ、もうアルマとハイダを会わせてもいいんじゃないかい? 禁止したところで隠れて会うことがわかったのだし。もう一度サーリンズにかけあってみないか?」
「骨が折れるぞ。だが、アルマに言うことを聞かせるよりはマシかもな」
「俺に子守をさせるつもりか?」
「頼むよ。彼は友達がいなくて寂しがっているんだ」
「仕方ないな」

 口では渋りつつも、内心では満更ではなかった。研究所での代わり映えのない日々に飽き飽きしていたところだったのだ。活発なアルマと一緒なら今より楽しくなるだろう。