第6話 目覚め

 食堂に入ったウーヴェは、すれ違う団員と朝の挨拶を交わしながらカウンターに向かった。

「おはよう、ズゥ爺さん。丹薬をくれ」
「ほれ」

 すぐに丼いっぱいのカプセル剤が出てきた。体に術式を定着させるためだ。必要だとわかっていてもげんなりする。

「食った気しねえんだよな……」

 以前の体なら一人前の朝食を食べた後に丹薬を服用しただろう。だが、子供の胃袋では薬で満腹になってしまう。

「スルメ食うか?」
「もらう」

 ゲソの一本くらいなら胃に入る余裕があるはずだ。ズゥが出したスルメには六本の足があった。足先には三本の鉤爪と水掻きがあり、まるで水鳥の足のようだ。頭の三角の部分には、くちばしに似た固いものがついている。しかし、山育ちのウーヴェはおかしさに気づかず、食べきれない分は明日に回そうと考えていた。
 盆を持って空いているテーブルを探すと、レニーが手を挙げて呼んだ。

「ハイダ、ここ空いてるわよ」

 ウーヴェが向かいに座ると、レニーは早速尋ねた。

「昨日アルマが来たんだって?」
「あんたの親父さんはご立腹だっただろ?」
「ええ。でも、みんないつかこうなるんじゃないかって思っていたわ。アルマは友達をほしがっているから。なってあげてくれないかしら」
「教団の技術で作ってやればいいじゃないか」
「私たちにフランケンシュタイン博士になれと?」
「誰だそれ?」
「知らない? そういう小説があるの。死体から人造人間を作った博士の名前がフランケンシュタインっていって、つぎはぎだらけの化け物が望んだのは友達じゃなくて恋人だったけど。今度持ってくる? 面白かったわよ」
「いや、いい。本は苦手なんだ」

 ウーヴェはスプーンで丹薬をすくって口に運び、水と一緒に飲み込んだ。味はしない。不味くないだけマシだと自分を慰める。コップがすぐに空になり、ピッチャーから注ぎ足した。
 レニーは温野菜のサラダを突いていた手を止めて、戸惑った表情でウーヴェの盆に乗ったスルメを見つめた。

「ねえ、それって……」
「おっはよー! みんな元気!?」

 底抜けに明るい声が響いた。アルマが一直線にウーヴェに駆け寄ってくる。勢いに押されてウーヴェは思わず仰け反った。

「サーリンズ博士がハイダと話していいって! 一緒に食べよ!」
「ああ、構わないよ」
「やったあ! 僕が来るまで食べ終えちゃダメだからね。約束だよ」

 弾む足取りでアルマはカウンターに向かった。全身で喜ぶ様子につられてウーヴェも笑みをこぼした。

「サーリンズが折れたか」
「まあね。私たちだってあなたたちを痛めつけたいわけじゃない。可能な限り要望は叶えてあげたいと思ってる」
「知ってる」

 その優しさは罪悪感から来るものか、被験体の不満を抑えるための打算なのか、浮かんだ疑問を薬と共に飲み込んだ。アルマがいるこの場で言うことではない。

「あー! 僕が来るまで待ってって言ったのにぃ」
「まだ全部食べてないだろ」

 不満げに頬を膨らませたままアルマはウーヴェの隣に座った。頬を膨らませて不満をあらわにしていたが、丹薬を食べ始めると機嫌を取り戻した。あまりに美味しそうにするものだから、ウーヴェは丼に盛られているのは実はマカロニなのではないかと思うほどだった。

「食べ終わったら胎中室に行くんだ。ハイダも来るでしょ?」
「なんであんな所に?」
「みんなに朝の挨拶するんだよ。外は楽しいよー、早く目覚めてーって。キミも声をかけたらみんなすぐ起きるよ。ね、ね?」

 ウーヴェは喉の奥でうなった。水槽に沈むエクソシストたちの何人が事前に人体実験に同意したのだろうか。目覚めたところで苦痛に満ちた適合実験が待っているだけだ。アルマがここを楽しいと言えるのは自由を忘れているからだろう。自分はどこへも行けない生活に飽き飽きしている。

「ハイダ、一緒に行ってあげてくれないかしら。私からもお願いよ」
「はいはい、アルマが水槽に落ちないよう見てればいいんだろ」
「むぅ。そんなドジ踏まないよ」
「あの部屋に行っても俺は挨拶はしないぞ。声なんかかけなくても目覚めたい奴は勝手に起き出してくる」
「いいよ、僕がキミの分までするから。ハイダみたいな意地悪な子がいるってわかったら、みんな起きたくなくなるし」

 べえ、とアルマは舌を出した。くるくる変わる表情は見ていて飽きない。味気のない服薬の時間も誰かと一緒ならこんなにも楽しい。ウーヴェのスプーンはあっという間に丼の底にたどり着いた。

「ねぇ、何それ?」

 アルマの大きな目は、ウーヴェの皿に釘づけだ。

「スルメだよ」
「って何? レニー博士、僕も食べていい?」
「あなたはまだ消化の良い物しか食べられないわ」

 最初はウーヴェもお粥ばかりだった。食事に制限がなくなったのはいつからだっただろうか。

「イカを日干した食い物だ。美味いぞ。許可が出たら一緒に食べよう」
「……それ、イカじゃないと思うわ」
「ズゥ爺さんはイカって言ってたぞ」
「きっとまた用水路で獲ったんでしょうね。薬品や実験動物の廃棄には気をつけているけれど、昔はひどくて……」

 レニーはため息をついた。愚痴は続くかと思われたが、アルマの存在を思い出したらしい。とにかく怪しい物は食べさせられないわ、とスルメもどきを没収して席を立った。

「用水路ってどこにあるのかなぁ。ズゥに訊いたら教えてくれるかな? いっぱい動物がいるんだろうね。見たいなぁ」
「早く食べないと冷めるぞ」
「薬は元からあったかくないよぅ」

 アルマを用水路に連れて行ったら、どこまで続いているのか気になって質問攻めにするだろう。数少ない外へ続く道。できる限り場所を隠したいはずだ。
 そういえば、アジア支部の守り神はここも守っているのだろうか? 口の悪い防衛機能を思い出す。一度も会わないということはフォーにとっても立入禁止区域なのかもしれない。
 食べ終わると、ウーヴェは約束通りアルマと一緒に胎中室へ行った。中に入るのは久しぶりだった。
 床に空いた穴は水で満たされ、かつての同僚たちが変わり果てた姿で入れられている。記憶と名前も奪われて、ここにあるのは人の姿をした材料に過ぎない。
 不快感を擦り潰そうとするように奥歯を噛み締めた。ここは用がない限り来たい場所ではなかった。

「さぶいね」

 何も知らないアルマが屈託なく、ウーヴェの顔を覗きこんだ。

「ここって息が白くなって面白いよねぇ」
「……そうだな」

 支給された中華服は膝小僧が剥き出しになる丈だったが、人造の体は寒さに強いのか、子供の高い体温のお陰なのか、我慢できない寒さではない。

「みんなー! 紹介するね、この子はハイダってゆーの! ほら、みんなに挨拶して」
「いや、しないって言っただろ」

 アルマが手をつかもうとしたので、ウーヴェは一歩下がってよけた。アルマがさらに追いかけ、くるくると円を描くように追いかけっこが始まった。

「ほら、みんなの名前を教えてあげるから来て。どうせ知らないんでしょ」
「ここで待っているから行ってこい」
「ええー」

 しばらく押し問答をした後、諦めてアルマは一人で歩き出した。水面から立ち上る湯気で床は白く霞み、天井から吊るされた無数のぼんぼりが柔らかな明かりを投げかけている。この世のものとは思えぬほど幻想的だ。ここが何のための施設か知らなければ、ウーヴェは素直に美しいと思っただろう。
 被験体の名前を一人ひとり呼んでいたアルマが不意に振り返った。ウーヴェが自分を置いていなくなってしまうのではないか心配するような、心細そうな表情だった。
 ウーヴェがちゃんとここにいるよというように手を振ると、アルマは満面の笑顔で振り返した。

 

 

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 戦場の夢を見ていた。イノセンスと出会って、人を撃ち殺した日のことを。
 狙いを定めて引き金を引く。体に染みついた動作を繰り返す。敵兵の頭が血を撒き散らして吹き飛ぶ。
 イノセンスが見せるいつもの夢――だというのに違和感があった。
 標的が大きく見える。いや、敵兵だけでなく周囲のもの全てが大きい。自分だけが低い位置にいるような気分だった。
 撃つのをやめて、視線を下に向けた。自分の足場だけが陥没しているなんてことはなく、しかし軍靴に包まれた足は記憶にあるよりも小さかった。
 片手を銃から離して顔の前にかざした。小さく薄い手に細い指。青年の骨張った手とはまるで違う。最近ようやく見慣れてきたハイダの手だった。
 そこで目が覚めた。
 検査室兼自室の白い天井に向けて手を伸ばした。包帯を巻かれていることを除けば、夢と同じ手だった。体には引き金を引いた感触と銃を撃った反動が生々しく残っていた。

「ああ、起きていたのか。気分はどうだい?」

 エドガーが入ってきた。手には随分とファンシーな絵が描かれた本を持っている。

「まあまあってとこだ」

 ウーヴェは起き上がろうとしたが、「まだ安静にしていないとダメだ」ととめられた。前に動き回って傷が開いたことがあるだけに逆らえない。

「よかったら、暇潰しにどうだい? 息子のお下がりだけど」
「俺にか? アルマじゃなく」
「彼はもっと難しい本を読めるからね」

 渡された本をめくると挿絵が多く、子供向けの童話らしい。

「俺だってこれくらいは読め……読め……いや、読めるはず、きっと……! ……たぶん」

 エドガーにじっと見つめられてウーヴェは自信をなくしていった。誤字だらけの報告書を読んできた相手である。取り繕ったところで今更だ。

「あと、これが辞書」
「わからないことがあったらアルマに聞くからいいよ、そんな字だらけのやつ」
「アルマと仲良くしてくれてありがとう。でも、自分で調べた方が身につく」
「うへえ。こんなの持ってだって宝の持ち腐れになるのに」

 渋々受け取ったものの、この分厚い本に鈍器以外の使い道があるとは思えない。アルファベットの順番すら正しく言えるか怪しいのだ。

「こんな物よりさ、銃を撃たせてくれないか。いい加減腕が鈍ってこれじゃいざという時に戦えやしない」
「君はまだエクソシストとして戦うつもりなのか」

 エドガーが目を丸くして驚くものだから、ウーヴェは呆れた。

「そのための実験だろ。そりゃ全然適合が成功しなくて頼りないかもしれないけど」
「もちろんそうさ。ただ、驚いたんだ。君の闘志は実に大したものだ。こんな環境で……実験は苦痛しか与えず自由に出かけることもできないというのに……。僕は心の方から先に死んでいく者を何人も見てきたよ。自殺しようとしたり逃げ出そうとしたり、僕たちを殺そうとした子もいた」
「……そいつら、成功したのか?」
「鴉に連れ戻されるか返り討ちにされた」

 研究所は清潔で大方の団員は優しかったが、戦場とは違った血生臭さに満ちた所だった。

「銃の話はなしだ。聞かなかったことにしてくれ。そんな前例があるんじゃ、俺なら武器なんか持たせない」
「トゥイとサーリンズに相談しておくよ」
「いいって。ただ体を動かしたかっただけなんだ。アルマを誘って運動するよ」

 それに銃なら夢の中で撃てる、とウーヴェは心の中で付け足した。これからはきっとハイダの体で。確信があった。体の中でイノセンスの残滓がうずいた気がして、腕をさすった。

「アルマも喜ぶよ。君と仲良くなってから、毎日ハイダの話をしてくれるんだ」
「まあ、あいつがほしいのは一緒に馬鹿やれる同年代の友達だろうけどな」

 ウーヴェは肩を竦めた。

 

 

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「みんなー! おはよー! おはよー!」

 今日もアルマは水槽に沈む被験体一人ひとりに声をかけていく。アルマが目覚めた後は新入りが来ないまま、どれくらい月日が過ぎたのだろう。太陽と無縁の生活は、昼夜の境はおろか季節まで曖昧にする。壁に傷をつけて日数を数えるようなマメさはない。
 円柱に背中を預けて、ウーヴェはぼんやりと眺めていた。あくびが漏れる。アルマの朝の挨拶が終わったら、次は適合実験だ。二人とも適合に成功する兆しはない。昨日や十日前、一ヶ月前と変わらぬ日が今日も繰り返されるはずだった。

「――あ」

 水槽から水槽へ踊るように渡っていたアルマが、急に足を止めた。両膝をついて、水の中を覗きこむ。何人もいる被験体のうち一人に特別関心を寄せるなんて、今までにないことだった。

「ねぇ、起きてる? もしかして起きてる? キミ? 起きてたら手挙げてみて」
「は? なんだって?」

 ウーヴェは背中を柱から離した。
 水面から小さな手が伸びた。一輪の蓮の花のように真っ直ぐ天に向かって。

「嘘だろ……」

 呆然と呟いた。蕾が開く瞬間に立ち会えたような感動というより、死体のように沈んでいた体が動き出したことへの畏怖で体が震えた。ほとんど初めて教団の技術力を怖いと思った。

「やった!」

 アルマのはしゃいだ声に、ウーヴェは我に返った。

「エドガーを呼んでくる!」

 駆け出しながら、アルマの声を背中で聞いた。

「キミはね! ユウってゆーんだって!」