第7話 守り神の約束

「ハイダ、助けてくれ!」

 切羽詰まった悲鳴が廊下に響いた。ウーヴェは紙袋を大事に抱えて、厨房に向かっている最中だった。足を止めて振り返ると、長髪の研究員が鼻血を垂らしながら走って来るところだった。

「あいつらまた喧嘩してんだ! このままじゃ機材が壊される!」
「ええー。今から茶を入れるのに。エドガーから新しい茶葉をもらったんだ」

 抱えた紙袋から漏れる香りに頬を緩ませる。毎日のように揉め事が起こるから慣れっこだ。

「そこをなんとか! ハイダだけが頼りなんスよ!」
「鴉でも呼べばいいじゃねえか」
「そんなに事を大きくしたくないっス!」

 研究員は体力が尽きたのか床に崩れ落ち、ウーヴェの細い足にしがみついた。応援を呼ぶ前に体を張ってとめようとしたようで、顔には痣があり、白衣は破れている。

「しょうがねえな。とびっきりの茶菓子を用意しておけよ」
「助かるっス」

 研究員の手から力が抜ける。その背中の上に、ウーヴェは紙袋を置いた。
 アルマとユウの部屋からは怒鳴り声とぶつかり合う鈍い音がしていた。中に入るとベッドは真ん中から折れて廃棄物同然、壁はひび割れ、戸棚の薬品を体を張って守る研究員や床に倒れる者もあり、想像通りの有様だった。

「また派手にやっているな」
「ハイダだ! 助かった!」

 研究員たちが歓喜の涙を流した。救世主が現れたかのような出迎えに、ウーヴェは苦笑した。

「ほら、怪我した奴は医務室に行ってこい。アルマ! ユウ! 今度はなんで喧嘩してるんだ!?」
「てめえはすっこんでろ!」
「ハイダは黙ってて!」

 頻繁に殴り合いをしていても、あるいはだからこそ、こういう時は息の合う二人だ。
 エドガーがウーヴェの横に移動してきた。片頬が痛々しく腫れ上がり、腕も負傷したのか、かばうように反対側の手で支えている。

「悪いね。僕らじゃ力不足で」
「あんたの魔術でどうにかできないのか?」
「うーん、二人の動きに全然ついていけなくて」
「まあ、あれじゃしょうがないか」

 アルマとユウが普通の子供だったら微笑ましいじゃれあいだったかもしれない。だが、人間離れした動きで壁や床に穴を開けていく様は小さな嵐のように凶暴だ。とめに入った研究員に死傷者が出ていないのは二人が手加減しているからだ。
 ウーヴェはやれやれというように首を振り、アルマとユウに歩みよった。振り上げられたユウの腕をつかみ、力任せに床に叩きつける。普通の人間なら病院送りになる一撃だ。人造使徒に遠慮はいらない。
 ぴくりとも動かないユウに向かって、アルマは上機嫌に笑った。

「へへーん。ハイダは僕の味方だもんね!」
「お前も同罪だ!」

 完全に油断しているアルマの頬に右ストレートをくらわせた。小さな体が宙を飛んで壁にぶつかって落ちる。

「喧嘩両成敗だ」

 ウーヴェは腰に手をあて、ふんぞり返った。あとは気を失った二人を回収すれば任務完了――のはずだった。

「てめえっ、よくもやってくれたな!」
「ひっどい! 僕まで殴ることないでしょ!? 悪いのはユウなのに!」

 予想に反し起き上がった二人は戦意をみなぎらせて、ウーヴェを睨みつけた。飛びかかる機会を伺っていることが丸わかりだ。
 まだ部屋に残っていたエドガーが言った。

「ハイダ、二人をとめるどころか悪化してないかい?」
「今まではこれでいけたんだけどなあ」

 アルマもユウも成長している。昨日より打たれ強く、強敵を前にしても戦意は挫けず。アクマと戦うには必要な素質だが、イノセンスと適合していない現状では喧嘩意外に使い道がなかった。

 

 

 結局のところ第六研究所で一番強いのはトゥイだった。一声でアルマとユウを大人しくさせることができるのだから。
 二人が別室に連れて行かれ手当てと説教を受けている頃、ウーヴェは大の字で床に転がっていた。

「あー……くそ、だいぶくらったな……」

 殴られ蹴られたところが痛い。今はまだ優位に立てるが、追い抜かされる日は近いだろう。記憶のない二人に経験の差で勝てているようなものだが、日々喧嘩しているせいでその差も埋まりつつある。

「つーか研究所が壊されそうなんだ。フォーがとめろよ。サボってるのか? ……バーカ、バーカ、職務怠慢。なにが守り神だ。この部屋ボロボロだぞ」
「誰がサボってるって!?」

 ドスのきいた声が降ってきた。ひびの入った壁から少女が現れる。ウーヴェが手を上げて挨拶する暇を与えず、少女は実体化しすると同時に床を蹴って近づき、思い切り脇腹を蹴り飛ばした。
 まともにくらったウーヴェは反対側の壁際まで転がった。ツッコミ用の一撃なので見た目ほど痛くはない。すぐに起き上がり、その場であぐらをかいた。
 フォーが腰に手を当てて見下ろす。大胆な薄着でも、人外の存在は鳥肌一つ立てない。

「テメエの戦い方がひどすぎて手が出せないほど呆れてたんだよ。ずいぶん弱っちくなったな。あたしが鍛えてやろうか?」
「あいつらと違って接近戦タイプじゃないんだ。銃があれば負けないさ。水鉄砲くらいくれないかな」

 それも科学班の技術で威力を上げた物を、と考えてみたが、もう何年も残弾を気にした戦いをしていないからやっぱり負けそうだ。

「ん? なんでお前がアイツらの戦い方を知ってんだ。アイツらが元は誰か聞いてんのか?」
「いや、知らない。サーリンズが厳重に口止めしてるし、誰もボロを出さないな。まったく、教育が行き届いてるよ」
「そりゃ何度も失敗してきたからな。もうあんな思いは繰り返したくないだろうよ」

 フォーの顔に沈痛な陰が落ちた。いつもふてぶてしい彼女にしては珍しい。第六研究所にいる者は皆似たような顔を一度はするが、フォーも例外ではなかったようだ。しかし、次に口を開いた時にはいつもの調子に戻っていた。

「じゃあお前、なんでアイツらは接近戦タイプだって言ったんだ?」
「戦い方を見ればわかるさ。ユウは特にわかりやすいな。剣でも使ってたのか、鞘から抜こうとするように右手を腰に伸ばす癖がある。アルマはそういった動きはないから寄生型か、手袋や靴みたいに体につけるタイプの装備型だったんだろ」
「意外とよく見てんだな」
「当然だ。でなきゃとっくに殉職してる」

 そういう戦い方をするエクソシストに心当たりがあった。安否を尋ねかけて、寸でのところで思いとどまる。知らなくていいことを知った被験体――それも成功の兆しがない者――へエドガーたちがどのような処分をとらなければならないのか、嫌な想像しかできなかった。

「フォーはこっちに来れないものだと思ってたよ。全然会わないから」

 もっとも数日前にアルマから『精霊さん』の話を聞いて違うとわかったのだが。

「あたしはここの守り神だぞ。入れない場所があるかよ。こんな奥地に顔出すほど暇じゃねえってだけさ」
「ふうん、アルマとは楽しく話したのに。精霊さんなんて呼ばれてさ。俺には挨拶もなかったのに」
「なんだよ、怒ってるのか?」

 ウーヴェは恨みがましく見つめた。泣いている子を放っておけないフォーの優しさはわかっているが、アルマから聞いた時は寂しく思ったのだ。
 フォーはバツが悪そうに頭をかいた。

「あー……悪かったよ。でも、あたしだってどんな顔して会えばいいのかわかんなかったんだ。うっかり余計なこと言っちまいそうだし」
「まあ、うん。あんな簡単な挑発出てくるくらいじゃな」
「うるせえ。もう一回蹴飛ばされてえのか?」
「勘弁してくれ」

 ウーヴェはおどけて両手を上げて降参のポースをとった。ファーは難解な間違い探しを前にしたように顔をしかめ、「顔だけならトゥイのガキの頃を思い出すけど、中身がコレって変な感じだ」と呟いた。

「さっきはフォーを呼ぶためとはいえ馬鹿とか言って悪かったよ。でも半分は本気だったんだからな。この部屋の有様を見ろよ。怪我人だって何人も出ている。なのに見て見ぬふりか?」

 アルマとユウがこのまま強くなっていけば、ウーヴェだけでは抑えきれなくなる。研究員の怪我や備品の破壊の心配はもちろん、何より二人の処遇が危ぶまれた。エドガーたちにコントロール不能で、成果の出せない被験体などいつまでも飼っている理由は教団にはない。
 アルマもユウもハイダより前にいた被験体がどうなったか知らない。箝口令が敷かれていたし、外見相当に幼く無邪気な彼らに真実を告げることはウーヴェにとっても気が重いものだった。
 ウーヴェは請うようにフォーを見上げた。守り神の協力があれば二人が本気を出してもとめられるだろう。
 フォーは口の端を吊り上げた。無理やり作ったような皮肉な笑顔だった。

「しゃーないだろ。約束したんだ。何が起こってもアタシは手を出さないって」

 なんで、と問うことはできなかった。元気な足音が走ってきたからだ。

「ハイダ! ズゥ爺がおやつくれるって!」

 アルマが駆け込んで来た時にはフォーの姿はなかった。実体化を解いてしまえば人の目にはわからなくなる。

「早く、早くぅ!」
「わかった。今行く」

 アルマに腕を引っ張られるまま、ウーヴェは立ち上がった。尋ねる機会を失った疑問は頭の隅に追いやられた。