第8話 記憶の蓋

 土埃と硝煙の匂いに満ちた戦場の夢から、白く清潔で漢方薬の匂いがする現実に戻ってきた。ウーヴェは包帯を巻かれた手を見た。近くに銃がないことを確認すると、肩を回して生々しく残る夢の名残を振り払った。うっかりするとどちらが現実かわからなくなりそうだった。

「肩、変な感じするんスか?」

 長髪の研究員が注射器を片付ける手を止めてきいた。気を失っている間に採ったらしい血の入った容器がカートに乗っていた。

「いや、どこも。毎回腕の怪我が一番ひどいけど、利き腕だから嫌な感じするんだよな」
「ならいいんスけど。本当に不調があったら隠さないで言ってくださいよ」
「わかってるって。アルマたちはどうしてる?」
「2人とももう起きてます。寝てるうちに採血したかったんスけど大変でしたよ」

 何度も経験しているのに新鮮な感想を語るアルマと、うるさいと顔をしかめるユウの姿が目に浮かぶようだった。骨を折る喧嘩や体中を切り刻まれる実験をしているのに、細い注射針1本に騒ぐのも不思議だが、アルマに尋ねれば刺す前の消毒でひやっとする感じや血が吸い上げられる感じは別なんだと言葉を尽くして聞かせてくれるに違いない。

「そうだ、この間のお礼、食堂に置いときました。甘い物いけるって聞いたんで月餅を持ってきたんですけど」
「お、いいね。好きだよ。数は――」
「アルマとユウの分もありますよ」
「ありがとう。サーリンズに見つからないうちにもらうよ」

 壁の時計は3時20分を指していた。おやつの時間には丁度いい。
 二人の部屋に行って誘うと、アルマは喜んでベッドから飛び降りた。ユウは渋い顔であぐらをかいたままだった。

「甘い物は好きじゃねえ」
「お茶だけでもいいからさ。エドガーからもらった茶葉を試したいんだ」
「変なもんじゃねえよな?」
「俺が選んだ物ならともかくエドガーが買ってきた物だから安心してほしい」

 ようやくユウが腰を上げた。

「ユウ、月餅を食べたことあるの?」

 戸口で待っているアルマにきかれて、ユウは足を止めた。記憶をたどる数秒の間。

「……ない、な」
「なんで甘いって知ってるの?」
「そんな気がして……なんでだ……?」

 ユウは困惑した様子で首を捻っている。ウーヴェは助け舟を出した。

「茶菓子は大体甘いだろ」
「そっか。この前もらったビスケットも甘かったもんねえ。楽しみだなあ。サクサクしてるのかな? フワフワかな?」

 アルマは踊るように歩き出した。ウーヴェが横目でユウを伺うと、視線を地面に落として考え込んでいるようだった。
 食堂は閑散としていた。まだ夕飯の準備には早いようで厨房にも人気がない。ウーヴェは勝手知ったるなんとやら慣れた手つきで湯を沸かした。テーブルに着いたアルマは待ち切れずに、戸棚から見つけた月餅を頬張っている。

「これ美味しいよ! 中になんか入ってる! ユウも食べたらいいのに」
「だから苦手だって言ってるだろ」
「ええー残念」

 茶を注ぐと上品な花の香りが広がった。いつか飲んだ蓮芯茶を思い出し、ウーヴェは口元を綻ばせた。あの時飲んだものは苦かったが、これは苦くないというエドガーの言葉を信じよう。
 ウーヴェは茶を運び、アルマの隣に座った。アルマは鼻の穴を膨らませて胸いっぱいに吸いこんだ。

「いい香り!」

 ユウは差し出されたお茶を無言で口にする。ウーヴェも一口飲み、さらに笑みを深めた。

「これはいいな。飲みやすい」
「この前淹れてくれた紅茶とは違うんだねぇ。食堂で出てくるお茶とも違う?」
「蓮花茶っていう緑茶に蓮の香りをつけたものらしい。前に蓮の実の芯をお茶にしたものを飲んだことがあるけど、あれは苦くて忘れられないよ」
「それも飲んでみたいけど苦いのは嫌だなぁ。うー、でも飲まずにいるのはもっと嫌だ……」

 真剣に悩む様子が微笑ましい。ウーヴェは月餅に手を伸ばし、菓子盆の向こうでユウが険しい顔しているのに気づいた。幽霊を見たかのように青ざめ、口を手で押さえている。

「口に合わなかったか?」
「なんでもねえ」

 茶は半分近くなくなっていて、不味いわけではないようだ。

「えー? そんな変な顔してるのにぃ?」
「ちょっと熱かっただけだ」
「あ、もしかして舌を火傷したんじゃないの? ちゃんと冷まさないからそうなるんだよ。僕がふーふーしてあげよっか?」
「うるせえ!」

 乱暴に立ち上がった拍子に、ユウの椅子は後ろに倒れた。ウーヴェは食堂内の配置に目を走らせる。二人が殴り合いの喧嘩を始めた時に茶器をどこに移動させたら割れずにすむか頭を働かせた。
 だが、拳を打ちこむ音ではなく舌打ちが響いた。

「クソ、馬鹿に付き合ってられるか」

 くるりと背を向けて出ていく。
 ウーヴェとアルマは顔を見合わせた。大人しいユウなんて、サーリンズが今日の実験は休みだと笑顔で言うくらいにありえない。

「どうしただろ……。僕いっつもユウを怒らせてるけどあんなの初めてだよ……? 顔も青かったし、本当に具合が悪いみたい。大丈夫かなぁ、まだ治ったない怪我があるのかな……まさか病気!? 僕たちの体はすぐに怪我が治るけど、病気もそうだよね? すぐに治るよね?」

 大きな目にみるみる涙が溜まった。ユウが不治の病にかかったかのような大袈裟な反応に、笑ってはいけないとは思いつつもウーヴェは苦笑した。

「心配すんな。ちょっと腹でも痛かったんじゃないか? 怪我でも病気でもエドガーたちならすぐに治せるよ。でも、今はひとりで休ませた方がいいだろうな」
「……うん。わかった」
「大丈夫だって。寝れば治るさ」

 ウーヴェはアルマの頭を撫でた。根拠のない慰めであることは口にした自分がよくわかっていた。病気よりタチが悪いものかもしれない。嫌な予感を唾と一緒に飲みこんだ。

 

 

 お茶を飲み終わってもアルマはまだ沈んだままだった。夕食の仕込みに来たズゥにアルマを任せ、ウーヴェは胎中室に足を運んだ。

「やっぱりここにいたか。なんであんたもアルマも何かあるとここに来るんだろうな」

 ユウは円柱の側で膝を抱えて座っていた。記憶のない被験体たちは子供が母親の元へ駆け寄るようによくこの部屋で過ごしていた。ユウはウーヴェを一瞥すると舌打ちして視線を逸らした。
 ウーヴェは呼吸を整えて、立ったまま相手を見下ろした。どんな返事が来ても動揺せずにいられるように。銃を構える時に平静を保つのと似たような気持ちだった。

「何か見えるのか?」

 引き金を引くように静かに言葉を口すると、弾かれたようにユウは顔を上げた。

「まさかお前にも見えるのかっ!? この花が! あの女が!」
「いいや、何も。俺にはここはいつもと変わりなく見える。でも、たまに被験体に幻覚症状が出ることは知っている」
「幻覚……」

 呆然とユウは呟いた。
 ウーヴェは誰にも言っていない秘密を打ち明けた。

「俺は夢を見るよ。実験の後には必ず。ここじゃない場所の、戦場の夢。ここの人間は誰も出てこない。いつから幻覚を見るようになったんだ?」
「さあな。昨日今日ではないことは確かだ」

 誤魔化しではなく本当にわからないのだろう。太陽も草木もなく、同じ実験が繰り返されるここでは日付の意味がない。

「エドガーたちには言ったのか?」
「わざわざ知らせるほどのことじゃないだろ」
「そのまま言わない方がいい」

 ユウは意外そうにウーヴェを見つめ、口元を歪めて皮肉に笑った。

「お前があいつらに反抗的な態度をとるなんてな。俺のことを探るよう指示されたんじゃねえのか?」
「え? 俺ってそんな評価? どっちかっていうとサーリンズには余計なことを言うなってアルマに近づかないよう命令されてたんだけど。アルマがあの調子で近づくから意味なかったけどさ」
「あの馬鹿らしい」

 ユウの態度は相変わらずそっけないが、険がとれている。ウーヴェは心の中でかまえていた銃を下ろし、塹壕で仲間に接するように気安く話し続けた。

「俺より前にいた奴も幻覚を見るって言ってた。珍しいことじゃないらしい」
「そいつが今ここにいねえってことは死んだのか?」
「その通り。処分されたんだ」
「クソ野郎ども」

 覇気のない声でユウは罵倒した。疲労が色濃くにじんでいる。

「……アルマは知ってんのか?」
「いいや、言ってない。幻覚を見てるなんて話はアルマから聞いたことがないし、エドガーたちを信じている分、研究の実態を知ったらどうなるか……。俺の言葉を信じないか、エドガーたちを恨むか。どっちに転んでも怖いな」
「研究の実態、か。――俺たちはなんなんだ? どうして幻覚を見る?」

 ウーヴェは沈黙した。一度死んだエクソシストで利用価値があるから生かされているのだという事実に、ユウが堪えられるのか判断しかねた。
 舌を噛み切ったパブロ。再生するから何度も繰り返そうとしていた。地獄のような光景はまだ脳裏にこびりついている。

「お前はここが碌でもないとこだってわかってんのに、なんであいつらの言いなりなんだ」

 ユウの瞳の暗い澱みは、ぼんぼりの綺麗な灯に照らされたところで誤魔化せるものではなかった。
 ウーヴェは視線を横にそらし、自分の右腕に触れた。

「……まあ、半分同意してたようなもんだし。それに、エドガーと友達だからかな」
「アルマ並みに呑気だな。いや、それ以上か? よくあいつらと友達になれるな」
「悪い奴じゃないんだ」

 反射的に擁護していた。聞いた相手がどう感じるか考えもしなかった。
 だからユウに胸倉をつかまれた時、ウーヴェにとっては完全に不意打ちだった。なすすべなく体が持ち上げられ、爪先が床をかすめる。

「お前……! 俺たちがどんな扱いを受けてるか知ってるだろ! よくそんなことが言えたな!」
「……くっ」

 締めつけられた喉から苦痛の息がもれた。ユウの主張は一理ある。返す言葉がなく、ウーヴェはユウの腕を引っかいて逃れようともがいていた体から力を抜いた。
 ユウは目を怒らせたまま、ウーヴェを地面に落とした。

「なんで抵抗しない」

 血の気が多いけど無抵抗の相手は殴らないんだな、とウーヴェは咳こみながら思った。

「一発くらい殴られても仕方ないかなって」

 立ち上がった矢先に頬を殴られた。避けもせず受け、床に倒れた。

「これで許された気になるなよ!」

 ユウ立ち去る音を聞きながら、熱と痛みを持つ頬に手を当てた。腫れるのと治るのどちらが早いだろうか。

「どうしたらいいんだろうな」

 呟きは天井の辺りを漂って消えた。もしフォーがいたら相手をしてくれないかと期待したのだが、生憎覗き見していなかったようだ。
 代わり映えのない日々にずっとこのままでいられると思っていた。そう思いこんでいた。いつまでも現状維持ではいられない。
 自分一人では決められないのならエドガーに話そう、と思いついた時にはもう頬の熱は消えていた。隠していることをすべてあかして、相談して、これからのことを決めよう。
 ウーヴェは両足を高く上げ弾みをつけて起き上がった。気分爽快とまではいかないが、いくらかマシになった。

 

 

 用事がある時に限ってエドガーは地上での仕事が忙しいのか姿がなかった。照明が消えてはつき、人工の夜と朝が繰り返される。
 ようやくエドガーを廊下で見かけた時には何日過ぎていたのだろう。

「うわっ、いた!」
「ええ!? なに!?」
「いや、ちょっと話しがあって――」

 後で時間をくれないかと続けようとした時、エドガーの頭上を飛んでいたゴーレムからレニーの叫び声が響いた。

「エドガー、急いで来て! ユウが倒れたの!」