第9話 処刑の時間

 白衣を翻して駆け出したエドガーの後ろを、ウーヴェの小さな影が続いた。

「アルマがパニックになってないといいけど」

 体調不良のユウを心配して涙目になっていたアルマの様子は記憶に新しい。

「彼の方は君に任せた」
「ああ。――と、早速出番かな」

 処置室の前でアルマがうずくまっていた。足音に気づいたのか顔を上げると、一目散にエドガーに駆け寄った。

「博士! ユウが、ユウが……!」
「連絡は受けている。後は僕たちに任せて。大丈夫、ユウが元気になったらすぐに教えるから。アルマはハイダと一緒に待っていて」

 エドガーは幼い子供にするように頭を撫でた。アルマは口を山型に歪ませて涙をこぼさないよう堪えている。
 エドガーが部屋に入った時に、処置室の様子を覗くことができた。白衣の大人たちがベッドを取り囲み、ユウの姿は隠れて見えない。測定した数値を読み上げる声や、薬品か呪術の道具を持ってくるよう指示する声が飛び交っている。肌が粟立つような緊迫した雰囲気に、いつもの適合実験後の気絶とは違うことが素人目にもわかった。
 ドアが閉まった後もウーヴェはすぐに動けなかった。無意識のうちにとめていた息を吐いて、体の強張りを解く。

「部屋に行こう」

 アルマが小さくうなずいたのを見てウーヴェは歩き出した。ついてくる様子がないので手をとって進むと、アルマは力なく足を動かし始めた。握った手は自分のものと大きさが変わらず、外見は自分も子供なのだと改めて突きつけられる。
 ベッドに並んで腰掛けた。アルマはうつむいたまま、足をばたつかせる元気もなく、シーツを堅く握りしめていた。

「いつも通りにみんなにおはようを言ってたんだよ……。ユウは座って見てて……急に叫んで、誰もいないのに誰かに言ってるみたいだった。それから頭を押さえて倒れて……」
「そうか」

 ウーヴェはアルマの不安に震える体が落ち着くまで背を撫でた。

「待っているだけってのはつらいよなあ」

 衛生兵でも科学者でも魔術師でもないウーヴェにできることはない。昔、イノセンスに選ばれる前なら神に祈りを捧げただろうが。

「今はユウとエドガーたちを信じて待とう」

 どうかアルマを裏切ることはしないでくれよ、と胸の奥が痛くなるほど切に願った。
 1分が永遠に感じられる時間。アルマは部屋の中をぐるぐる歩き回ったり、本をぱらぱらとめくってみたり。一緒にカードで遊んだら、らしくないミスをしてウーヴェは簡単に勝たせてもらった。
 おそらく3時間くらい経っただろうとウーヴェが当たりをつけた頃、眼鏡をかけた研究員が入ってきた。

「ユウは!?」

 アルマは手にしたカードを放り投げて駆け寄った。研究員は穏やかに言う。

「容態は落ち着いたけど、まだ寝ているよ」
「そう……」

 しょんぼりと落ちた肩を研究員が優しく励ますように叩き、それからウーヴェに顔を向けた。

「ハイダ、議長が呼んでる」
「げ。なんかやらかしたっけ?」

 何も知らないしサーリンズに直接訊けというように、研究員は肩をすくめた。ウーヴェは腕を組んでうなった。サーリンズとは顔を合わせる度に小言をもらっているような気がするが、今回は十中八九ユウのことだろう。パブロの時も余計なことを言ったのではないかと疑われたのだ。

「僕は呼ばれてないの? ハイダだけずーるーいー」
「いや、怒られに行くんだが。たぶん」
「大人しく待っててくれ。この間の本は読み終わったのか?」
「全部読んじゃったよぅ、もう」

 アルマは頬を膨らませた。不貞腐れた顔も愛嬌があり、研究員は困った様子で頭をかきながらも笑っている。
 駄々をこねることはあるが基本的に聞き分けがいいアルマを残し、研究員と二人で廊下に出た。大人の歩幅についていくことも慣れたものだ。身長の割に大きな歩幅で、若鹿のように軽やかにウーヴェは進んだ。
 職員室に並んだ机は団員の私物が飾られたり乱雑に書類が積まれたりして賑やかだ。壁際には日差しの入らない地下のため、造花が彩を添えている。その奥にサーリンズ議長の部屋があった。

「ハイダを連れてきました」

 ドアを開けた時から重苦しい空気が漂っていた。サーリンズは険しい顔で机の上で両手を組み、応接用のソファに座るエドガーに顔には笑みのかけらもない。トゥイは腕を組んで立っており、眼差しはいつも以上に厳しい。その隣でレニーが両手を胸の前で握ったり離したり不安そうにしている。
 雰囲気につられてウーヴェは腕を背中に回して直立不動の姿勢をとった。染みついた軍人の流儀はなかなか抜けないらしい。まるで上官に呼び出された新兵の気分だ。
 背後でドアが閉まり、逃げるように眼鏡の研究員が出て行った。間髪入れずにサーリンズが机を拳で叩いた。

「ユウに幻覚症状が出ていたことを知っていたな。なぜ報告しなかった!」

 しらばっくれようとする前に、エドガーが口を開いた。友人としての親しみはなく、支部長補佐として不適切な行動を責めていた。

「ユウ本人が幻覚のことはハイダに口止めされたと話していた」
「言うなよって言ったんだけどな」

 ウーヴェはため息をつき、体から力を抜いて直立不動の姿勢を解いた。じろりとサーリンズから睨まれたが、風に吹かれた柳のように受け流す。

「隠す気力もないようだったぞ」
「そんなに深刻な状態なのか?」
「早く気づいていればユウの記憶を消すことができたのだぞ!」
「もうできない?」
「再生能力の呪符が完全に肢体に定着している。修正は手遅れだ」

 トゥイが説明をはさんだ。普段の冷静さを装っているが、顔が青ざめている。
 ウーヴェは首をひねりながら、なんとかその言葉と自分の体の特徴を結びつけた。

「……ええっと、つまり記憶を消しても、指を切り落としても元に戻るのと一緒でまた思い出すってことか?」
「その理解で構わない」
「じゃあもう誰もユウの記憶を奪えないのか」

 これ以上頭の中を好き勝手にいじられないことはいいことではないかとウーヴェは思った。研究員たちにとっては、記憶をいじることは壊れた柵を新しい板で補強したり腐った板を取り除くような感覚なのだろうが、やられる方は堪ったものではない。

「ユウはこれからどうなるんだ?」
「気が触れ正気を失う」

 サーリンズは絶対にそうなると信じているようだった。トゥイたちも異論を挟まなかった。

「まさか! 悲観的すぎないか?」
「お前もパブロを覚えているだろう? 我々は長いこと多くの実験をしてきた。記憶を取り戻した彼らがどうなるか、データは十分過ぎるほどあるのだ。……被験体『ユウ』の実験は中止し凍結処分とするしかあるまい」

 サーリンズは目元を手で覆い隠した。顔の皺は深くなり、今日だけで何年も老けたようだった。レニーは肩を震わせている。トゥイは何度も唇を噛んだのだろう、口紅が剥げ落ちている。エドガーは覚悟を決めた顔で固く両手を組んでいた。
 研究員たちの辛苦を否定するつもりはないが、それでも一方的に心身をいじられる自分たちに比べれば、という思いを拭い去ることができない。友人のエドガーにすら隔たりを覚えた。断絶をどうすれば埋められるのかわからないままウーヴェは言った。

「俺はあんたたちがパブロにしたことを知っていたから、ユウには隠すように伝えたんだ」
「眠らせてやるしか、我々にできることはないんだ」
「……俺は軍にいた頃からずっと前線にいたから、後方のことは知らなかったけど、こんな使い捨ての銃弾みたいに俺たちの処遇は決まってたんだな。いや、無茶な突撃命令なんか出てくるんだから薄々気づいちゃいたけどさ。無能な上官は戦場で不幸な流れ弾に当たる確率が高いんだ。ここが前線でなくてよかったな」
「今の反逆の意思ありととられかねない発言もユウの状態を秘匿しようとしたことも今回は見逃してやろう。だが、次はないぞ。聖戦のためにあらゆる協力を惜しまず、身命を教団に捧げるべきなのだ。いいな? これは命令だ」
Jawohl,了解です Herrミスター サーリンズ!」

 軍隊仕込みの敬礼を返した。そのまま回れ右をして、ドアに手をかける。これ以上ここにいても恨み言しか出てこないだろう。
 鳩尾の辺りで弾けた憤りの火花は諦めという水をかけられてくすぶっている。この場にいる個人を責めたところでどうしようもない。たとえサーリンズを撃ち殺しても、後任者はすぐに現れて動き出すだろう。黒の教団という組織の前に何ができる。

「仮に実験中に事故が起こったとして、全ての責任は私にある」

 背中でサーリンズの言葉を聞いた。ウーヴェは振り返りかけたが、しかしドアを開けた先の惨状に動きをとめていた。

「うわー。またなんか変な実験したのか?」

 研究員たちが白い芋虫よろしく床に転がっている。警報が鳴っておらずフォーの姿もないので、襲撃されたわけではないようだ。科学班が開発した道具や薬を試して自滅している姿は珍しくない。

「この間は疲労がポンッと消える薬だっけ? 今日はなんだ?」
「違う……アルマが……」
「聴診器を奪われて……それで盗み聞きを……」

 苦痛にうめきながら研究員たちがこたえた。トゥイとレニーが血相を変えた。

「どこからどこまで聞いていた……?」
「まさか全部!?」

 サーリンズの判断は早かった。

「鴉部隊を出す」

 エドガーは机を叩いて異議を唱える。

「待ってくれ。まずは私たちだけで探そう」
「迅速な初動が大事だ。わかるだろう」
「しかし、彼らのやり方は暴力的過ぎる」
「彼らがやるか、我々がやるか。過程の違いだけで結果は同じだ」

 エドガーの胸ポケットからゴーレムが飛び出した。黒い翼が激しくはばたき、叫び声を響かせる。

「アルマがユウを攫った! 二人で逃げ出す気だ!」
「……もう猶予はない。アルマたちがエクソシストと接触する前に連れ戻さなければ」

 焦燥の色を濃くするサーリンズたちに倣って、ウーヴェは深刻な顔で視線を落とした。本心では二人が無事に逃げられたらいいと思っていた。
 ウーヴェは余計な口を出して追い出されないよう、指示を出すサーリンズから距離をとり、床に転がっている研究員たちの手当てをした。その後は気配を消して部屋の隅で待機した。
 鴉部隊が動き、研究員たちも走り回る。最後に目撃された場所、隠れられそうな場所、外部と繋がっている場所、それらの情報を聞きながらウーヴェは頭の中の地図に書きこんでいった。
 ほどなくして血を流すアルマを抱えた鴉が入ってきた。四肢を大きな針で貫かれ、目を閉じ、呼吸は浅い。気を失っているようだ。

「もう一人の被験体はこいつが用水路に落とした。仲間が追っている」
「場所は? 流れ着くとしたら……」

 エドガーが机上の地図を指で叩いた。鴉は答えず、顔をウーヴェに向けた。

「そっちの被験体は」

 研究員たちは今更ウーヴェの存在を思い出したように口籠った。

「研究所の抜け道が筒抜けではないか」
「俺は逃げたりしないさ」

 フードの陰で鴉の表情は見えないが、疑う視線が肌に突き刺さるのを感じた。ウーヴェは肩をすくめた。

「わかったよ、部屋で大人しくしてるよ」

 部屋に戻ったが、やることがない。薬棚の一角にはエドガーからもらった本がしまわれているが、一度も開いたことはなかった。ベッドに仰向けになり天井を眺めていると、ノックもなしに鴉が入ってきた。白いローブの胸元と袖が血に濡れているので、アルマを捕まえた鴉だとわかった。

「アルマについてなくていいのか?」
「縛羽から抜け出すことは不可能だ」
「大した自信だな。着替えくらいしてきたらどうだ?」
「これくらい気にするたまではないだろう?」

 鴉はドアの前をふさぐように立ち止まったまま動かない。

「それで俺になんの用なんだ?」
「お前が騒ぎに乗じて逃げ出さない保証はないだろう?」
「監視とは仕事熱心だな。じっとしているのも暇だろ。トランプでもするか? チェスは苦手なんだ」

 鴉はじっとウーヴェを見つめると、深いため息をついた。

「なぜ神はこんな奴を選んだのか……。他のエクソシストにしてもそうだ。イノセンスに選ばれたというのに、責務を放り出そうとするとは理解できん」
「ろくにイノセンスを発動できない今の状態が選ばれたと言えるか微妙だけどな」
「地上にいるエクソシストにも逃げようとする奴がいる」
「ああ……」

 任務から逃げ出そうとするエクソシストは珍しくない。アクマとの命懸けの戦いに恐怖を感じるのは当然のことで、昨日まで戦いとは無縁に生きてきた人間ならなおのことだ。兵士という職に就いていたウーヴェはその点では一日の長があり適応が早かったが、他人に自分と同じようになれと求めることが酷であることを理解している。軍にいた頃に、性格や身体能力が兵士に向かずに除隊していった者を何人も見てきたからだ。

「嫌がる奴に無理矢理やらせようとするからだ。帰省休暇も認められないんじゃやる気だって下がる。俺はこの仕事が平気だからいいけど、子供の頃は羊の世話が嫌で逃げて親から拳骨くらったよ」
「そんな子供じみたことをされては困るのだ」
「そう言われてもなあ。こっちだって神様にお願いしてエクソシストになったわけではないし。……死んでからも戦わせられるようなところだ。自殺も逃げる手段にならないなんて最悪だ」
「お前は平気そうだが? わざわざ女になりたいなんてどうかしている」

 一々棘のある言い方に、もしかして嫉妬されているのかと思った。強制的にエクソシストにさせられるイノセンス適合者と違い、多くの団員は志願してアクマと戦っている。どうして神は自分ではなくお前を選んだのかと理不尽な怒りをぶつけられたことは一度や二度ではない。
 ウーヴェはにっこりと微笑んだ。嫉妬はさておき、久しぶりに容姿に触れられた。研究員たちはもう慣れていてからかい甲斐がないのだ。幼い姿に見合うよう声を高く作り、舌足らずにしゃべる。

「パパ、ご本読んで」
「私で遊ぶな!」

 天井のスピーカーから警報が鳴り響いた。機械音声が胎中室の装置が破壊されたことを繰り返し告げ、それもとまった。
 警報器も壊されたのだと直感した。ウーヴェは一直線に駆け出した。

「おい、待て!」

 捕まえようとする鴉の手を身をかがめてかわす。胸騒ぎがした。胎中室に近づくにつれ、血の匂いが濃くなっていった。不思議なことに誰ともすれ違わなかった。
 胎中室へ飛び込むと、足の下で水が跳ねた。いや、これは血だ。折り重なるように研究員と鴉たちが倒れ、血を流している。まだ目覚めぬ被験体たちが浸かる水槽も赤く染まっている。
 その奥の祭壇の手前で、ただ一人アルマだけが立っている。天井から吊り下がるぼんぼりの灯りが血に濡れた体を艶やかに照らしていた。上半身は裸で、それもそうだろうとウーヴェは思った。アルマの肩甲骨からは小さな翼状の刃が生え、右腕は肘から先が二対の平たい巨大な刃になっているのだ。服が破けるのは当然だ。

「君の方から来てくれたんだ。行く手間が省けたよ」

 虚なアルマの声は、ウーヴェの耳を素通りした。
 遅れて鴉も駆けつけてきた。

「お前……! どうやって縛羽を抜けた!?」

 鴉が呪符を展開するが遅い。右腕の刃が伸びて、鴉の体を袈裟がけに切り裂いた。吹き出した血がウーヴェの半身を濡らしたが、まったく気にならなかった。

「エド、ガー……?」

 ウーヴェは呆然と、もう一方の刃に串刺しになった人物を見つめていた。