第10話 崩壊

 立ち尽くすウーヴェを我に返したのは、アルマの叫びだった。

「ハイダの嘘つき! みんなで僕らを騙してたんだ!」

 伸びてきた刃を、反射的に横に跳んでよける。まだ温かな血溜まりはアルマに切りつけられてからそう時間が経っていないことを示している。

「フォー! 来てくれ! アルマは俺が相手をする! まだ息がある奴を助けてくれ!」
「ハイダのこと信じてたのに!」

 涙をこぼしながらアルマは刃を振るった。

「ハイダは全部知ってたんでしょ!? どうして平気なの!? 今までもこれからも……死んでからもッ、永劫に奴等の道具にされ続けるのに!」

 ウーヴェが避ける度に、倒れている研究員の体が巻き添えになってさらに切りつけられていく。アルマが血溜まりで足を滑らせ倒れないよう踏ん張った一瞬の隙をウーヴェは逃さなかった。

「出番だ、イノセンス!」

 右腕の中に残ったイノセンスの欠片が呼応した。前腕が白く輝き、祭壇に保管されてあるイノセンスの本体が空間を飛び越えて腕の中の欠片と融合する。体に巣食っていた虫が羽化して通り抜けていくような奇妙な感覚――肉も皮膚も傷つけぬままイノセンスは白い銃の形で出てきた。
 すぐさま構え、胸を狙った一撃を放つ。最後にアクマと戦ってから体の大きさは随分と変わったが、夢の中で撃ってきたのだ。練習は十分だ。
 弾丸は狙い通りに飛んだ。アルマが刃を盾に防ぐ。刃を下げた時に見えた顔は驚いていて、泣くのも忘れたようだった。

「ハイダもイノセンスが……」

 ウーヴェは薄く微笑んだ。弾切れを起こさない、神から賜りし奇跡。

「長い間待たせたな。でも、もう隠しておく必要がないから、また一緒に戦おう」

 よりによって最初に戦う相手がアクマではなく味方とは、とウーヴェは心の中で舌打ちをする。

「初めて撃ったのも生きた人間だったし、そういう運命なのかもな」
「嘘……まるでずっと前から使えてたみたいな言い方……」
「そうだよ。本当はイノセンスの適合はいつでもできたんだ」
「なんで……」
「成功例ができたら、エドガーはこの計画から手を引けなくなるだろ? 上手くいってしまったら教団は絶対にこの研究を実用化する。そういう組織だ」
「あは、僕たちエクソシストのことを考えてやったわけじゃないんだぁ」

 アルマの口から空気が抜けた風船のような力のない笑いが漏れた。自分を奮い立たせるようにウーヴェを睨みつける。

「全部知ってて戦うだけの力もあるのに何もしなかったんだね!」

 アルマが刃を振りかぶった。いまだに串刺しにされたままのエドガーと顔が合って、ウーヴェの指が強張った。それでも撃ち出した銃弾が刃の軌道を逸らした。

「そうだな。今まで何もしなかったツケがきたんだろう」

 声は震えずに出すことができた。だから大丈夫だと自分に言い聞かせたが、心臓がまだ動揺で跳ねている。気を抜くと青白いエドガーの顔に、動かない体に、目が吸い寄せられてしまう。
 ――戦いは苦戦した。
 科学班の手が加えられていないむき出しのイノセンスは、撃つ度にまるで肉や骨を弾丸にして撃ち出すような負荷がかかり、体力を削っていった。寄生型のエクソシストが早死にするわけを実感した。
 アルマを近寄らせるな、距離をとれ、と必死で足を動かし銃弾で牽制するが、室内では限度がある。
 息が上がる。呼吸を整えようとするが上手くいかない。撃った弾は狙いを逸れて壁を穿った。刃に切られる回数が増え、傷が深くなっていく。もはや狙い澄ました一撃ではなく闇雲に撃つようになっていた。こんな無様な戦い方は初陣以来だった。

「フォー!? 何をしているッ! どうして来ないッ!」

 血を吐きながら叫んだ。刃が胸を切り裂き肺を傷つけていた。もはや人造使徒の回復力と頑丈さだけが頼みの綱だった。
 助けが来たところで無駄だ、と理性が囁く。誰も動いてはいないし、うめき声を上げてもいないじゃないか。それでもフォーに助けを求めずにいられなかった。死体同然の自分を蘇生した技術を持つ教団なら助けられるはずだ。その技術を持つ者が倒れていることは無視した。
 刃が膝下を切り裂いた。血溜まりに倒れて肘をつく。骨を断たれたせいで再生に時間がかかる。
 銃を構えようと苦心している間に、足音が近づいてきた。刃が届く距離だというのにわざわざ猶予を与えるとはお優しい、と煽る余力もない。アルマに踏まれて跳ねた血が額にかかった。アルマの体は何ヶ所か撃たれたもののすでに傷がふさがっている。涙を流しながら、アルマは異形の腕を上げた。

「さよなら、ハイダ」

 振り下ろされた刃はすんでのところでとまった。

「アルマ!」

 ユウの声が響いたからだった。アルマは表情を明るくさせて振り返った。

「ユウッ……! 無事だったんだね!」

 ウーヴェはゆっくりと腕の力だけで後ろに下がった。数センチ移動したところで障害物に阻まれる。見ると、冷たくなったトゥイの体だった。
 堪える間もなく胃液を吐いていた。遺体を汚さないよう顔を背けるのが精一杯だった。死体は見慣れているのに、これより損傷が激しい死体だって見たことがあるのに。

「ああ、くそ……トゥイ、あんたまで……」

 視界が涙でにじみそうになるのを歯を食いしばって堪えた。足は歩けるまで回復したが、銃を杖代わりしてなんとか立てる有様だった。それでも喘ぎながら膝立ちで銃を構えた。
 ユウがアルマと刃を交えて――ユウもイノセンスを取り戻したようで、予想通り装備型だった――ウーヴェから離れるように誘導している。
 援護しようと思うのに、手の震えがとまらない。銃身がぶれた状態ではユウを誤射する恐れが高い。焦るほどに悪化していく。何も出来ない自分が嫌になる。
 遠くから微かなうめき声が聞こえた。まだ生存者がいる――希望に突き動かされウーヴェがその方向を見ると、壁に大きな穴が空いていた。ギザギザに尖った縁は血に濡れている。迷いなく飛び込み、隣の部屋に着地した。

「大丈夫か!?」

 目隠しをした巨漢が倒れていた。来ている黒いTシャツはエクソシストに支給される物だ。目元が隠れていても誰であるかわかった。

「嘘だろ!? なんでマリがここに!?」

 ノイズ・マリとは一緒に任務をこなしたことがある。マリの糸でアクマを追い込み、ウーヴェの銃弾でとどめを刺す。驕ったところがなく気のいい男だ。
 怪我の状態を確認するために体に触れたが、傷口がない。服は破れて血はまだ乾いてないというのに。

「なん、で……。まさか、もう、処置を受けて……?」
「……うう」

 気を失っていたマリが身動ぎした。訊きたいことはたくさんあったが、悠長にしている状況ではない。

「気がついたか、マリ。今からあんたを安全なところまで運ぶ」
「君は……? すまない、目が見えないんだ」
「目までは治してもらってないのか。ウーヴェだよ、マリ。俺の銃、持っていてくれ」
「ウーヴェ……?」

 マリの巨体を両腕で持ち上げ胸の前で抱えた。背負った方が楽だが、身長差がありすぎて足を引きずることになる。

「声の位置からして子供だろうに、力があるんだな。君も人造のエクソシストなのかい?」
「知ってるのか? 機密事項のはずだが」
「さっき会った男の子から聞いたんだ。名前は教えてくれなかったな」

 話しながら無人の廊下を進んだ。まだ生きている人がいる安心感と、一人だけでも必ず助けなければという使命感はウーヴェの体に力を与えた。

「……エクソシストの再利用というのなら、もしかしてだけれど、君は僕の知っているウーヴェなんだろうか」
「ああ、そうだよ。ウーヴェ・シェーファーだ。黒い銃シュヴァルツェスゲヴェーアを使うエクソシストの」
「こんな可愛い声じゃなかったんだけどなあ」
「実は女の子になっていてな。今はハイダって呼ばれてる」
「……私も女の子になる予定だったんだろうか?」
「どうだろう? 俺は希望してこうなったからな」
「今なんて?」

 突き当たりの扉の前でマリを下ろした。預かっていてもらっていた銃を返してもらう。銃を背負うためのベルトがなくて不便だが、生憎代わりになりそうな物もない。

「ここは外部と繋がってる場所だ。研究員たちが毎日を通るから間違いない。俺は鍵を持ってないから開けられないが、向こうから誰かが来たらすぐにマリを見つけてくれる」
「待て、どこに行く? 戦いに戻るのか?」

 目が見えずとも、ウーヴェが離れる足音でわかったらしい。

「いや、俺は俺にできることをするよ。歩いている間に考えついたことがあるんだ」

 ウーヴェはしっかりとした足取りで走り出した。向かった先は事務所だった。備え付けの本棚に並ぶ文字に顔をしかめ、適当にファイルを取り出す。

「実験の記録ってこれでいいのか? 備品の購入伺いじゃないよな?」

 もしも隠れている誰かがいるなら返事をしてほしい。期待は虚しく、声は壁に当たって消えていった。誰もいないのなら、無事に逃げていればいいと思う。

「ちゃんと字の勉強しとけばよかったな。ま、全部燃やせば問題ないか」

 文字がただの図形にしか見えなくて降参した。かろうじてわかる英単語すら、頭の中で意味を結んだ端からほどけて、本当に合っているのか自信がない。

「誰かいるか!? いないな!? よし、なら思い切りやれるな」

 廊下に出て銃を構えた。装填される弾丸の種類を変える。アクマ退治以外の用途だろうと、このイノセンスは常に要望を叶えてきた。

Flamme geladen火炎装填完了

 火の弾を撃った。事務所内で爆発音が2つ3つと続き、赤く燃える炎が噴き上がった。全てを焼き尽くす勢いで天井まで届いている。

「……え?」

 ここまで威力は出していないし、一発しか撃っていない。さては科学班が置いていた薬品か何かが誘爆したか。

「ま、まあ、結果としては上出来か……?」

 熱に当てられて汗がにじむ。炎の舌は室内を舐めまわすだけでは足りず、廊下にも伸びようとしていた。ウーヴェは頬を引きつらせながら事務所の後にした。
 書庫にも同様に爆撃を撃ちこむ。ここには科学班が置いた可燃性の薬品はないようで予想の範囲内の火災ですんだ。人造使徒計画が始まってから90年と言ったのはサーリンズだっただろうか。長い時間をかけて積み上げたものはあっという間に灰になった。
 あとは自分が研究所から脱出すればいい。マリを置いてきた扉に向かって走る。アルマとユウの戦いは気になるが、自分が行っても何もできないだろう。
 ピシ、と天井の辺りから音がして、ウーヴェは速度を落として見上げた。うっかり皿を割った時のような嫌な感じがした。音は一つにとどまらず、壁に天井に稲妻のような亀裂が走った。

「馬鹿野郎! 死にたいのか!?」

 フォーの声が後ろから響くやいなや、後ろ襟をつかまれ放り投げられた。床の上をボールのように転がる。

「何するんだ!?」

 体勢を立て直したウーヴェの目の前で、天井と壁が崩れ落ちていった。

 

 

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 崩落の揺れと肌に当たる塵埃が収まってから、ウーヴェは閉じていた目を開けた。最初に見えたのは、白い足。この状況でも汚れひとつなく、血の気のなさも相まってまるで幽霊のようだが、もちろんフォーだ。腰に手を当て仁王立ちし、眉を吊り上げて大喝した。

「アルマとユウが全力で戦って、あんたまで火をつけたらさすがに崩れるぞ! 研究所の耐久テストでもしてんのかバカ!」
「あー……そういうこと」
「ったく、何やってんだか」
「俺もあんなに燃えるとは思わなかったんだ」

 ウーヴェたちは大きな瓦礫同士が互いに支えあってできた小さな空間にいた。立ち上がると頭のすれすれに天井がある。

「生き埋めになりたくなきゃ余計なことはするなよ。いいか、絶対だぞ」

 フォーは人外の膂力で瓦礫をどかし、時には腕を刃に変形させて文字通り道を切り開いた。どこをどう動かせば安全に抜けられるかわかっているようで迷いがない。

「今ほど体が小さくなってよかったと思ったことはないよ」

 子供がやっと通れる隙間を腹這いでくぐり抜ける。もしも瓦礫の下敷きになったら圧死と再生を繰り返す羽目になると想像すると肝が冷えた。

「マリは無事か?」
「ああ、研究所の外に放り出してきたよ。レニーもズゥも厨房スタッフもここからとっくに逃げた」
「アルマとユウはどうなった?」
「ユウがアルマを機能停止するまで殺した」
「そうか……。二人にはツケを全部押しつけたな。そうなる前に俺が撃ち殺せていればよかったんだけど」

 アルマを――あるいは人造使徒計画に携わった教団の人間全員を。アルマの代わりに自分がやっていればあの二人が殺し合うことだけは防げたのだ。

「できなかったくせに。後からああだこうだ言うのは簡単さ」
「耳が痛いな。……なあフォー、なんでアルマをとめなかったんだ」
「約束したんだ。何があってもどんな結果になっても守らないって。……守り神に守るなとか無茶言うよ……」

 ウーヴェからはフォーの背中しか見えず、どんな表情をしているかわからなった。か細い声を聞いて、助けに来なかったことを責める気持ちはすとんと消えた。酷い約束をさせたものだと思う。

「胎中室も潰れたか? できれば最後にエドガーたちに会いたい」
「わがまま言うなよ」

 フォーは大きなため息をついたが、律儀に連れて行ってくれた。
 胎中室は穴が空いた壁や天井が落ちているところが一部あるが、大部分は部屋の形を残し、広い空間を保っていた。
 エドガーとトゥイの死体は並んで壁に背を預けていた。目を閉じて安らかな顔だった。泣いていいか笑っていいかわからないまま、ウーヴェは表情を崩した。

「フォーがやったのか? 案外ロマンチストなんだな」
「うるせー。ここから出る時は上の穴から出ろよ。アタシはもう行くから」
「自力で登れって? この高さを?」
「頑張れよ」

 フォーは実体化を解いて姿を消した。
 天井の穴を通して久しぶりに夜空を見た。雲がかかって暗澹としていても、外の景色というだけで心がほっと一息ついた。
 ウーヴェはエドガーの前に歩み寄った。立った自分より低い位置にエドガーの頭があることに違和感を覚えるくらいには、この体の大きさに慣れていた。跪いて顔を合わせる。

「エドガーに相談したいことがあったんだ。本当はイノセンスを使えたこと、成功例を出していいものかどうか……ダメだったら失敗作として処分されることだって考えてたんだぞ。もっと早く相談してたらこんなことにはならなかったのかな……」

 できなかったくせに、とフォーの声が頭をよぎる。フォーの言ったことは正論だ。それでも、感情はもしもの可能性を想像することをやめられない。

「安らかな顔しやがって……ったく、アルマに殺されて満足か? 何が『何があっても守るな』だ。それで罪滅ぼしのつもりか? お前らも蘇らせられて実験台にさせられないと釣り合いとれねえだろ。……まあ、みんな焼いてきたからたぶんもう人造使徒を作るのは無理じゃないかな。再開するとしても時間がかかると思いたいね。その辺りのことは俺にはよくわからないけど、やれることはやってきたよ」

 涙があふれそうになる。堪えようとして、もう我慢する必要ないのだと気づくと無理だった。あふれ出るままに任せて体が空っぽになるまで、涙と嗚咽を吐き出した。
 最後の一滴がこぼれ、目尻に残った涙を拭いさる。

「さよならエドガー、トゥイ。俺はまだ生きていくよ」

 ウーヴェは立ち上がると、もう二人の遺体は見なかった。外の世界で生きるために、まずは壁を登らなければならなかった。

「はあ……はあ……くそ、落ちて死ぬかと思った……!」

 根性で登り切り、穴の縁に手をかけ這い上がる。仰向けに転がると背中にくくりつけた銃――鴉の死体から帯紐をとって使った――が背骨に当たって痛い。だが、疲労で体勢を変える気にもならなかった。
 吐いた息が白く煙る。空から雪片が落ち、肌に触れては溶けて消えるのを、手を伸ばして新鮮な気持ちで眺めた。
 周囲では人の話し声がしていた。近づいてくる足音がして、ウーヴェは身を起こした。白服のファインダーの女性が、すぐに逃げられる距離を保ちつつ尋ねる。

「君は?」

 いつもの癖でウーヴェ・シェーファーと名乗ろうとしてやめた。死んだエクソシストが生き返ったと広まったら、全てを灰にしてきたことが無駄になる。

「――ハイダ」

 とっさに口をついて出たのは耳に馴染んだ被験体としての名前だった。

「ハイダ・シェーファーだ」

 まあ、苗字くらいは引き継いでもいいだろう。ウーヴェは泣き腫らした顔で微笑んだ。

「ハイダ、君はなぜここに?」
「詳しい話をするからあんたの上司のところに連れて行ってくれ」

 ファインダーは訳ありと悟ったかそれ以上は訊かなかった。ウーヴェは銃をくくりつける紐を結び直すと、ハイダとしての新しい人生を踏み出した。