「え、そっちに行くの?」
善逸の間の抜けた声が、青空にぽかんと浮かんだ。十三は立ち止まって振り返った。善逸がおいていかれた子供のような顔をしていた。
周囲に田園が広がる十字路の岐路だった。十三と善逸はそれぞれ別な方向に足を向けている。焦った様子で善逸は言った。
「そっちの道は違うんじゃないか? 絶対間違えてるって!」
「でもクロキチはこっちだって」
十三の肩に乗っている鎹鴉が、同意するようにカアと一声鳴いた。クロキチというのは十三がつけた名前だ。鴉にその名前に不服はないようで呼べば返事をするのだが、実は雌である。鳥の雌雄の見分け方を知らない十三は完全に雄だと勘違いしていた。
「もしかしてここが別れ道なんじゃねェか?」
二人の帰る先は違うため当然どこかで別れなければならない。
「いやいや、俺はこっちだと思うな」
「なんで善逸が俺のお師匠がどこにいるか知っているんだ」
聞き分けのない子供のように言い張る善逸を、十三の言葉が竹でも割るかのような迷いのなさで一刀両断した。キィイイイ、と高い悲鳴を上げた善逸に、十三が驚いて飛びのこうとしたが、それよりも早く善逸の手は十三の羽織の裾をつかんだ。逃がすものかというように強く握りしめている。
「わかっているよ! あァそうだ、こっちは俺の方向だよ。十三と別れたら俺一人になって、そんな状態で任務に行ってみろ! 死ぬ! 殺される!」
善逸がこうなったら励ましは逆効果だ。善逸の鎹雀が困ったように主の周りを飛んでいる。十三はしゃがむと、泣きわめく善逸の肩に優しく手を置いた。
「あーうん、なんなら俺と一緒にお師匠のとこに来るか? ただなァ……怖いぞ。鬼よりもおっかないんだ。あの山にいたどの鬼よりもお師匠の方が強いし怖かったなァ。お師匠が善逸を見たら、根性叩き直してやる! ってすぐに特訓が始まんじゃないか?」
修行がどんなに辛く厳しかったか誇張混じりに話すと、善逸の顔が青ざめていった。
「それでも一緒に来るか?」
「うえ……そんな鬼より怖い化け物みたいな人がいるなんて……」
「ありゃ、脅しすぎたか」
「俺をからかったの!?」
「あははっ! ごめんって! まァそれはそれとして、善逸も俺も真っ直ぐお師匠の所に帰って隊に入ったって教えねェとな。だからひとまずここでお別れだ」
「……うん。ジジイ、心配してるだろうな」
こくりとうなずいた善逸は、素直に十三の色あせた赤い羽織から手を離した。大きなため息をついて、重い足取りで歩き出す。数歩進んで、本当に一緒に来てくれないのか、と懇願するように振り返った。
十三は満面の笑顔で大きく手を振った。
「達者でなー!」
「この薄情者ー!」
「また会おうなー!」
「これが今生の別れになってもいいのかーッ!」
善逸の泣き言を聞きながら、十三は師匠の元に帰るために歩き出した。鬼殺隊に入れたことを胸を張って報告するのだ。
***
東京府浅草、夜の闇はガス灯の明かりで追い払われている。活気あふれる往来は和装と洋装の人が入り混じり、目にも鮮やかだ。
「こんなに人っているんだなァ。口ん中がいろんな味がして賑やかだ」
辺りを見渡す十三は初めての都会に興味津々だ。目や耳で受け取った刺激が、舌の上で甘味や苦味、様々な味になる。
十三の服装は鬼殺隊のものになっていた。黒の詰襟の隊服を着て、日に焼けた赤い羽織と同じ色のリボンで髪を結い、腰には一振りの刀と肩には鴉。田舎なら目立つ十三のいでたちも、ここでは特別目を引くものではないらしい。
「お嬢ちゃん! そう、そこの烏を乗っけたお嬢ちゃんだよ! 旅芸人かい? どうだい、うちの店で休んでいかないかい」
菓子屋の主人に呼び止められた。
「芸人じゃねェよ。鬼を狩りに来たんだ」
「ほおう、桃太郎でも演じるのかい。それならお供は烏じゃなくて雉だろうさ。ほら、うちの団子でも買っていきな。犬や猿を仲間にするのに必要だろう」
「モモタロウってなんだ?」
十三は首を傾げた。店の主人から感じる味がわからない。周囲に人が多すぎて、舌の上で複雑に重なりあった味のうち、どれが主人のものか。
「なんだい、知らんのかい。……おや、どうした?」
不意に十三が夜空を見上げた。遠くの音に耳をすませるように。にこやかだった表情が凛々しく引き締まる。
かすかだが、団子よりもずっと甘い蜜の味がする。鬼だ。近くにいる。
「すまねェ、モモタロウの話はまた今度聞かせてくれ」
十三が動き出すと同時に、クロキチが肩から飛び立った。十三の緊張を感じとって、戦闘の邪魔にならないようどいたのだ。
人混みを縫うように足早に、誰にもぶつからずに進んでいく。人の足の間を通り抜ける猫のようにしなやかだ。修行場は竹林だった。密集する竹が刀を振り回すのを邪魔する場所で、十三は機敏さを身につけた。
蜜の味が濃くなるにつれ、心臓が早鐘のように打つ。こんなに濃い味は初めてだ。蜜酒のように芳醇で、頭がクラクラする。
あれだ、あれだ。白い帽子と洋装の、あの男。背中ががら空きだ。斬れる。やれる。
息を吸う。刀を抜く。腰をひねって振りかぶる。
竹の呼吸弐ノ、虎爪疾風。
「ッがは……!」
苦悶の声を上げて倒れたのは十三だった。がら空きになった脇腹に鋭い正拳突きをくらったのだ。目の前の鬼に気を取られて周囲の警戒を怠っていたせいだった。
素早く起き上がろうとした十三の上に、のしかかってくるものがあった。
「何やってんだ!? 憲兵を呼べ! 暴漢だ!」
袴を着た書生の青年だった。運動とは無縁そうなひょろりとした体から、いくら十三が油断していたとはいえ、どうやって人を突き飛ばす力が出たのか。人間離れした鬼の力。蜜酒のような洋装の鬼の味に隠れていたが、ここまで密着すると書生からする鬼の味が感じられた。
鬼の腕が首にかかる。絞め殺す気だ。
「うぐ、……!」
十三は死に物狂いで首と腕の間に指を抉じ入れ、かろうじて気道を確保する。息がうまくできなくて、呼吸が使えない。
「十三!」
炭治郎の声が、俯いて地面と鼻をつき合わせている十三の耳に届いた。助かった、炭治郎がいる。十三がほっとしたのもつかの間、
「キャアアアッ」
恐怖に染まった女の悲鳴が上がった。何があった? わかるのは、炭治郎はそちらに行って、十三に助太刀する余裕がないということだ。
「奥さん! こちらよりも自分のことを! 傷口に布をあてて強く押さえてください!」
獣が暴れてうめくような声が聞こえる。炭治郎があの鬼と戦っている? いや違う。蜜酒の味が薄まっていく。鬼が逃げた。別な鬼がまだいたのだろう。
けたたましい鴉の鳴き声が、十三すぐ上でした。
「うわっ!? なんだこの鴉! やめろ!」
首を絞める鬼の力が弱まった。その隙を逃さず十三は深く息を吸った。指先に力をこめる。鬼の腕をえぐるほど強く。
「ギャアッ!」
鬼が首から腕をはなした。十三は無我夢中で鬼の体を押し、足で蹴り、なんとか抜け出した。地面に落ちていた日輪刀をつかみとる。
嘴と鉤爪で鬼に向かって強襲を仕掛けていたクロキチが、さっと上空に身を翻した。
「死ねえぇッ!」
十三が鬼へ切りかかった。書生の白いシャツが切れる。薄く血が滲む。踏み込みが浅かった。
「ひぃいい! やめてくれ!」
哀れな悲鳴を上げて尻餅をつく鬼と十三の間に、憲兵が割り込んだ。
「貴様、何をしている」
「大丈夫か、こっちへ来るんだ」
チッ、と十三は舌打ちをした。鬼を知らぬ者にしてみれば、書生を守り十三を非難するのが道理だ。
白刃を持つ十三を警戒して、憲兵たちはすぐには飛びかかってこない。十三も人を傷つけたくないから、どうすればいいか考えあぐねていた。
炭治郎の方に視線を流せば、炭治郎は守るように男の上に覆い被さっていた。正気を失った面で獣じみたうめき声を上げるその男は、間違いなく鬼だった。
「炭治郎、そいつは鬼だ! 斬れ!」
「だめだ!」
炭治郎の返事は意外なものだった。近寄って来た憲兵に向かって、炭治郎はさらにこう言った。
「拘束具を持ってきてください、頼みます! やめてください! 俺以外はこの人を押さえられない」
「馬鹿野郎ッ! そいつは鬼だぞ、斬れ! とどめを刺せ!」
憲兵が炭治郎の肩に手を伸ばし、引き剥がそうとする。
「やめてくれ! この人に誰も殺させたくないんだ!」
「だったら斬れ! 炭治郎! そいつが誰かを殺す前に!」
「邪魔をしないでくれ、お願いだから!」
その叫びにこたえるかのように、花の紋様が炭治郎の姿を覆い隠した。空中に突如として垂れ布が現れたかのような、不思議な光景だった。
「なんだ……?」
新手の鬼の仕業だろうか。鬼の中には血鬼術という異能を使うものがいる。十三はいつどこから鬼の一撃がきても避けられるように、全身の感覚を研ぎ澄ました。
だが、何の攻撃もないまま紋様は消えた。まるで幻。起きながらにして見る夢のようだった。
「……炭治郎?」
十三は呆然と名前を呼んだ。炭治郎と鬼の姿はどこにもなかった。