炭治郎が消えた。花の紋様が姿を隠し、白昼夢のような光景が終わると共に炭治郎までいなくなった。炭治郎が押さえつけていた鬼もいない。
花の幻からは鬼の味がした。ということは、だ。
「炭治郎が鬼に攫われた……! た、大変だ。助けに行かねえと」
慌てて十三は辺りを見渡した。人垣が邪魔だ。
「いない、いない……どこにいるんだ……あいたっ?」
バシッ、とツッコミを入れるような加減でクロキチの羽が十三の頭をはたいた。クロキチが肩にとまる。いつも羽を当てないようにうまくとまるから、今のはワザとだ。
「何すんだよ。ってそうか」
憲兵が徐々に十三との距離を詰めてきている。鬼殺隊の存在は政府が認めるものではなく、十三だって自分が鬼に襲われるまでは鬼なんてジイさんが囲炉裏で語る話の中のものだとしか思っていなかった。十三が斬りかかろうとした相手は人食い鬼だと言ったところで誰が信じるのだろう。
「捕まったらますいよなァ……」
憲兵の後ろに隠れている書生風の鬼のことは気になるが、憲兵をかいくぐって仕留めるのは現実的ではない。
「ダカラ早ク行ケ」
「烏がしゃべった!?」
騒然とした隙をついて十三は駆け出した。刀を持った子供を取り押さえようという野次馬はおらず、割れた人垣の中を悠々と走り抜けた。
路地に入ったり大通りの人混みに紛れたり、無事に憲兵を撒いた頃には全然知らない場所にいた。実は騒ぎのあった場所の近くまで戻ってきていたのだが、方向音痴の十三にはわかるはずもなかった。人気の少ない通りで、手押し車の屋台が出ている。出汁の旨そうな臭いにつられて、十三は屋台の前の椅子に腰かけた。
「山かけうどん頼むよ」
「あいよ」
禿頭の主人が手際よく麺を茹で始める。
「クロキチ、炭治郎を探してきてくれないか。炭治郎の鎹鴉だけでも見つかれば手がかりがわかるかもしれねェ」
クロキチは暗い夜空に飛び立った。天気がいいのに空に星が少ないのが不思議だ。街はこんなに明るいのだから星だっていつもより綺麗に見えそうなのに、と十三は思った。ガス灯の明かりで星が霞んでいることに気づいていなかった。
うどんが出来上がった。音を立てて麺をすする。食べながら十三は店主に尋ねた。
「なあ、竈門炭治郎って知らねえか? 髪と目が赤っぽくて、額に大きな痣のある奴なんだけど」
「ああ、そいつなら俺のうどんを食っていったよ」
「嘘!?」
食べていたうどんが変なところに入りそうになり、十三はむせこんだ。
「嘘なもんか。いい食べっぷりだったぜ。一緒のいた女の子の方は食わなかったけどな。竹なんかくわえて、まったくヤになるぜ。俺の自慢のうどんだってのに」
「そりゃいつの話だ?」
「あんたと入れ違いくらいだよ」
もしかしたら炭治郎はひとりで鬼を倒したのかもしれない。でなければ、うどんを食べる余裕はないだろう。
「どこに行ったかわかるか?」
「あっち。青っひょろい男の子とどっか行ったよ」
「その女の子や男の子って炭治郎や俺が着てるみたいな黒い洋服を着てたか?」
「いや、女の子は桃色の着物だし、男の子の方はどうだったかな、確か白い服だったと思うぜ。なんかあったのか?」
「ちょっとはぐれたんだ。ありがとう」
十三は急いで麺をすすって汁を飲み干した。せっかく会ったのだから話しくらいしたい。
「ご馳走様、うまかったよ」
店主が指差した暗い道の方へ、十三は歩き出した。
それからどれくらい進んだ頃だろうか、身が震えるほどの寒さを感じたのは。吐いた息が白く煙る。ガチガチ、と歯の根が震える。むき出しの顔や手が痛みを覚えるほど凍てついてきた。鼻の奥に違和感があるのは鼻毛が凍ったからか。かじかむ舌で鬼の甘い味を感じとった。
筋肉が冷えて固まる。体温を維持するために体力を奪われる。刀を握る余裕もなく、自身の両肩を抱いた。まず体を温めなければ凍死してしまう。
「鬼殺の者も動けなくなれば猫を殺すのと同じだ」
薄闇の向こうから書生の鬼が現れた。口から長い牙が覗き、相貌は般若面のような人外のものに成り果ててあた。肌には氷が鱗のように張りつき、氷で出来た爪は短刀のように長かった。鬼の周りではキラキラと凍りついた空気中の水分が舞っていた。
「歯の根が震えてしゃべれもしないか」
十三は深く息を吸って呼吸を整える。肺の中まで凍てつきそうだ。
鬼が歯茎をむき出しにして笑う。
「鬼殺の者を殺せばあのお方も褒めてくださるだろうか。褒美に血をくださるだろうか。あァ楽しみだ。お前を殺して、俺は十二鬼月になるのだ!」
鬼が地を蹴った。氷の爪が迫り来る。ゆらりと十三は上体を横に傾けて避けた。
「チィッ!」
鬼が舌打ちし再度襲いかかってきた。十三上体を反らしながら半歩後ろに下がる、体を右へ左へ傾ける、斜め後ろに一歩下がる。最小の動きで避け続ける十三の様子は、まるでゆらゆらと風に揺れる竹のようだ。
修行の日々を思い出す。雪山での修行はまず体を温める呼吸の習得から始まった。銀世界の中でも青さを失わない竹の生命力、雪の重みに折れない竹のしなやかな強さ――それが竹の呼吸の真髄だ。
呼吸を整える。熱い血を全身にめぐらせる。紫色の唇に血色が戻り、肩を抱いていた手が刀の柄を握った。
竹の呼吸弐ノ型、虎爪疾風!
「ウグゥッ……!」
首の氷の鱗が日輪刀を阻む。十三は返す刀で斬りつけた。足に力をこめる。
「はあッ!」
続けて繰り出すのは、竹の呼吸参ノ型、雀躍風切羽。鬼の周囲を機敏に動きながら素早く連撃を加えていく。斬撃の威力は弱いが手数の多さが特徴だ。無数の切り込みが氷の鱗に刻まれていく。噴き出す血の代わりに氷の屑が散らばった。
「この野郎!」
鬼の反撃。上体を反らして避ける。体が戻る勢いを利用して斬りつける。
「いい加減ッ……砕け散れ!」
ピシッ、と微かな音がするやいなや氷の鱗全体にヒビが広がった。積み重ねた斬撃がついに硬い氷に打ち勝ったのだ。
むき出しになった頸を日輪刀が斬り落とす。地に転がる鬼の表情から険がとれ、か細い声が震えながら口からこぼれた。
「……寒い、寒いよぅ……」
凍える人の不安そうな声だった。だが十三は鬼の今際の言葉に関心を払わなかった。
鬼の体が消えゆくにつれて周囲の温度が上がり、氷は溶けて水たまりができた。十三は刀を鞘に納めると、クシュン、とくしゃみをした。手や頬は林檎のように赤く、しもやけで痛痒い。
カア、と聞き慣れた鴉の声がした。
「鬼ガ出タ! 向エ、向エ、姿クラマス館ヘ! 目クラマシノ結界ガ解ケテイルウチニ!」
「ええ、また鬼ィ!?」
「向エ、向エ!」
クロキチが十三の頭上を旋回して急き立てる。
「今さっき倒したばっかりなんだけどなァ。仕方ないか。案内してくれ」
夜空で見失わないよう目を凝らしながら、十三はクロキチの後について行った。そして着いた先には、半壊した建物と地に倒れる炭治郎がいた。