涙の後の決意

 スーマンがいなくなってから何もやる気が起きない。ルシルはもともと好きでエクソシストになったわけではないし、無骨なイノセントを身につけて戦うよりもおしゃれの方がしたい。嫌な任務でも、スーマンに会えることが、戦場を飛び回る活力になっていたのだと改めて気づかされた。

「ルシルちゃん、起きてる?」

 軽快なノックと共にコムイの声がした。
 嫌な予感でルシルの体がこわばった。忙しい室長がわざわざ来るなんて、また任務に行けと言われるに違いない。
 ベッドから降りると、ぐしゃぐしゃになっていたシーツも一緒に落ちた。最後に清掃がいつだったか。ひとりにしてほしいとルシルから頼んだし、いつまでも裏切り者のことを引きずってるルシルのことを疎ましく思う団員がほとんどで、わざわざ気にかけてくれる人は本当に少数なのだ。

「……はい。起きてます」

 小さく開けたドアの隙間から、ルシルはコムイを伺った。警戒心を丸出しにしたルシルの態度に、コムイは困ったように微笑んだ。

「安心して。今日は任務の話じゃないよ。アレン君のことは知ってる?」
「会ったことはないですけど」

 話が見えないからルシルはまだ警戒を解かない。

「彼がスーマンの最期を看取ったんた」
「え?」

 ルシルの手がノブから滑り落ちた。ドアがゆっくりと開いていく。棒立ちのルシルとコムイの目があった。嘘じゃない。コムイは冗談やふざけはしても嘘は言わない人だ。エクソシストの心を慮ってくれる数少ない人だった。
 居ても立っても居られなくなってルシルは、コムイを押しのけて部屋から出た。急に薄暗い所から明るい廊下へ出たせいで目がくらむ。駆け出そうとした体を後ろに引っ張られた。コムイが腕をつかんでいた。
 ルシルは驚いて振り返った。非戦闘員にあっさり捕まるなんて、機敏さが自慢のルシルにしてみたら、いくらなんでも体が鈍りすぎだった。

「待って、落ち着いて。アレン君は怪我してるからね、そんな勢いで行っちゃダメだよ。ほら、それに着替えないと。そうだろう?」

 言われてから、ルシルは自分がパジャマのままだったのに気づいた。ジェリーが髪をとかしてくれたのを最後に、何日か過ぎたのだから髪はまたぐしゃぐしゃになっている。ルシルの頬が羞恥で薄桃色に染まった。

「お風呂に入って来なさい」

 ぽん、と温かな感触が頭に触れた。コムイが優しく頭を撫でた。エクソシストを死地に向かわせる室長ではなく、一人の人間としての行為に、胸が締めつけられるような寂しさをルシルは感じた。こんな優しい人がいてくれるリナリーが羨ましい。

「はい、室長」

 背筋を伸ばし、今できる精一杯の凛々しさでルシルは返した。忙しいのに、少しでもリナリーの側にいたいだろうに、わざわざ来てくれた優しさにこたえたくて。
 大浴場は昼間だからか誰もいなかった。体を洗い、熱い湯につかる。風呂から上がった頃には幽霊から人に戻る気分だった。鏡に映った目は泣き腫らしたせいでまだ赤かったが、まあいいだろう。
 髪を結う。スーマンからもらった髪飾りをつけた。スミレ色の飾りがついた物で、次に会う時につけようと思ってた。どんな服と合わせようか、手持ちから組み合わせを何パターンも考えていた。雨の日なら晴れの日なら、夏なら薄手のブラウスで冬ならニットのセーターを。
 今日は黒のブラウスとスカートを選んだ。喪に服すためだった。まったく考えてなかったコーディネートである。スーマンが華やかな色が似合うと言ってくれたから、黒色の服はクローゼットの奥から見つけたこれだけだった。団服に袖を通すにはまだ心が苦しい。
 イノセンスはつけたくなかったが、持ち歩かないことで神の使徒としての意識が足りないとかなんとか――好きでなったわけじゃないルシルにしてみれば逃げ出さないだけ褒めてほしいところだ――いちゃもんをつけられるのは面倒だ。ブレスレット型のイノセントをスカートのポケットに入れると、不自然に膨らんだシルエットになった。これは可愛くない。嫌だが、結局イノセンスを身につけることにした。幅広の黒いブレスレットは、少女の手には無骨で、まるで手枷のようだった。

 病室に入ると消毒液の匂いをかき消す美味しそうな匂いに迎えられて、ルシルは呆気にとられた。面会の要望はスムーズに通った。コムイが事前に言っていてくれたのだろう。

「君は……?」

 白髪の少年が尋ねた。口の端に茶色いタレがつき、団子のついた串をくわえている。右手にトマトソースのパスタを巻いたフォークを、左手にローストビーフを刺したナイフを握っている。彼の周りには所狭しと料理が並べられ、豚の丸焼きが中でも目を引いた。

「……寄生型なんだね」

 ルシルは誰に言うでもなく小さく呟いた。寄生型のイノセントに適合したスーマンもよくお腹を空かせていた。それでもここまでの暴食はしなかったけれど。
 アレンは頭や入院着から覗く肌に包帯を巻いていた。彼が戦っている間、閉じこもっていた自分が申し訳ない。

「ルシル・ヒース……エクソシストよ。ねえ、アレンに聞きたいことがあって来たの」

 ルシルはベッドの脇にあった丸椅子に腰かけた。アレンの色の薄い目を真っ直ぐに見つめる。

「スーマンを看取ったのはアレンだって、室長から聞いたの。どうか教えて、何があったか、全部」

 いつだって直球に、戦闘でも恋でも。まどろっこしいのは性分に合わない。最後まで聞く。それがルシルがスーマンにしてあげる唯一のことだから。

「ルシルはスーマンと親しかったんですね……」
「あたし、スーマンが好きなの」
「え?」

 アレンの表情に戸惑が浮かんだ。スーマンに家族がいるのを知っているのかもしれない。

「スーマンに奥さんと子供がいることは知っている。でも好きなの、どうしようもなく。結婚だってしたかったくらい。……大丈夫、スーマンは家族が一番だって知っている。私は一番になれなくていい。いいの……。だから本当のことを教えて、包み隠さず。スーマンが最期に家族のことを思ったっていいの。私は平気だから」

 確かにスーマンは思ってくれたのだ。敵にルシルの場所を教えなかった。その事実だけで十分だ。

「わかりました」

 アレンが話し始めた。ルシルは歯を食いしばって全て聞いた。

「本当にすみま――」

 謝りかけたアレンをさえぎるために、ルシルは両手でアレンの手を握った。アレンが必死にスーマンに伸ばした手を。

「ありがとう、アレン。スーマンを助けようとしてくれて。ありがとう」

 涙があふれた。これまでは悲しみの涙だったが、今は感謝の気持ちでいっぱいだった。
教団を歩けばスーマンを裏切り者だと言う声が耳に入った。それから逃げて部屋に閉じこもった。
 でも、ここにスーマンを命が助けようとした人がいた。裏切り者だと断罪せずに。それが何より嬉しい。
 感謝しているのだ。だから謝ないでほしい、と嗚咽のせいでうまく言えなかったが、アレンには伝わったようだ。

「僕の方こそありがとうございます、そんなふうに言ってもらえて」

 ルシルは頭を横に振って涙を振り払うと、確認を口にした。

「ねえ、ノアがスーマンを殺したのね」

 冷たい殺意が胸にわいた。そいつがいなければスーマンは命乞いをしなくてすんだ。死ななくてすんだ。
 ルシルは戦闘前のように自然と息を整えていた。手首のイノセンスを触った。硬く冷たい感触が今は頼もしい。

「それがスーマンの仇なのね」

 涙を流すのは終わりにしよう。これからは血を流そうではないか。
 ルシルは膝に力を入れて立ち上がった。