振り向かない、愛情

 初めてアグネスタキオンさんの走りを見たのは小学生最後の運動会の日だった。

『最後の競技はウマ娘の児童による徒競走です』

 スピーカーから先生のアナウンスが聞こえると、私の後ろに座っていたウマ娘が立ち上がった。他の子は小走りなのに、焦らずゆっくりと歩いている。先生が「早く!」と呼んでも知らん顔だ。
 隣に座っている友達がこっちに体を傾け、耳元で囁く。

「アグネスタキオンさん走るんだ。先生さっき、お前なんか走らせないってキレてなかった?」
「さすがに親が見てるのに無理なんでしょ」

 先生の「やる気がないなら家に帰れ!」は本当に帰ってはいけないし、この「走らせない」だって同じだ。
 アグネスタキオンさんは夏休みの終わりに転校してきた。前の学校で問題を起こして追い出されたらしいけど、全然学校に来ないから何をしたのか本人に訊けずにいる。今日は昼過ぎにふらりと現れてみんなを驚かせ、「行進や選手宣誓に付き合うほど暇じゃない」と言って先生から怒られていた。
 前にいる子も他の子もアグネスタキオンさんが気になってざわついていた。

「出たレースは全部勝ってるらしいよ」
「ええー嘘だ」
「前の学校で薬盛って退学になったんでしょ?」
「教室を爆発させたからって聞いたよ」

 真偽不明の情報が波みたいに広がって、とうとう先生に「静かにしろ!」と怒鳴られてしまった。
 正直、応援はだるいし紅組が勝っても負けてもどっちでもよかったけど、この競技だけは見てもいいかなって気になった。
 全校生徒のうちウマ娘は三人――二年生五年生、そして六年生のアグネスタキオンさん。人間と身体能力が全然違うから、学年混合でウマ娘専用の競技を作っている。低学年の子にはスタート地点をずらしてハンデをあげている。
 夏の暑さが残る秋の青空に、勝負の始まりを告げるピストルの音が響いた。
 アグネスタキオンさんは最後尾を走っている。体操着は真っ白な新品で、もう卒業する年(しかも全然使わない)なのにわざわざうちの学校の物を買ったらしい。

「なんだ、たいしたことないじゃん」

 隣の子の言葉に、私は「そうだね」と頷いた。でも、数秒後にそれは間違いだとわかった。
 ゴール前の直線、アグネスタキオンさんが速度を上げた。グラウンドを抉り、土を蹴り上げる。前にいた二人を追い抜いてもまだまだ速くなる。ゴールの向こうの遥か先に目指すものがあるかのように駆けていく。
 圧倒的だった……!
 応援団や保護者の声援も、汗ばむ暑さも、何も意識に入らない。ただ、風を切り裂くように走るアグネスタキオンさんの綺麗なフォームに目を奪われた。

「……っいけ」

 気づけば小さな声援が口からこぼれた。スポーツなんて観るのはつまらないと思っていたのに、今はワクワクしている。
 アグネスタキオンさんはそのまま一位をとった。

「やった!」

 私は拳を握り締め、なぜかどこか物足りなくて首を傾げた。足がむずむずして落ち着かない。
 ああ、そっか、私も走りたいんだ。あの子と走れたらなんて、馬鹿なことなのに。人はウマ娘のように走れない、それでも――。

「やっば……すごかったね。亜弓? ……亜弓、聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」

 肩を揺すられて、ようやく話しかけられていたと気づいた。土混じりのざらついた風が目に当たって痛い。
 アグネスタキオンさんは当然といった様子だった。拍手をもらってもちっとも喜んでいない。私ならすごい喜ぶのに、何が不満なんだろう? 一度も話したことがないクラスメイトが何を考えているのかさっぱりだ。
 赤組の列に戻ったアグネスタキオンさんは「おめでとう」や「速かったね」という言葉に、口元に微笑を浮かべてお礼を返していた。意外と人当たりは悪くないのかもしれない。

「私の出番は終わったからもう帰らせてもらうよ。後で先生に私が帰ったことを伝えておいてくれないかい? 自分で伝えると面倒なことになるし、捜索されるような大事にはしたくないからね」

……協調性はやっぱりないみたいだけど。うちは学級崩壊とは無縁の平和なクラスだから、自由な振る舞いにみんな呆気にとられていた。
 さっさとアグネスタキオンさんは行ってしまった。閉会式の前で先生が「今のうちにトイレに行けよ」と呼びかけているから、グラウンドを出ても見咎められない。ウマ娘が本気で走った後は地面が凸凹になるので毎年最後の種目になるのだ。

「トイレに行ってくる」

 私の足はまだむずむずしていて、じっとなんかできなかった。背中を押すように風が吹く。乾いた土と白線の粉が混じった独特の臭い。校舎の横を通り過ぎてアスファルトの駐車場へ行っても、臭いはまだ鼻の奥に残っていた。

「アグネスタキオンさん!」
「ないだい、連れ戻しに来たのかい? 説得なんて無駄なことはお勧めしないよ」

 アグネスタキオンさんはちらっと振り返っただけで、すぐにまた歩き始めた。
 私は駆け出した。こんな走りでは全然物足りない。アグネスタキオンさんはもっともっと速かった。私だって速いし、今日も選抜リレーの選手として走って最後尾からごぼう抜きした。でもそれだけ。今より速くなりたいなんて思わなかった。一位になっても満足できないなんて、そんな気持ちは知らなかったのに。

「私と競争して! 私と走ってほしいの!」

 アグネスタキオンさんの耳がピクリと動いた。立ち止まって、目を細めジロジロと私を見る。

「私が君と? なぜ?」
「勝負したいの」
「私の走りを見ていなかったのかい? 勝負になると思う?」
「見た。見たから私、走りたくなったんだ。君みたいに走って、競争して、君に勝ちたい」
「アッハッハッハッ! 本気で言っているのかい!」

 恥ずかしくて顔が熱くなった。自分でも、車より速く走れると言うような幼稚園を卒園すると同時に捨てるべき夢だとわかっている。笑い声に馬鹿にした響きがないことだけが救いだった。

「面白い話だけど、私は研究で忙しいんだ。君がどれだけ速いか知らないがね、そういうことならレース場に行ってくれ。ウマ娘と走るイベントをやっている日があるから。ファンサービスの一環だ」

 アグネスタキオンさんが校門を通り抜ける。私は突っ立って見送った。もしも私がウマ娘だったら、と絶対に叶わない夢が頭に浮かび、急いで振り払う。人間の体でどれだけ速く走れるか、やってやろうじゃないか。

 

***

 その挑戦は友達の誘いを蹴ってまでやることなのか、と冷静になると気持ちが揺らぐのだけど、今やらなければ後悔するという予感に支えられて毎日走った。六月にあった小学生陸上大会の学校代表選手に選ばれた時――もう少しでメダルに届きそうだった――にやった練習を思い出し、先生に頼んで倉庫から出してもらってラダーやミニハードルだって使った。
 運動会から一ヶ月経っても続いているのだから三日坊主の私にしては珍しい。今日は少年サッカークラブがグラウンドの中央を使うから、邪魔にならない端っこが私の活動場所だった。
 息を切らせて膝に手をつきひと休みしていると、俯いた視界に長く伸びた影が入ってきた。人とは違う、頭から縦に突き出た耳のシルエット。茜色の夕焼けを背負ってアグネスタキオンさんが立っていた。

「やあ、ウマ娘とは走れたかい?」
「昼間いなかったのに」
「紅白饅頭をもらいに来ただけだからね。創立記念日だっけ? 休みじゃないんだね」
「記念日は明日で休み、今日は式典。ウマ娘とは走れたけど……本気で走ってくれなかったよ。危ないからって」
「まあ、もしぶつかりでもしたら車と事故るようなものだからね」

 レース場のイベントではアグネスタキオンさんの走りを見た時のようにワクワクはしなかった。
 風が吹いて砂埃が舞い上がる。動くと暑いから半袖だけど、じっとしていると寒い。日に日に気温が下がってきて秋の終わりが近づいていた。

「……本当はもっと速くなってから、せめて自己ベスト更新してから言うつもりだったんだけど」

 たぶん今しかない。卒業したらアグネスタキオンさんに会えなくなる。学区外に住んでいるらしいから、きっと違う中学にいくのだろう。

「アグネスタキオンさん、やっぱり私と走ってほしい。今より速くなるから。お願い」
「いいよ」

 あっさりと承諾されるとは思わず、一瞬聞き間違いかと疑った。

「え?」
「連日走るほど熱心なようだし」
「なんで知ってるの?」
「職員室の窓から見えてね。先生に聞いたら教えてくれたよ。ただし、条件がある」
「う、うん……! いいよ、なんでも言って!」
「なんでも? 確かにそう言ったね。言質はとったよ」

 脅すように言うから、私はゴクリと唾を飲みこんでうなずいた。まずいことを言ったのかもしれないけど、後悔はない。なんでもやってやる。

「私が君のコーチになろう。私が君を今より速くしてみせる。走るのはそれからだ」
「いいけど、なんで?」

 全然悪い話じゃなかったから、喜びより困惑の方が大きい。今走れば十分もかからないのに、何日もあるいは何ヶ月も付き合うつもりなんだろうか。

「だって面白いじゃないか、人間がウマ娘に勝とうなんて! どうせやるなら万全の君と走りたい。私にも追い求めているものがあるんだ――ウマ娘の可能性を、我々はどこまで速くなれるのか、最高速度のその先を!」

 クールな人だと思ってたけど違ったみたい。夕焼けと同じ色の瞳の奥で情熱が揺らめく。火で焼かれたように私の体温が上がる。そう、この感じ、運動会の時みたいにワクワクしている。

「それに私にも利益はある。人間のデータが得られるし、コーチをしてみるのもプランBの予行演習になる。研究にも当然付き合ってもらうよ」

 研究とかプランBとか詳しく訊きたいことはあったけど、アグネスタキオンさんがポケットから取り出した物を見て、何を言おうとしたか忘れた。

「早速だがこれを飲みたまえ」

 理科の実験で使う試験管に絵の具を溶かしたように真っ青な液体が入っていた。前の学校で薬を盛って退学になったらしいという噂が頭をよぎり、なんでもするという決意が揺らいだ。

「飲むの? これを? ヤバい色なんだけど」
「私特製の栄養ドリンクだ。まずは疲労回復しないとね。ほら、早く飲みたまえよ、コーチ命令なんだから。はーやーくー」

 機嫌を損ねてさっきの約束を取り消されたらたまらない。お腹壊すくらいなんだっていうんだ! 一気に飲み干すと、味は普通のスポーツドリンクに似ていた。

「あれ、意外と美味しい」
「それはよかった。後は紅白饅頭を食べるといい。筋肉の収縮に使うエネルギー源が何か知っているかい? グリコーゲンという糖で、当然運動すれば消費される。ちゃんと補給はしておくことだ」
「へえ、そうなんだ」
「これで私にちゃんと知識があることはわかったかな? 安心して言うことを聞くんだね」

 アグネスタキオンさんは自慢げに胸を張った。大人びた同級生の子供っぽい一面に、頬が緩む。
 急に、ぐらりと目の前が歪むような強い眠気に襲われた。瞼が重くて、頑張らないと勝手に閉じてしまいそう。

「練習は明後日から始めよう。明日は丸一日休むこと。絶対に運動するんじゃないよ、いいね。場所はそうだな……あの河原はどうだ――」

 かろうじて練習場所と時間を頭に刻む。眠気に負けて足から力が抜け、アグネスタキオンさんに受け止められた。遠ざかる意識の中で聞く。

「おっと、もう薬が効いてきたのか。量が多かったか、よほど疲れていたか――」

 

***

 翌々日の放課後、指定された河原に行くとアグネスタキオンさんは土手に座って本を読んでいた。

「あ、本当にいる」
「随分な言い草じゃないか。約束は守るよ」
「まだ信じられなくて。一昨日くれたのってさ、睡眠薬? 薬ならそうと言ってよ」

 眉間に皺を寄せて詰め寄ったけど、アグネスタキオンさんは澄ましてこたえる。

「栄養ドリンクだよ、副作用に眠気があるだけで。疲れの方はバッチリとれたんじゃないかい?」
「それはそうだけど」

 確かに足は軽く、効果は疑いようがない。でも、騙されたという気持ちは消えていなかった。

「良かった。せっかくの健康な体だ。自ら痛めつけて壊すのはもったいないよ」

 アグネスタキオンさんが心の底から安心したように笑うから、怒りはどこかに行ってしまった。

「騙して飲ませるのはよくないけど、あの後保健室まで運んでくれたんだよね。それはありがとう。……それと今日、私の調子が良いのは栄養ドリンクのお陰だけじゃないよ。アグネスタキオンさんと走れると思うと嬉しいんだ」
「ふぅン。そういうものかい」

 アグネスタキオンさんは顎に手を当て考え込む仕草をした。

「お世話じゃないよ」
「いや、疑ってるわけじゃないよ。ただ、感情が体に与える影響について実体験がないからピンとこないんだ」
「ライバルはいないの? こいつには絶対に負けたくないみたいな、それが力になるとかよく聞くけど」
「レースに必要かい?」
「いなくても問題ないけど……」

 もしも私がウマ娘だったらライバルに立候補できたのに。叶うことのない夢は何度も湧き上がり、その度に振り払わないといけなかった。

「さて、練習の前に目標レースの距離を決めようか。亜弓の好きにしていいよ」
「アグネスタキオンさんの得意な距離は?」
「中距離――1200mだね。トゥインクルシリーズでは短距離だが、小学生レースでは中距離扱いになる。人間にとっては長距離かな」
「じゃあそれで」
「ちなみに人間が全力で走れる限界は400mだそうだ」

 小学生陸上大会で走った距離は400m、その三倍だ。自分の足ならできると信じた。

「限界は超えてみせる」
「そうこなくっちゃ!」

 アグネスタキオンさんは満面の笑みを浮かべた。
 私が準備体操をしている間、アグネスタキオンさんも鞄からストップウォッチやノートを取り出して準備していた。アキレス腱を伸ばしなら訊く。

「ところでなんでここでやるの? 学校じゃダメ?」
「先生に見つかると授業に出ろとうるさいからね。はあ、小学校で習うことはもう頭に入っているのに。今日はこれを飲みたまえ」

 差し出された試験管は蛍光緑の液体で満たされていた。昔作ったスライムだってこんな鮮やかな色はしていなかったぞ。

「何入れたらこんな色になるの? また眠くならない?」
「成分は秘密だ。これから走るというのに眠くなるような効果はないよ。ほら、コーチの言うことは絶対だろ」
「ええー、どう見ても飲んでいい色してないよ」

 お腹を壊したら親になんて説明したらいいのだろう。この間の青い物より勇気がいる。本気でアグネスタキオンさんが応援してくれると信じて飲んだ。眠くは……なっていない。

「よし、効果はバッチリだ!」

 アグネスタキオンさんが不穏なことを言って満足そうにうなずいている。その視線の先をたどると、太腿が光っていた。

「え!? ちょっとなんで!? どういうこと!?」
「軽く走って体を温めてからタイム測るよ」
「待って説明して戻るのこれ!? 私の体大丈夫!? ねえ!?」

 

***

 絶叫と共に始まったトレーニングだったけど、日を重ねるごとに慣れてきて、暗くなるのが早い季節だし足元が照らされて便利だとすら思う。……通りすがりの人からジロジロ見られるのはまだ恥ずかしいけど。

「おめでとう、自己ベスト更新だ」
「本当!? よしっ!」

 タキオン(と呼んでいいと言われた)はコーチとしても優秀で、成果が出始めていた。

「ひょっとしてお金払った方がいいくらい高度なトレーニングをつけてくれてるのでは……?」
「お金には困ってないからいらないよ。君のデータを研究に使わせてくれるだけで十分さ。被験体を募ってもなかなか集まらないんだよね」

 タキオンはノートをめくり、「次は何を試そうか」と尻尾を揺らしてご機嫌だ。
 後ろから覗きこんで数値化された自分のデータを見た。前に少しでも理解したくてスポーツ科学の本を読んでみたけど難しくて投げ出した。あれがわかるというのだから、小学校の授業は簡単すぎてつまらないというのは嘘じゃないんだろう。

「コーチ業より実験がメインだよね」
「速くなっているから構わないだろう?」
「まあね」

 実は次はどんな実験をするのか楽しみだった。伝えたら調子に乗ってとんでもないことになりそうだから言わないけど。それに、実験そのものよりタキオンと一緒に何かをするのが好きなのだ。
 いつ一緒に走れるのかなと焦ったく思う時もあるけど、走ったらこの関係も終わりなわけで、まだその日は来ないでほしかった。

 

 冬休みも――私が正月におじいちゃんとおばあちゃんの家に泊まりに行った以外は――トレーニングに明け暮れた。学校が始まってからも変わらず、瞬く間に世間はバレンタインムードに染まっていた。

「良い知らせがある」

 挨拶を省略してタキオンはいきなり言った。耳がピンと立ち、正面から向かい合っていても尻尾が揺れているのがわかる。新しい薬ができたんだろうか。

「知らせって? あ、これあげる」

 ランドセルを土手に降ろし、手提げ袋から可愛いくラッピングした袋をとり出した。

「すっごく甘くしたし、片手で食べられる物にしたんだから」

 タキオンは不思議そうな顔で、早速プレゼントを開けた。中身はナッツ入りのチョコブラウニーだ。最初はカップケーキを作ろうと考えたけど、紙をはがすのが面倒臭いって言うに決まっている。

「おや、もしかして手作りかい。ありがたく頂こう」
「今日はバレンタインだからね。友チョコだよ」
「ああ、そんな行事あったね。じゃあ、私からはこの知らせをチョコの代わりに送ろう。来月私とレースしよう」
「え」

 驚いて固まっているうちに場所と日時を伝えられる。電車で行った先にある競技場だった。トィンクルシリーズが行われるレース場じゃないけれど、アマチュアの大会やイベント会場に使われる立派な施設だ。個人で借りられるなんて知らなかった。

「お金は気にしなくていいよ。私からのプレゼントなんだから」
「ありがとう! ……でも、平日の昼間ってことは」
「学校は休め。どうせ卒業式の練習しかしないだろ」
「そうだけど……うちの親、厳しいんだよ……」

 飛び上がるほど嬉しくて幸せな気持ちのままいたいのに、もしかしたらダメかもと考えるとちょっと泣きそうになった。サボりなんて許されないし、親にバレずに行動することはできるだろうか。

「ふむ、私が説得してみよう。私の親が付き添うと言えば大丈夫だろう」
「どうかな……」

 親は学校に来ないタキオンを不良だと思って、こうしてトレーニングしてること自体良い顔をしていない(当然、自作の薬を飲んでいるなんて言えない)。果たして大丈夫なんだろうか……。

 

――結果は大成功だった。

 数日後、手土産を持って家に来たタキオンは礼儀正しい振る舞いで見事に親の信頼をつかみとった。「亜弓さんは学校に馴染めない私にも優しくしてくれて……」と健気に語る様子は、先生を恐れず好き勝手やっている問題児の姿からほど遠い。タキオンのお母さんとお祖母さんが桜花賞とオークスを獲った立派なウマ娘という情報も大きく、さらに「小学校最後の思い出作り」が決め手になった。
 難題があっさり解決してほっとするやら、拍子抜けのような、私が言ってもダメなのにと拗ねる気持ちがないわけではなかった。

「詐欺師になれるよ」

 タキオンを見送りに駅まで歩きながら言う。夕方になっても陽が高く、春が近いことを嫌でも実感する。

「褒め言葉として受けとっておこう」
「トレセン学園に行くんだね」

 何気なく言ったつもりだったけど、不貞腐れた響きは隠しきれなかった。親に話すのをそばで聞くなんて形で知りたくなかった。

「亜弓には合格通知が来てから言うつもりだったんだ。筆記も大会の成績も十分だし、受かるとは思うんだが、唯一不登校による内申点の低さだけが気がかりでね」
「不安になるくらいなら来なよ」
「ただ椅子に座って無意味に時間を潰せと? 授業中に研究してていいなら行ってもいいよ」

 タキオンはくすりと笑った。

「亜弓の口から学校に来いだなんて初めて聞いたな」
「そうだっけ?」

 言われてみれば確かにそうかもしれない。教室で大人しく座っている姿は想像できないし、私にとっては楽しい行事もタキオンにとってはそうではないだろう。タキオンの居場所は私が通う学校ではなかったから、寂しさに蓋をする。

「トレセンの授業は楽しいといいね」

 

***

 レース当日、親が付き添うと言ったくせに、競技場で待っていたのはタキオンだけだった。そんなことだろうと思っていたので驚きはしない。紙袋に入った菓子折りを渡した。

「はい、これうちの親から」
「わざわざ悪いね」
「今日のお礼で親から電話いくと思うけど大丈夫?」
「薬で声変えて出るから構わないよ。心肺機能の測定に使う薬を作る過程でできた副産物だ」
「便利だなあ。うちの親が面倒をかけてごめんね」
「なに、気にすることはないよ。いい親御さんじゃないか」

 準備運動して軽く走り体を温めた。晴れ、良バ場。一番人気はアグネスタキオン、と頭の中でアナウンスを流してみる。大穴はこの私。期待と緊張で胸が高なった。寒さの残る春風に吹かれ、爽やかな芝の香りを吸いこんだ。

「ゲートは使えないけど我慢してくれ」
「十分最高の舞台だよ!」

 無人の観客席を背にして、タキオンは挑発するように微笑んだ。

「さあ、レースを始めようじゃないか」

 私はスターターアプリを起動させた。音量を最大にし、スマホを内フィールドに置いた。位置について構える。
 ピストルの音が響くと同時に走り出す。スタートは上出来。タキオンの前をとれたのは束の間のこと、追い越されてぐんぐんと突き放される。もう挽回はできない心折れそうな距離――だけどそれはタキオンが本気で走っている証拠だったから、嬉しくて胸が震える。
 私の目指すものはこんなにも速く! こんなにも遠い!
 足に力がみなぎる。腕を振り、酸素を肺に送りこみ、全速で走って、走って、走って。タキオンは一度も振り返ることなくゴールした。目に焼きついた彼女の幻影を追いかけた。
 ゴールのポールを通り過ぎ、芝の上に倒れた。息をするのも苦しい。これが全力を出すということなら、私はきっと今まで全力の出し方を知らなかったのだろう。

「アッハッハッハッハッ! なんだいこれは!」

 豪快なタキオンの笑い声に、なんとか首を動かす。タイムを計測していた機械のチェックを終えたらしかった。

「亜弓はともかく私まで自己ベスト更新してるなんて! 言っちゃ悪いけど全然遅くて勝負になってないレースだったのに! 実に興味深いよ!」

 楽しそうな声を黙って聞いていると、そのうちにタキオンが身をかがめて覗きこんできた。右耳についた飾りが陽に当たってキラキラ輝く。

「満足したかい?」
「……全然ッ! まだ足りない!」
「それはよかった」

 こんなにヘトヘトなのにまだ走りたい。あそこで芝に足をとられなければ、もっと体幹を鍛えないとって次のことを考えている。

「本気で走ってくれたね」
「そりゃそうさ、亜弓に無様な走りは見せられないからね」

 タキオンが手を差し出した。その手を握ると、汗ばんでいて熱かった。

「いつか本当のレースをして。絶対見に行くから――うわっ」

 片手で軽々と引っ張り上げられ、立たせられた。タキオンはまだ手を離そうとせず、私は戸惑って見つめた。茜色の目が、放課後のグラウンドで会った時のように燃えている。

「君も走り続けるんだろう? 共に速さの限界に挑戦する者同士、いつか互いの研究の成果を見せ合おうじゃないか」
「うん……! 絶対、絶対だよ!」

 あの日のように体温が上がる。私たちは固く手を握り合った。

 

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