蜘蛛の糸垂らせば

 最悪の気分でアレック・アンダーソンは目覚めた。寝床はガタガタ揺れているし、固くて狭い。おまけに頭痛がする。栗毛の頭をかきながら体を起こすと、上にかけられていたローブが落ちた。
 見覚えのない部屋だった。窓の外を景色が流れていくので汽車の中だとわかる。向かいの座席には3人の少年が座っていて、全員初めて見る顔だった。

「大丈夫か? 具合が悪いって、君のご両親から聞いている。起きたらこれを飲ませろと」

 金髪をオールバックにした少年が小瓶を差し出した。ガラスの容器は藻のような緑色の液体で満ちていた。

「……ああ、ありがとう」

 ぼうっとしたままアレックは受け取り、一気に飲み干した。苦い液体が喉を滑り落ち、空っぽの胃に染み渡る。

「うえ、不味っ」

 味はともかく効果は覿面だった。頭の痛みが消えて、鈍っていた思考が動き出す。

「……え、あれ、ここって」
「ホグワーツ特急だ。寝たまま家から連れて来られたんだ。驚いただろう?」

 目を白黒させるアレックに、金髪の少年は親切にこたえた。顎を上げて話す態度がなんとも偉そうだが、言葉の端に気遣う温かさがあった。
 アレックは自分の身に何が起きたか理解した。拳に苛立ちを乗せて壁を殴った。

「あのクソ親っ、やりやがったな! ホグワーツなんか行きたくないって言ったのに! 何が具合が悪いだ。紅茶に睡眠薬を入れたな?」

 それしか考えられなかった。朝に起きてから口に入れた物は紅茶だけだった。
 舌打ちをして、床に落ちていたローブを拾い上げた。新品のホグワーツ指定の物だ。パジャマから着替えた覚えはなかったが、眠らされている間に制服に着替えさせられたらしい。
 向かいの席の少年たちが目を丸くしてのけぞっていた。アレックは殴った手をひらひらと振った。

「ああ、悪い。急に怒鳴ったりして。君たちは何も悪くない、というか面倒を見てくれてありがとう。俺はアレック・アンダーソン。君たちは?」

 金髪の少年は気圧されたことを誤魔化すように咳払いし、つんと澄ました態度に戻った。

「こっちはビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイル。僕はドラコ・マルフォイだ」

 アレックはハシバミ色の目を瞬かせた。

「ドラコ・マルフォイ? あの純血の? 本当に? ドラコ・マルフォイだって?」
「僕を知っているのか。まあ、まともな魔法族なら当然だ」

 ドラコは満更でない様子で口元を緩めた。アレックは内心で、さて自分の先祖は何代前まで魔法使いなのだろうかと首を傾げていた。両親と祖父母は魔法使いであるが、それ以前の話を聞いた覚えはないし家系図なんて見たことがない。

「ホグワーツに行きたくないって言ったかい? よければわけを聞かせてくれないか?」
「寮生活なんてしたくないんだ」
「……それだけ? そんなことが理由で行きたくないって言っているのか?」

 ドラコが片眉を上げて非難を表明する。アレックは深いため息をついた。

「集団生活は苦手なんだよ。せめて一人部屋だったらよかったけど、ホグワーツってずっと相部屋だろ。1人の時間がほしい。自宅通学、いや通信教育がいい」
「君ね、ホグワーツはイギリス最高の魔法学校だってわかってるか? もっとも今の校長はふさわしい人物だとは思えないけれど」
「ああ、ダンブルドアね」

 ダンブルドアへの好感度の低さからアレックがそっけない返事をしたのだとドラコは判断したらしい。

「君とは話が合いそうだ。ホグワーツで困ったことがあれば僕を頼るといい」

 ドラコが手を差し出した。断るのも悪いので、アレックは握り返した。

「ありがとう。一緒の寮になった時は遠慮なく甘えさせてもらうよ」

 寮内引きこもりになった時とかに。あるいは手頃な隠し部屋を見つけて寮に一切帰らなくなった時とか。

「アレックは自分がどの寮に入るかわかってるのか?」
「さあ? 父はハッフルパフで母はレイブンクローだ。父方の祖父母はグリフィンドールで、母方はスリザリンとレイブンクロー。てんでばらばらだから家系からじゃ予想がつかないな」
「希望はないのか?」
「特には。……ああ、でもグリフィンドールはやだな。絶対ノリが合わない。あとリズム感がないからハッフルパフになったら詰む。樽を叩くってなんだあれ。うーん、そう考えるとスリザリンかレイブンクローか」
「レイブンクローに入れる頭を持ってるのかい?」
「百年にひとりの天才かもしれないだろ」
「スリザリンを勧めるよ。血筋も問題ないようだし、スリザリンなら周りに馴染めるよう僕が取り計らってあげてもいい」
「スリザリンも悪くないけど……」

 アレックが渋るのには理由があった。

「なあ、変な話をするけど聞いてくれるか? 俺さ、生まれる前のことを覚えてて、母親の腹ん中にいる記憶じゃなくて前世の記憶ってやつ。そこでハリー・ポッターが主役の本気を読んでいて、だからこの先の未来が少しはわかるんだ」
「……そういう予言の力か?」
「うーん、そうなるのかなあ?」

 ドラコは不審そうにしながらも聞く姿勢をみせている。クラッブとゴイルは感心していた。馬鹿馬鹿しいと一蹴されないのはここが魔法界だからだろう。もしアレックが前世で同じことを言えば、厨二病扱いされたに違いない。

「アレックは預言者なのか。水晶玉をのぞくやつだろ?」
「何言ってんだ。預言者ってお茶を飲むんだろ」
「お茶をたくさん飲めるのか。俺だったらお菓子をたくさん食べる方がいいな」
「いや、水晶玉占いも茶葉占いもしないけど」
「こいつらにかまうな。いくら言ったってわからないんだから」
「人のことを馬鹿扱いするのはよくないぞ」
「君もいずれ僕の言っていることがわかるようになるよ」

 アレックはこのままやりすごそうかと思ったが、『呪いの子』でドラコがハリーたちの友情が羨ましかったと吐露したことを思い出した。細部のことをほとんど忘れた本だったが、ドラコの心情は親友という関係を築くことがなかった自分と重なって印象に残っている。

「……俺に今わかることは、ドラコはもし俺が何かやらかしたり鈍臭いとわかった時は俺の事を今みたいに馬鹿にするんだろうなってことだ」
「当然のことを言って何が悪い!」

 青白いドラコの頬に赤みがさした。アレックは息を吸いこみ、慣れないことを言おうとして緊張する喉を叱咤して言葉を続けた。

「俺は自分や他人のことを馬鹿にする人とは一緒にいたくないよ。……ドラコとは友達になりたいと思っているけど今の態度のままなら難しい」
「なんだそれは……! せっかく僕が親切にしてあげたのに!」

 ドラコの顔は今や真っ赤になっていた。

「ここから出て行け! クラッブ、ゴイル、こいつをつまみ出せ!」

 クラッブもゴイルも友好的だったドラコが急に怒り出してどうしたらいいかわからないらしい。互いに顔を見合わせ、ドラコとアレックの顔を交互に伺い、なかなか立ち上がらない。
 アレックはドラコが再び怒鳴る前に立ち上がった。重いトランクを両手で持ち上げる。

「わかったよ。でも、気が向いたらいつでも友達になろう」
「お前なんか落ちこぼれのハッフルパフがお似合いだ」
「それって偏見だと思う」

 アレックはコンパートメントを出て行った。怒り狂ったドラコはクラッブとゴイルに残りの荷物を出すように怒鳴りつけている。魔法薬学で使う大鍋を持って来たクラッブが、戸惑いながら廊下に置いた。後ろではドラコが「投げ捨てろ!」と叫んでいで、彼の力ならきっと鍋の重さなんか関係なくできるだろうに。

「そいつを殴れ!」

 ゴイルが拳を作ろうと握っては、手に違和感があるかのように指を開いて握り直すのを繰り返した。

「すぐにどっか行くから戻っていいよ。――あ、そのバッチ、監督生ですね! すみませーん!」

 誰もいない方向に向かってアレックは叫んだ。クラッブとゴイルは意図がつかめないらしく立ちすくんでいたが、ドラコは廊下の状況をすぐに理解して2人に戻るよう指示を出した。

「監督生さん、どこかに空いているコンパートメントはないですか? 友達と喧嘩して気まずいんですよ」

 アレックは架空の相手と会話しながら戸を閉めた。ひとりでは一度に運べない重さの荷物を前に、どうしたものかと壁に背を預けて途方に暮れた。
 あんなことを言わなければドラコと仲良くできただろう。でも、側で他人の悪口を聞き続けるのは疲れてる。いきなり自分の行動を否定されてすぐに変われる人間なんていないのだ、仕方がない。
 アレックは深く息を吐いた。心臓がドキドキしている。相手に注意をするなんて事なかれ主義で生きてきたから慣れないし、実は指先が震えていた。

「あなた、どうしたの?」

 栗色の髪がたっぷりと広がる少女が歩いて来た。その後ろには小柄な少年がいる。

「君のコンパートメントってまだ空いてる? よかったら入れてくれないかな」
「まだ見つけてなかったの? 出発してから何時間経ったと思っているのよ。いいわ、来なさい」
「ありがとう。助かるよ。俺はアレック・アンダーソン、よろしく」
「ハーマイオニー・グレンジャーよ。こっちはネビル・ロングボトム。ネビルのヒキガエルがいなくなったから探しているのだけど、見てない?」
「残念だけど見てないな」

 立て続けに本の登場人物に出会って驚いた。ハーマイオニーが大鍋を持ち上げて歩き出す。その後ろをアレックはついて行った。
 動悸は治っていたがまだ胸が痛い。ドラコと友達になれなかったことが、自覚している以上にショックだったようだ。仲違いは仕方がないと言い聞かせながらも、他に言い方があったのではないかとアレックは考え続けていた。