誰が殺した大魔女を

 ウェンディが診療所のドアノッカーを叩くと、間を置いて、気の抜けた声がドア越しにくぐもって聞こえてきた。

「はいはい、入っていいよ」

 魔法を使えば部屋から動かずに外へ声を聞かせることなど簡単なのに、フィガロは南の国に根を下ろしてからわざと魔法を使わないで弱い魔法使いのふりをする。それが腹立たしくて、ウェンディはきつく眉を顰めた。同時に、人間のようにドアの前で待つ自分も馬鹿だと気づいて、唇を噛む。北の魔女らしく相手の意向を無視してドアを吹き飛ばしてでも入ればよかったのに。でも、もう遅い。
 ドアの前で立ちすくんでいるのは若い女性だった。白地に黒斑のある大山猫の毛皮をあしらった上品なコートを身に纏っている。雲の街は名前の通り標高が高く、低地の湿地帯よりも涼しく乾いていたが過剰な防寒である。まして夏でも雪が残る北の国で生まれ育ったウェンディには暑いくらいだ。それでも汗ひとつかいていないのは魔法で服の中を快適な温度に保っているからだった。気温にあわせて服を選ぶということを魔女である彼女はしない。

「風邪も怪我もフィガロ先生にお任せ……って、なんだウェンディか」

 言いながらドアを開けたフィガロは、南の国の優しいお医者さんの笑顔を消した。オズと世界征服をしていた頃のような北の大魔法使いの顔で薄く笑う。

「なんだい、迷子の子供みたいに泣きそうな顔してさ」
「泣いてなんかいない」
「そう? そこに鏡があるから見てみるといいよ。どうせチレッタのとこに行ってフラれてきたんだろ? 新婚家庭にわざわざ行くからだよ」

 気遣いのない足取りでフィガロが家の奥に戻った。彼より背の低いウェンディは急足でついていかないと置いていかれてしまう。
 玄関の壁にかけられた鏡を横目で見ると、確かにふてくされた顔の女が映っていた。紫紺の瞳は苛立ちの炎で燃えていたが濡れて弱々しく、子供っぽい表情のせいで品のあるコートも歳の離れた姉の服を着ているようだった。
 ダイニングに入ると椅子がひとりでに引かれてウェンディを歓迎した。人目がないから魔法は使っていいらしい。カーテンのない窓は外から見放題だが、見えるものが本当だとは限らない。この男の場合は特に。フィガロは食器棚――食器よりも酒のボトルが目立つ――を開けて、マグカップを手に取った。

「飲み物は何がいい? ミルクにしようか?」
「子供扱いしないで。あまりそういうことをすると、せっかく持ってきたお土産はあげないわよ」

 空中の何もないところからボトルをとり出して振って見せた。西のルージュベリーを使った苦めのサングリアだ。

「上物じゃないか。わかった、ミルクにはウィスキーを入れてあげよう」
「子供を寝かしつける時に出すものじゃない」
「今の時代、子供に酒を出したらいけないんだよ」
「北の国じゃまだ暖まるために子供も飲むわ」

 話しながらフィガロはミルクを注ぎ、魔法で温めて、ウィスキーを垂らしていた。出された物は仕方がないので受け取るが、不満を示すため礼は言わない。実のところ嫌いではないし、むしろ自分ひとりの時はよく作っているのだ。

「いい人だっただろ? 先生――チレッタの夫は」
「北の魔女ににこやかにお茶を出す馬鹿な人間だったわ。それも貢物じゃなくて友好の印としてっていうんだから笑っちゃうわ」

 チレッタの手前、礼を言って受け取った自分も馬鹿だ。チレッタがこの人が淹れる紅茶は美味しいのなんて笑うから。

「南の国では魔法使いも人間も対等で仲がいいからね。魔法使いを不当に恐れたり敬ったりしないのさ」
「馬鹿な国を作ったものね。力の差も生きる時間も違うのに対等なわけないじゃない。中央の革命に当てられた? それだって結果はどうなったか知らないわけではないでしょう? 人間の方も私たちを仲間とは思ってないわ」
「随分と荒れてるねえ」

 話を逸らされた。フィガロはいつだってつかもうとするとするりと逃げ出す蛇のようだ。ウェンディは睨みつけただけで深追いはしなかった。喧嘩になったら負けるのは自分だ。
 ミルクに口をつけると指先までポカポカと温まった。フィガロも早速もらったサングリアを開けて舌鼓を打っている。

「……なんでひとりで子供を作れないんだろ」

 フィガロがむせ込んだ。今聞いたことが信じられないという顔でウェンディをまじまじと見つめた。

「ほしいの、子供?」
「まさか。男と女がセックスしないとできないなんて、どうしてそんな体なんだろうって思っただけよ。自分ひとりで子供が作れないか試したけどダメだった」
「は、何、ちょっと待って。どういうこと?」
「男になって精液を出して、女になって子宮に入れたけどダメだった」
「その話、詳しく聞いていい?」

 知的な興味ではなく下世話な好奇心がにじんだフィガロのにやけ面を、ウェンディは再度睨みつけて黙らせた。

「ひとりで子供を作れたらチレッタは男と結婚なんかしなかったのに……」
「あーそういうこと」

 ウェンディはため息をつくと、両腕と頭を投げ出して机の上に預けた。

「あの自由奔放で大胆なチレッタがたかがひとりの人間に……なにあの格好、その辺の村娘と変わらないじゃない……」
「うわ、君これくらいの酒で酔っ払うたまじゃないでしょ。悲劇に酔いしれて管巻くのもほどほどにしてくれよ?」
「うー……フィガロの馬鹿……甲斐性なし……ちょっとは慰めなさいよ」

 ウェンディが恨みがましく見上げた時、ドアノッカーが来客を告げた。これ幸いとばかりにフィガロが玄関に向かう。残されたウェンディはちびちびとホットミルクを舐めた。
 玄関先の声がここまで届いてくる。穏やかな陽だまりのように暢気な声だ。

「うちの畑で採れたグリーンフラワーだ」
「こんなにもらっていいのかい?」
「チレッタさんのとこに友達が来たって聞いたから持っていったんだけど、今はフィガロ先生のとこにいるって言うからさ。2人で食べておくれ。チレッタさんの友達なんだからきっとすごい魔女なんだろうね」

 あのチレッタが人間とご近所付き合いとは。ウェンディは鼻で笑おうとして、結局は唇をいびつに歪めただけだった。会ったことのない魔女のために自分の物を分け与えようとする。この国の暖かさが、大魔女チレッタを殺したのだ。