極光まで

 子供を捨ててきてほしい、と震える声で依頼してきたのは王室付きのメイドだった。道ならぬ恋か手込めにされた結果かと思いながら、気前のいい金額――メイドの給料で出せるものではないから相手の男が出したのだろう。もしかしたら捨てろという指示も――に深く追求することなくうなずいていた。
 メイドはあっさりと商談が成立して肩透かしをくらったように一瞬ぼうっとした後、

「では、1週間後に」

 と言ってそそくさと立ち去った。目深に被ったつばの広い帽子で顔を隠していたから、まさか自分の素性がバレているとは思いもよらないはずだ。
 ドアにかけられた真鍮のベルが、リンと小さな音を鳴らす。依頼人が何事もなく階段を降りて建物から出た証拠だ。この二階建ての古ぼけたアパートメントにかけた魔法は、一階の共同玄関をくぐった者の探査をして、私の部屋のドアを叩く頃には片眼鏡のレンズに得た情報を映し出す。今は視界からメイドの情報も消えていて、現在中にいる者の情報を呼び出せば紫の細い文字で右隣の酒飲みと一階の大家の名前が出てきた。彼らが窓から出入りしない限りこの情報は正しい。常に視界にあっては邪魔でしかないのでまた非表示にする。
 せっかく出した紅茶は手つかずで、まだ湯気が立っていた。緊張して喉を通らなかったのか、色が薄すぎたせいか。報酬が入ったら茶葉を買い足そう、それから久しぶりに芝居を見に行って、それでもありあまる金額に頬が緩んだ。

 約束の日にメイドが抱いて連れてきた子供は予想よりも大きかった。赤子だろうと思っていたのだけど、レンズには4という数字が映し出されていた。そして彼女と血の繋がりがないことも。
 メイドは子供をソファに寝かせた。毛布でくるんだ子供を胸に抱く様子は、母親が医者に連れて行くようにしか見えなかっただろう。メイドはテーブルに革袋を置いた時、初めて口元に笑みを浮かべた。

「薬で眠らせているので半日は起きないはずです」

 重い荷を私に預け渡してすっかり気軽になった声だった。
 私は袋の中をあらためて金貨を数えながらうなずいた。これだけの額を惜しみなく払えるならもっとふっかければよかった。子供の素性を考慮するならなおのこと。

「確認だけど、子供は捨てるだけでいいんだね? 命を奪うことだってできるけれど。私が殺してもいいし、捨てる場所によっては結果的に」

 私は下を向いたままだったが、片眼鏡の視界にはメイドの顔が映っている。

「いえ、そこまでは……」

 唇を震わせて彼女はこたえた。そうしたいのは山々だがと言わんばかりに悔しさがにじんでいた。

「遠くに捨ててきてください。命は奪わないで。できるだけ遠く、この国の外へ。この国の誰にも見つからないように。そこで、生まれた家と関わらず生きていられるならどこでもいいです」
「それはこの子が魔法使いだから?」

 メイドが伏せていた情報を口にすれば、彼女は身をこわばらせた。

「ああ、いや、お仲間だからといって手心を加えたり、君を責めたりはしない。そこは安心してくれ。依頼はこなす。金がちゃんとあれば」

 メイドはつめていた息をそろそろと吐いた。

「……ええ。そうです。魔法使いの子供なんていりませんから」

 金貨はぴったりとあった。もう出ていいと告げると、メイドは恭しく一礼した。私が普段行く安い料理屋では決して身につかない所作である。駆け出したいのを堪えるように、メイドは早足に出て行った。すぐにドアのベルが鳴り、その時間の短さで堪え切れず階段を駆け降りたことを教えてくれた。

「厄介なもんを引き受けちゃったなあ」

 深々と椅子に背を預け、子供に向かって言う。当然、返事はない。すやすやと規則正しい寝息を立てている。血色の良い頬はふっくらと柔らかな丸みを帯びて、エバーミルクのように白い指にはささくれひとつなく、飢えと労働と無縁だったことを雄弁に語っていた。体にぴったりとあった服は、魔法で精査するまでもなく上質な生地。それを体が大きくなる度に買い与えることのできる財力。
 そして何よりその髪色――建国の父アレク・グランヴェルから受け継がれてきた銀の髪。
 きっとまぶたを開ければ、あいつと同じ青い色をしているはずだ。

「魔法使いの扱いなんて400年前から変わっちゃいないな」

 魔法使いと人間が共に暮らす世界を目指した革命の末にできた国、共に戦った魔法使いを火炙りにしたことを隠す国。

「子孫が捨てられる国を作ったのはおまえだぞ」

 薄暗い喜びが口の端に浮かぶ。しかし先祖の顔など肖像画でしかしらない子供には傍迷惑でしかないだろう。頭を振って影から手を伸ばす暗い思いを追い払い、真面目にこの子をどうするか考える。
 この国の外ならどこでもいいって言ったけれど……。寒さが厳しい北の国に置いてきたら、アカギレも知らないこの子はすぐに凍死するだろう。西の国も除外。身寄りも力もない子供の魔法使いは悪趣味なサロンの見せ物にされるかマナ石にされて魔法科学の動力にされるのが落ちだ。救貧院がある東の国か、魔法使いの手も借りたい開拓途中の南の国か。

「君はどこがいい、アーサー?」

 泣きわめかない子供は楽ではあるがつまらない。

「どうせなら城じゃ学べない魔法を身につけることができる所に行くといい。場所は占いで決めさせてもらうよ。結構得意なんだ」

 魔法で道具を呼び寄せる。棚の中で丸まっている羊皮紙の地図、5つの宝石、蝋燭と三脚、平皿と水の入ったガラス瓶。テーブルの上に地図を広げた。東西南北と中央の国が描かれたもので、国によって色が違うのは使っているインクが違うからだ。東の国には雨の街の雨水を混ぜたものを、北の国には時の洞窟で採れた石の粉末を混ぜたものをというように。地図を実際の方角に合わせてると、南の国がある角が私と向かい合う。四隅と真ん中にこれまたそれぞれの国で採れた宝石を置く。北には紫玉、東に青玉、南に緑玉、西に赤玉、最後に中央の黄玉。蝋燭に火をつけて、平皿を温めることができるよう三脚を設置する。瓶の中の水は中央の山の湧き水で、いずれ大河に流れ着くものだ。それを平皿に注ぎ、皿を持ったまま子供に近づいた。

「君の髪と血を少しもらうよ」

 片手に台所から銀のナイフを呼び寄せる。私の小指の長さと太さほどの束を切り取って、水の上に浮かべた。続いて彼の柔らかな人差し指の腹を小さく切り、水に2滴、3滴と鮮血を落とす。必要な量を採った後は魔法で治した。この間もすやすやと眠っていて、きっと手足の骨を折っても起きないに違いない。
 皿を三脚の上に乗せた。呪文を唱える。

「《セトロフ・アントロフ》」

 髪が溶けて水を銀に染め、血の赤と混じり、渦を巻いた。白い蒸気が立ち上り、地図の上を迷子のようにぐるぐると彷徨った。その一部を手招いて、片眼鏡のレンズを曇らせる。
 裸眼は地図を、もう片方の目で白く曇った視界を見つめた。地図の上に残った蒸気が移動し、蛇や川の流れのように細い尾を引いて西の国を漂うと、レンズの曇りがざめいて靄がかったぼんやりとした光景に変わる。裸の子供にサロンの所有物であることを示す焼鏝が当てられていた。蒸気が中央を避けて南にくだると、光景が変わり、険しい山の中で子供は毒蛇に噛まれていた。次に東へ、ボロ切れをまとった子供が人間からやまない雨のように石礫を投げられている。北へのぼると、オーロラがたなびいた。緑や黄色の光をたたえたそれが炎の赤に反転し、暖炉の前で居心地の良さそうなソファに身を沈めた男の姿になった。晴れた夜空のような長い黒髪、瞳は燃え盛る炎よりも赤く、膝の上では子供が気持ちよさそうに寝ていた。
 その光景が別なものに変わらぬうちに、素早くもう一度呪文を唱える。北の国から移動しようとしていた蒸気が足止めをくらって、ぐるぐると国内を回る。レンズの蒸気をそれに合流させた。
 棚の中から北の国の地図を呼び寄せ、テーブルの空いているところに広げれば、文鎮を置く間も待てぬと蒸気は移動してきた。そして、地図を両手で押さえている私の目の前で、ある一点でとぐろを巻いた。

「え?」

 その場所は――驚愕で切れかけた集中力をなんとか繋ぎ止めながら、二度三度位置を確認した。蒸気の魔法が解けて水に戻り地図を汚したら使い物にならなくなる――昔80年ばかり北の国で暮らしていた頃に、死にたくなければ近づくなと畏れを持って言われていた場所だ。魔法使いも人間も背筋を震わせてその名を囁いた。
 世界最強の魔法使いオズの縄張り。

 

 アーサーが飲んだ眠り薬の効果は半日。
 中央の塔を使って北の塔まで移動すればオズの縄張りはそう遠くない。しかし賢者の魔法使いではない私がおいそれと使えるものではなかった。空間移動魔法は私には高度すぎるし、箒で飛んで行くしかない。移動時間を考えると、途中で睡眠の魔法をかけておく必要があった。
 魔法でなんとかなるのだから焦らなくてもいいような気もするが、城の人間が気を変えたり、これを企てた一派の政敵が嗅ぎつけたり、王子誘拐の咎を哀れな魔法使いに着せたりなんてことは十分ありえる話だ。
 行動は迅速に。茶葉を買い足す予定も観劇もさよならだ。当分中央の国には足を踏み入れないでおこう。この件に関わっている人間が死に絶えるまで……60年くらいでいいか?
 部屋の隅で埃を被っていたトランクに、持ち出すものを選り分ける時間も惜しく一切合切魔法で縮めて詰め込んだ。短時間で部屋は空になったが、額に汗ばむほど疲れた。喉を潤したいが、手当たり次第に入れたせいでカップボードはトランクの奥底だった。

「《セトロフ・アントロフ》」

 最後に残ったドアのベルを粉砕した。建物にかけた探査の魔法が致命的に壊れて消える。窓を開けて夜風を招き、真鍮の塵をひとつ残らす風に攫わせた。1年がかりで完成させた魔法の終わりは一瞬だった。

「さて、行くとしようか。……ん、子供ってこんな重かったっけ?」

 アーサーを片腕で抱き上げると、毛布越しにも子供の体温は温かった。反対側の手にはトランクを握って、15年住んだ部屋を後にした。アーサーを揺り起こさないよう慎重に歩いている自分に気づいて、自分の愚かさに笑みが漏れる。そんな必要はないのに。気づいた後も足取りを変えることはできなかった。
 階段の下から二段目の壁に手をついた。煉瓦と煉瓦が接する面に描いた魔法陣を焼き消す。共同玄関のかまちの上に置いた水晶の欠片を回収する。探査の魔法に使っていた物を全て処分できたわけではないけれど、まあ私の魔力が濃い物はこれくらいだろう。後は風化するに任せればいい。今月分の家賃は3日前に払ったばかりだから大家に不義理を働いてはいないはず。相手は夜逃げには慣れているだろう。
 裏口から共同の小さな庭に出た。昼間は向かいの建物の奥さんが洗濯物をしたり子供が駆け回っているが、今は静かだ。こんなに〈大いなる厄災〉が美しく輝く中、日除けのつば広帽を被ってきたメイドを思い出して忍び笑いした。顔を隠せる物をそれしか思いつかなかったのだろう。陰謀には慣れていない彼女ひとりで城から王子を連れ出せるわけがなく、裏で手を引いているのは果たして何者か。

「君は空を飛んだことはあるかい? ないだろうね。こんなのが初体験になって悪いが、寝ている間のことは夢幻と同じことでいいだろう」

 トランクを箒の柄にひっかけて、私は飛んだ。空を見上げた酔っ払いの目にとまらないよう高く高く。

 

   *

 国境線の山を越えれば辺りは一面の雪景色になる。身の回りに防寒魔法をかけたから、吐いた息が白く凍ることはない。視界は良好。晴れた午前の光を反射して、雪原が輝いている。反射光で目が焼かれないように、目を保護するための魔法もかけた。
 家を出た後は夜明けまで飛び続け、日中は山の奥で身を潜めて休んだ。薬の効果が切れたのかアーサーが身動ぎし始めたので、まだまだかかる道行を考えて睡眠ではなく仮死の魔法をかけた。日暮れと共に飛び立ち、朝にはまた休む。そして国境の検問を避けて夜通し飛び続け、ここまで来れば人目を気にすることはない。
 座りっぱなしでお尻が痛い。中央の城下町に居を構えてからはこんな無茶な飛び方はしてないっていうのに。しばらく常緑種の原生林の上を飛び続けた後、小さな集落を発見して降り立った。
 村の人間たちは、近づいてくる魔法使いを見つけるや家の中に隠れた。雪遊びに夢中になる子供を母親が抱いて逃げ、硬く扉を閉ざす。まるで人食い熊から身を潜めるように。しかし熊と違い、猟銃を手にした狩人が出てくることはない。
 これが北の国の魔法使いと人間の関係。
 捕食者と獲物。
 気まぐれに人間を庇護する魔法使いもいるけれど、見返りを要求してきて、女王蜂と働き蜂の関係になったりする。住みやすいのはスノウとホワイトのお膝元くらいだろうか。
 200年ぶりくらいの懐かしい感覚だが、笑顔になれるものではない。真面目な顔で見渡して、比較的立派な家の戸をノックした。小さな悲鳴、息をのむ気配。しばらく待っても応答はなく、もう一度叩こうとした時、怯えた髭面の顔が出てきた。

「少しの間、休ませてくれ」

 返事を待たずに中に入る。ひとつしかない部屋の隅では女が子供を自分の背に隠すように抱え、老婆は手を握ってぶつぶつと呟きながら祈っていた。

「飲み物と食べ物を1人分。なんでもいい」

 ベッドにアーサーを寝かせ、暖炉に近い席に座った。
 オロオロするばかりの男を見かねたか、女が子供を老婆に預け、暖炉の上の鍋から木の椀にスープをよそった。何日も煮込んだのだろう。野菜の切れっ端はドロドロに崩れている。肉っけは少ない。注いでくれた酒で喉を潤した。この北のルージュベリーの果実酒は薄いくせに苦味だけは強かった。

「ありがとう。助かったよ」

 外套のポケットから探し出した銅貨を差し出すと、男と女はぽかんとした顔をした。中央の硬貨は使えないらしい。国境に近いのにと思うが、魔法使いの感覚ではそうでも人間にとっては違うのだろう。

「まいったな。北の硬貨に両替する暇はなかったし……」

 いや、こういう辺鄙な場所では貨幣より喜ばれるものがある。

「君、家族は何人? 4人で間違いないかい? 手を出して。ほら早く」

 やはり動けぬ男に代わり、不安そうな顔で女が両手を出した。アカギレだらけの手だ。その上に私は手をかざして、刺々の星形のシュガーを4粒作り出す。

「魔法使いのシュガーだ。皆で食べなさい」

 買おうとしたら最初に出した銅貨よりも高い物だ。病人に食べさせるくらい滋養がある。

「いいんですか……!? こんな……!」

 女は黄金でももらったように両手を胸の前で握りしめた。平身低頭の勢いで、床に頭がつきそうだ。

「私は北の魔法使いではないから、ただ飯食いはしないんだ。一眠りしていってもいいか?」
「は、はい! もちろんです!」

 遠慮なくアーサーの隣のベッドに横になった。硬くて汗臭いけれど贅沢は言ってられない。
 昼過ぎに起きて、夕暮れまで行けるところまで飛ぶ。ここからは昼夜逆転はやめて、太陽と一緒に動く。高度は低めにして魔力を温存した。下から見上げられても、たぶん人攫いの魔法使いだとしか思われないだろう。悲しいかな珍しいことではないのだ。
 なるべく直線の最短進路をとったが、排他的な魔法使いや危険な魔法生物の縄張りは迂回した。200年前の記憶と勢力図は大きく変わってないのか、幸い面倒な輩に絡まれることはなかった。通行料さえ払えば大人しい魔女に銀貨を渡し――必要経費と言って金貨を上乗せすればよかった――山一つ分ある前庭を横切って、さらに飛ぶこと1日。月の湖を越えた先。
 雪が舞う灰色の空の下、そびえ立つ北の塔が見えた。

「あーあ、私が賢者の魔法使いだったらこんな苦労しなかったのにな。長くつき合わせて悪いね」

 胸に抱いた物言わぬ子供に話しかけることにすっかり馴染んでしまっていた。旅が終わっても独り言がこぼれそうで怖い。

「オズの住処まであと一息だ」

 高揚感で体にへばりついた疲労が溶け落ちた。
 北の方角は手前で起きている吹雪の白壁で隠されている。オズの魔法で常に雪が吹き荒れるそこへ、意気揚々と箒を進ませた。

 

   *

 真っ白な吹雪の中は時間の感覚を失わせる。どれくらい飛んだのだろう。この辺でいいのではないだろうか。

「さあ、ここが旅の終わりだよ、アーサー」

 地面に降りる。踏み固められていない雪に膝下まで埋まって、顔を顰めた。足裏に浮遊の魔法をかけておけばよかった。

「《セトロフ・アントロフ》」

 アーサーにかけていた仮死魔法をといた。微かだった息遣いが大きくなり、低かった体温がゆっくりと上昇する。湯たんぽくらいに温まると、まぶたがぴくぴくと動いて、口元や手足がもぞもぞし始めた。毛布を跳ね除けるように手を伸ばして目を擦り、ぱちりと目が開いた。
 数日共に過ごして初めて見る――晴れた春の空のような青い目。……アレクと同じ色。
 ふっと息が抜けるような笑いが私の口からもれた。初日に感じた暗い気持ちはまだ足首をつかんで離さなかったけれど、物言わぬ子供と過ごすうちに愛着がわいたらしい。
 寝ぼけ眼が焦点を結ぶ前に、雪の上に下ろした。

「おはよう、アーサー。ここに君の両親はいないよ」

 アーサーは固まった。言葉の意味を理解できたのかどうか。毛布を引っ張るとあっさりとアーサーの手から離れた。中央の上等な服は北の寒さの前では意味をなさない。自分の状況を理解する前に寒さで思考まで凍ていては困るので、体にかけている防寒の魔法はまだ残す。
 二歩下がる。吹き荒ぶ雪が間を隔て、アーサーの輪郭すら白い闇が覆い隠した。私には片眼鏡の魔法具があるからアーサーの表情だって見えるけれど、アーサーからは私の反対側の視界と同じく何も見えないだろう。

「ははうえ……? ちちうえ……?」

 続けて読んだ名前は乳母の名前か。風の荒れ狂う音に紛れて、小さな声が繰り返し両親と世話係りの名前を呼んだ。

「母上も父上もいないよ」

 同じことをもう一度言う。風に負けないように声を張り上げなければならなかった。
 沈黙が返ってきた。声はするのに姿が見えなくて不安がっているようだ。

「ここはお城じゃない。わかるだろ?」
「……あなたはだれですか」
「私? 私はお城の人に頼まれて君をここに捨てに来たんだ」
「……アーサーが、……アーサーが魔法使いだからですか……!?」

 ――ああ、なんてことだ! 幼いながらも城の人間が向ける悪意を理解していたのだ。
 こんな世界を変えたくて私たちは血を流して戦ったのではなかったか!
 膝から力が抜けて、横殴りの吹雪によろめきそうになった。いいや、ここでうめいていいのは捨てられたこの子だけだ。

「そうだ。魔法使いの子供はいらないそうだ」

 アーサーがまた母と父を呼んだ。先ほどまでとは打って変わり弱々しく小さい声だった。

「ごめんなさい……アーサーが魔法使いでごめんなさい……」

 両親には届かない謝罪を繰り返す。
 彼に背を向けて数歩進んでから、箒に跨って飛び上がった。気を抜くと強風に煽られてあらぬ方向に流されそうになる。片眼鏡の遠見の魔法で北の塔をとらえ、目印を頼りに白い闇を進む。
 アーサーにかけた防寒の魔法は私が離れるにつれて薄くなる。完全に魔法が消える前に泣きやんでいるといいのだが。涙が凍ると悲惨だ。こんな吹雪の中では早く飛べないから、きっと大丈夫だろう。
 数日の間、考えていたことがある。中央の国の人間の魔法使いへの感情。
 英雄アレク・グランヴェルが聖なる魔法使いファウストに手助けされ、人間たちを支配していた悪い魔法使いを倒した。そして悪い魔法使いが根城にしていた城を拠点に国を建てた。
 中央の国で教育を受けた者なら誰もが知っている話だ。その後、アレクがファウストを火刑し、他の仲間の魔法使いを処刑していったことは隠蔽され、綺麗な上澄みだけが語り継がれている。聖ファウストを讃える聖堂まで立つ始末。晩年のアレク王は姿を消したファウストの帰りを待ち、彼が帰る時まで城のステンドグラスに紫を使わないとかなんとか英雄譚に一抹の切なさを添える話だってある。まったく、悪事を隠した謝罪なしの改心をどう信用しろというのか……。
 閑話休題。とにかく中央の国では、人間と魔法使いの理想の関係はアレクとファウストのようなものだ。人間を助ける魔法使い。表舞台に立つのは人間で、魔法使いはいかに有能でも陰から支える存在であるべし。
 だから国王の直系で継承権第一位の光り輝く人物が魔法使いだなんて、あってはならないことなのだ。
 さらに国の歴史が、魔法使いが人間を支配したらどうなるか教えている。英雄アレクが剣で倒したのは魔法使いだったではないか。
 世界最強のオズに育てられたアーサーはどんな魔法使いになるのだろう。オズがかつて世界を半分征服したように、世を恨んで国を滅ぼそうとするのだろうか。崩れ落ちる王城や成長したアーサーが私に復讐しに来る様を想像すると愉快だった。
 吹雪の層を抜けた。背後の天気が嘘のように晴れた夜空が広がっていた。片眼鏡の遠見の魔法を解いて、二、三度瞬きをし差違がなくなった視界を馴染ませる。
 夜空に緑の光がきらめいた。星とも〈大いなる厄災〉とも違う光は、天上から地に向かって垂れ下がり、幾重も揺らめく。緑や黄や赤に鮮やかに色を変えながら、雪原と北の塔を染めた。太陽よりも柔らかく冷たい光。北の国にしか現れないオーロラ。
 不意に出立の前にアーサーを占った時に見た光景を思い出した。暖かな暖炉の前でくつろぐオズの、膝の上で眠るアーサーを見守る眼差し。世界を恐怖に陥れた魔王というより、子を思う父のようだった。
 アーサーが強い魔法使いにならなくていい。復讐を成し遂げられるような力を身につけなくてもいい。ただ、寒い夜に寄り添える相手と過ごせるなら。子捨てに加担した私が願っていい道理はないと知りながらも、アーサーがもう二度と居場所を奪われることのないよう、オーロラに願った。