それは私の名ではない

 私はこの男のことを何も知らない。
 マイルームのベッドに寝転がりながらその男を見た。長い艶やかな黒髪に、涼しげな目元。ローブにも白衣にも見える上着が、細い長身を包んでいる。椅子に腰かけて姿勢よく、電子端末で何かを読んでいた。たぶん化学の論文かな。聖杯から与えられる知識だけじゃ足りなくて、熱心に現代の科学や魔術について調べる学者肌。
 名前は、パラケルスス・ヴァン・ホーエンハイム。人理修復に手を貸してくれている英霊の1人だ。
 視線に気づいたか、パラケルススがこちらを向いた。

「どうしました、マスター。ホムンクルスが入用ですか?」
「ベビーならほしいな」
「生憎、生後3ヶ月経たないと引き渡ししないと決めているのです」
「犬猫のブリーダーかよ」
「他のホムンクルスと共に育てないと社会性が身に付きませんからね」

 どこまで冗談で本気なのか、真顔でパラケルススは言った。
 表面的なことなら、パラケルススのことはたくさん知っていると思う。何度も一緒にレシフトをしたし。仲は悪くない。でもなんでだろう、一緒に過ごす時間が長くなるほど、パラケルススとの間に距離を感じるのは。
 たぶん、パラケルススが抱えている過去のせいだろう。どんな過去なのか知らないんだけど、悪逆に関わることなのは間違いない。友達になろうって言った口で、誰かと触れ合うことも許されてはならないって言う。それはとても苦しそうで、私はどうしたら苦しみが取り除けるのかわからない。

「そうだ、教えてよ、魔術」
「私が、ですか?」

 パラケルススが目を瞬かせた。
 ただの思い付きだった。パラケルススとの距離を縮めるのにいいかもしれない。

「うん。いい先生になりそうだもん」
「何も私でなくても……他にも優れたキャスターはいますよ」
「信頼してるんだ。嫌ならいいよ。せっかく現界したんだし、他にやりたいことあるよね」
「いいえ、違うのです。マスター」

 絞り出すような、苦しそうな声だった。慌てて駆け寄ってパラケルススを抱きしめた。いまにも倒れてしまいそうな気がして。寄りかかる体は重くて、いくら細くても成人男性なんだなと思った。肉を持った確かな人の重みだった。

「美沙夜……貴方を裏切りながら、新たなマスターに仕える私を……貴方は……許さないでしょうね」

 誰だそいつ、と問いかけることはなぜかできなくて。
 パラケルススは私の肩に顔をうずめた。長い髪が首に触れてくすぐったい。
 私はミサヨじゃないから何もこたえられず、天井の白い照明を見上げながら、パラケルススを抱きしめ続けた。

title by ジャベリン