恋心と祈り

 初恋の話をしましょうか。私が好きになったのは、町はずれの山に住む炭職人の家の子で、竈門炭治郎さんという男の子でした。
 炭治郎さんは早くにお父様を亡くしていましたから、家のことをしなければならないお母様に代わって、よく町へ炭を売りに来ていました。町の人は皆、炭治郎さんが好きでした。優しくて聡明で、困っている人を放って置けない、そんな気心の良い人でしたから。晴れて足元の良い日は、荷台に炭と一緒に弟や妹を乗せて来ていたのを覚えています。
 炭治郎さんが最後に町に来たのは冬のことでした。背中に炭を背負って、ひとりで山から降りてきました。炭治郎さんが近所の家の障子を張り替える手伝いをしているのを、私は家の陰から見ていました。恥ずかしがり屋の私はいつだって、炭治郎さんに声をかけるのに勇気が必要でした。

「あ、あの、すっ炭をください」

 やっと声を出した時は大体どもっていたけれど――私には吃音のきらいがありましたから――炭治郎さんは笑ったりしません。町の男の子たちとは違います。それだけで好きになるには十分でしょう?
 炭治郎さんは優しく微笑みました。お金を渡す時に炭治郎さんの手に触れてしまって、あっと思いました。今が冬で良かった、赤くなった頬が寒さのせいで誤魔化せるから。初心だったのよ、私。そんな頃が私にもありました。
 ええ……それきり、炭治郎さんはもう町には来ませんでした。
 最初は冬ですからね、雪の中を歩くのは大変だから来ないんじゃないかと話していました。そのうちに病気か怪我でもしているんじゃないかと町中が心配して、三軒隣のおじさんが山に行きました。そして……炭治郎さんの家が……血塗れだって……そう、誰の姿もなかったって……町に駆け込んできたんです。
 熊だ、真っ先に皆が言ったのはそれでした。冬眠に失敗した熊が炭治郎さんたちを襲ったんだと。猟師が呼ばれました。次の日、猟師と町の男たちが山に行きました。

「これは熊の仕業じゃない」

 猟師が言うには、家に熊の爪痕も毛もなく近くに糞も落ちていない。熊がいた痕跡はないのだと。
 なら、何が炭治郎さんたちを襲ったというのでしょう。

「鬼だ」

 傘屋のおじさんは鬼に襲われたんだと言い張りました。鬼だなんて、そんなの子供だましでしょう? 流れの速い川で子供が遊ばないように河童がいると怖がらせるような。でも傘屋のおじさんの目は本気でした。町の人は信じたり信じなかったりしたけれど、私はしばらく怖くて、丸くなって頭から爪先まで布団を被って寝ていました。そうすれば鬼から隠れられる気がしたんです。
 山に行った人たちは、庭に人を埋めた跡があったと言っていました。全部で五つです。炭治郎さんは七人家族でしたから数が合いません。だからそう、生き残った人がいる。家族を弔った人が。
 傘屋のおじさんは炭治郎さんが助かったんだと言いました。最後に町に来た時に炭治郎さんを家に泊めたから、炭治郎さんだけは鬼に襲われずにすんだのだと。私はそうならいいなと思いました。
 では、もうひとり誰が助かったのでしょうか。墓を掘り返せばわかったでしょうね。でもそんな罰当たりなことができますか。それにもし熊が埋めたのだとしたら、熊が怒って報復にきます。熊は執着心が強いですから、獲物を横取りしたと思うでしょう。だから誰も掘り返そうとしなくて、ずっとわからないままでした。
 それから一年後に私は町を離れました。もっと大きな街へ、女中として働き始めたのです。花嫁修行ですね。そこでは当然誰も炭治郎さんたちのことを知りませんから、ふと思い出した時に話題に上ることもありません。私はだんだんと思い出す頻度が減っていきました。
 そんな生活に慣れきった頃でした。炭治郎さんを見かけたのは。
 私は奥様に言われて夕食の買い出しに出ていました。通りを歩く人に混じって、炭治郎さんは歩いていました。赤みがかった髪も額の痣もそのままで、昔より背が高くなっていました。

「炭治郎さん!」

 昔はつまっていた声がすんなりと出ました。これを逃せばもう二度と会えなくなる気がしたのです。

「陶子ちゃん……?」

 ああ! 炭治郎さんは覚えていてくれたのです! 堪らなくなって私は駆け寄りました。

「炭治郎さん! よかった、無事だったのね!」
「陶子ちゃん、そっか、ごめんね心配かけて」
「キィィイイイイ! なんだよ炭治郎! こんな可愛い子に心配してもらえて! どんな仲だよ、え? 言ってみろ!」

 そう叫んだのは炭治郎さんの隣にいた金の髪の男の子でした。この時やっと私は炭治郎さんがひとりじゃないと気がついたのです。他にも猪の頭をした男の子がいましたが、なんでそんな頭なのか、私にはわかりません。
 そして今の炭治郎さんの格好にも気づきました。黒い洋装に羽織を着て、憲兵のように刀を差しています。洋装なんて奉公先の旦那様だって持っていません。なんだか炭治郎さんが遠い人になったようで、私の人見知りが少し出てきました。

「奥峰陶子ちゃんは、俺が昔よく炭を売りに行っていた町に住んでいた子なんだ」
「うん。炭治郎さん……その……」
「なんだい?」
「……元気にしてた?」

 こんなことを聞きたいんじゃありません。いえ、これだって大事だけれど、今どうしているのか、なんで町に帰ってこないのか、あの日何が起こったのか、聞きたいことは山ほどありました。だというのに私はひとつも尋ねることができませんでした。人見知りのせいか、私なんかが尋ねていいものなのか……いいえ、きっと炭治郎さんにつらいことを思い出してほしくなかったからでしょうね。久しぶりに会った炭治郎さんは笑っていたから。
 結局、村の皆は元気だからとか今はこの街で働いているんだとか、あたりさわりのないことしか話せませんでした。

「おい炭治郎、早く行かねえと日暮れまでに間に合わないぞ」
「お前、こういう時は邪魔するんじゃないよ」

 猪頭の子が言って、金の髪の子がそう言っていたと思います。

「ごめんなさい炭治郎さん、引き止めて」
「ううん、会えて嬉しかったよ」
「久しぶりに会ったんだろ? 俺たちのことは気にしなくていいんだよ」
「いいえ、私も仕事がありますから。早く戻らないと奥様に叱られてしまいます」
「そっか、陶子ちゃんも立派になったね」

 炭治郎さんが微笑んで私の頭を撫でました。それで残念だけど、炭治郎さんが私のことを小さな女の子としか見ていないことがわかりました。

「俺は大丈夫だよ。禰豆子も一緒にいるんだ」
「禰豆子さんも……よかった」

 生き残ったのは炭治郎さんのすぐ下の妹さんでした。炭治郎さんの目は優しげで悲しそうで、見ている私の方が胸が苦しくなりました。

「暗くなったらひとりで歩くんじゃないよ。鬼が出るからね」

 炭治郎さんが手を振ります。大きな手は潰れた豆と傷跡だらけでした。腰に差していた刀。きっと戦っているのでしょう。鬼と。家族を奪ったものと。
 私は炭治郎さんの背に向けて両手を合わせて祈りました。どうか神様仏様、炭治郎さんをお護りください。