賢者の天秤

「フィガロ、あなたが好きです」

 賢者の頬は愛らしく赤く色づき、見上げる眼差しは真剣で、言い終えた後の唇を緊張からかきゅっと結んでいた。
 面倒くさいな、というのが最初に思ったことだった。
 仕事の最中だった。夜中に俺が酒を飲み、賢者が甘いジュースを飲む。他愛のない話は穏やかで心地よく、嫌いな仕事ではなかった。なるほど、俺の部屋で2人きり、窓の外には青ざめた月が浮かんでいる。告白する雰囲気としては悪くないのだろう。
 俺は南の国の優しいみんなのフィガロ先生だから、にっこりと笑顔を浮かべた。今の心地良い距離感を崩そうとする賢者への苛立ちを巧妙に隠す。

「ありがとう、賢者様。嬉しいな。俺も大好きだよ」

 賢者は頬の肉を内側から噛んだのか、にやけるのを我慢するような変な表情をした。真剣すぎてほとんど睨むようになっている。

「そういうことじゃないんです、私の気持ちは。あなたならわかっているはずですよ。籠絡すると言ったのはあなたなんですから」
「ああ、そうだったね。よく覚えているね」
「あれは嘘だったんですか?」
「いやいや、そんなことないって」

 慌てて否定すると、手に持ったグラスの中で氷がぶつかって澄んだ音を立てた。
 あの時は本気だったと思う。賢者が俺の言うことを聞いてくれた方が便利だし、馬鹿な人間に指図されるのは好きじゃない。まだ賢者の人柄がわからなかった頃の話だ。
 この子は聡明だ。正直気に入っている。だからこそ本気で好きになられたら困る。籠絡のための言動が、俺は冗談でこんなことを言えるくらい恋愛的な意味で好きなわけじゃないんだ、という意味合いを強めたのはいつからだったか。
 21人の魔法使いを束ねる賢者として、この子はよくやっている。誰にでも親しく平等で、まさか特別な1人を選ぶことできるとは思わなかった。油断していたな。

「一夜の思い出がほしいのなら、俺は向いていないよ。誠実な男だからね。それより西の色男とか――」
「本気です。本当に好きなんです」

 傷ついたような顔で、そのまま言葉を続けようとする。たぶん、俺のどんなところが好きでこれからどんな関係になりたいとか、そういったところだろう。傷ついたのならそのまま嫌いになればいいのに。
 俺はすっかり飲む気をなくして、まだ半分以上残っているグラスを置いた。思考を鈍らせ、手軽に上機嫌にしてくれるアルコールは長く生きる魔法使いの友だ。

「ねえ賢者様、俺は現地妻になる気はないんだよ」

 いや、男なら現地旦那かな、と続けて言ったけど賢者の耳に届いただろうか。刺されたように息をとめていたから。

「賢者様は賢いねえ。異界での不倫なら、絶対に向こうの世界の本命にはバレない。意外に大人で、先生ドキドキしちゃった。お酒よりジュースが好きなお子様だと思っていたのに」
「……いくらなんでも怒りますよ」
「へえ、どうして? 図星をつかれたから?」
「私の気持ちを軽んじていること、そして現地妻なんて言葉であなた自身のことを軽んじていることです」
「俺の言っていること間違っちゃいないと思うけどね。だって、君は元の世界に変える方法が見つかったら帰るんだろう?」
「それはっ……!」

 勢いよく反論しかけて、結局は唇を噛んだ。
 ほら、これが答えだ。

「君は異界で素敵な恋人と過ごして思い出を持って元の世界に帰る。元の世界か異界の恋人か、どちらを得ればどちらかを失う。ロマンチックな選択だね。悲劇的で情熱的だ。演劇にでもしたら盛り上がるんじゃないかな。でも、残された俺は?」

 賢者が天秤を持っている姿を想像する。片方の皿には元いた世界が、反対側にはこの世界が乗っている。この世界に来たばかりのころに比べれば、この世界の比重は大きくなっているのだろう。それでも、どちらを選べと問われた時の選択は変わらない。
 では、俺の天秤はどうだろう。賢者を乗せた皿の反対側には何もないのだ。

「俺はさ、賢者様がいなくなっても何も手に入らないんだよ。君がいない世界が残るだけだ」
「だから私の気持ちは受け入れられないと言うんですか?」
「そういうこと。ごめんね、賢者様。かっこよくて優しいフィガロ先生にメロメロになるのは仕方ないけどさ」

 ふふ、と賢者が笑った。朝露に濡れた花がほころぶように、と詩人だったら形容するだろうか。意外な反応だった。泣いたらなんて慰めようかと手ごろな言葉を探していたから。手間が省けていいのだけれど。

「ふられたわりに嬉しそうだね」
「だって私がいなくなったら寂しいから、というのは私のことが好きじゃないと出てこない考えじゃないですか」
「……あー、うん、そうかな?」
「なんで疑問形なんですか。私には愛の告白に聞こえましたよ」

 さすがに思い上がりすぎですかね、と賢者は照れ笑いをした。傷つけようとして言ったのに、相手の反応がこれでは毒気も抜かれる。完全に予想外だ。

「君はポジティブだね。愛の告白ってもっと甘くて幸せなものなんじゃないの」
「その方が嬉しいですけど……すみません、私は自分の気持ちばかりであなたのことをちゃんと考えていなかった。だからフィガロにああいう風に言われるのは仕方がないんです。でも、あなたが思うよりずっとずっと私はあなたのこともこの世界のことも好きなんですよ」

 自信を持って告げるその表情に、思い出すものがあった。チレッタの笑顔――叱られてヘソを曲げたルチルに嫌いと言われても、大好きとこたえていた。それでいくと俺は幼い子供扱いされていることになるのだが。自分の連想に顔をしかめたくなる。

「元の世界には帰りたいと思います。家族がいるし、急にいなくなった私を心配しているでしょう。けれど、いざ帰れるとなったらきっと迷う。どっちを選んでも後悔する。自由に行き来できるようになれば一番なんですけどね。昔はそうしていた賢者もいたそうですし」
「どっちほしいなんて欲張りだね。両方手に入るなんてことはそうそうないよ」
「だとしても、私はほしいものに手を伸ばすのをやめたくないんです」

 魔力を持たない生き物が大それたことを言うものだ。賢者の瞳は夜空に浮かぶ月のように力強く輝いていた。臆せず手を伸ばすことができるのが、この子の魅力であることは間違いない。

「フィガロ、これからも私の月見酒……いや、酒じゃないから月見ジュースになるのかな。とにかく、私と一緒に飲みに付き合ってくれますか?」

 おどけた調子で言われて、つられて笑った。俺だって気まずくなってこれきりにはしたくなかったから、提案を拒む理由がない。胸に手を当てて恭しくこたえる。

「もちろん、いいさ。賢者様の夜を独り占めできるなんて光栄だ」