第7話 心を閉ざす魔法

 夏休み初日からシリウスは積極的に母親を怒らせ、罰として地下室に閉じ込められた。ブッラク家では定番のお仕置きだった。シリウスは幼い頃からやんちゃで悪戯好き、さらにホグワーツに入学する前から純血主義に反発していたから常連だ。
 アルタイルも一度閉じこめられたことがある。窓も暖炉もない、暗くて寒いあそこにはもう一度入りたいとは思わない。
 アルタイルは書斎にいる父を訪ねた。シリウスの減刑を嘆願しようという気はさらさらなく、リビングで母と争っていた時のシリウスの行動に気になる点があったからだ。

「父様、今お時間大丈夫でしょうか?」
「ああ、どうした?」

 オリオンが読んでいた本を閉じた。背の高い本棚に囲まれ、窓は小さく薄暗い。一人本の世界に閉じこもる父は近寄りがたい存在だった。

「先ほどシリウスが魔法を暴走させたように思うのですが……。シリウスが母様と言い争っていた時、棚の食器が割れたように聞こえました。ホグワーツに入学する前から怒って物を壊すことがありましたから、もしかしてと思ったのです。大丈夫なのでしょうか?」

 未成年の魔法使いは学校の外で魔法を使ってはいけない。法律で禁止されているのだ。夏休みに入る前、教師たちは口を酸っぱくして言い渡した。就学前の幼い魔法使いはともかく、学校で魔法を制御するすべを身につけたのだから(でなければ、もう一度一年生から学び直しだ)できなくては困る、と。破ると魔法省の役人が駆けつけ、退学処分になるらしい。

「問題ない。魔法省は今回のことを知らないからな」
「袖の下ですか」
「まさか!」

 アルタイルは本気で言ったのだが、オリオンは冗談を聞いたかのように笑った。

「魔法省は本当にシリウスが魔法を使ったことを知らないのだ。知るすべもないからな。魔法省はどこで魔法が使われたか感知できても、誰が使ったかわからない。成人魔法使いが二人住み、屋敷しもべ妖精が一匹いるこの家からは常に魔法が感知されているだろう」
「シリウスの魔法は父様や母様、クリーチャーの魔法にまぎれてわからないということですか」
「そういうことだ。大体これはマグル界で魔法を使った穢れた血を裁くための法だ。マグルに見せたところで魔法の崇高さを一欠片も理解できないだろうに。私たちには関係ない」
「それなら先生も最初から穢れた血にだけ言えばいいのではないのでしょうか? 父様も早く教えてくだされば、去年から魔法の練習ができたのですが」
「魔法使いの親にとっても、子供が休みの間に無茶な魔法を使って家を壊さないか気がかりなのだ」
「僕はそのようなことはしません」

 アルタイルはむきになって言い返した。呪文学で羽ペンを浮かせず誤って燃やしたり、魔法薬学で大鍋を溶かすような失敗はしたことがない。

「ああ、アルタイルならそうだろう」
「では、僕が魔法の練習をしても――?」
「シリウスには内緒だぞ。あいつは何するかわからないからな」

 アルタイルは真剣な顔でうなずいた。父の懸念は理解できる。シリウスが知ったら地下室を爆破して脱出しかねない。まだそこまで強力な魔法は使えないだろうが、絶対に試すはずだ。危険すぎる。

「そうだ、休みの間魔法の練習をするのなら私と閉心術の練習をしないか?」
「閉心術、ですか?」
「お前にはまだ早いかもしれないが、ブラック家を継ぐのだから覚えておいて損はない」
「やります! やりたいです!」

 アルタイルは顔を輝かせた。閉心術への興味より、父が魔法を教えてくれることが何よりも嬉しかった。

 

 

***

 地下室に閉じ込められたシリウスは一週間後に解放された。その日のうちにブラック一家はロンドンの本邸からカントリー・ハウスに移った。森の側にある豪邸で、見渡す限りの自然に囲まれた静かな場所だ。クィディッチ競技場が二つ入って余る広い庭は箒で飛び回るにはもってこいで、アルタイルは朝からレギュラスとスニッチを使ったミニゲームをしていた。
 玄関の前ではシリウスが青空に向かって叫んだ。

「これじゃジェームズの家に行けねえじゃねえか!」

 本邸なら家から出ればマグルの駅まで歩いていける。しかし、人里離れたここでは家出しても遭難するだけだ。シリウスは数年前に経験済みだった。煙突飛行の粉は親が厳重に保管している。手紙のやりとりまで禁止され、助けも呼べない。梟便はシリウスの元に届く前にクリーチャーが捨ててしまっていた。

「暇ならレギュラスの相手をしてくれないか? 交代だ」

 アルタイルはシリウスの隣に着地した。額にかいた汗を袖でぬぐう。

「なんで俺が」
「暇なんだろ?」
「そうだけどよ」

 空ではレギュラスが飛び足りない様子で、旋回からの宙返りをしていた。

「あいつまだ飛ぶ気か。飽きるってこと知らねえのかよ」
「誰かと飛ぶのは久しぶりだからな。この一年間シリウスも僕もいなかったんだから。――クリーチャー!」

 アルタイルの声にこたえて、クリーチャーが姿を現した。

「喉が渇いた。水を持ってきてくれないか?」
「かしこまりました」
「待て! お前、俺に来る手紙を全部かすめとっているだろ!? 返せ!」

 シリウスがクリーチャーの胸ぐらをつかんで乱暴にゆすった。すかさずレギュラスが全速力で急降下する。慌ててシリウスがクリーチャーから手を放し、レギュラスの体当たりを避けた。レギュラスは壁にぶつかる直前に箒を引き上げ、空中から見下ろした。

「クリーチャーをいじめるな!」
「いじめてねえよ! こいつが悪いんだ」
「シリウスが悪いんだろ。グリフィンドールなんかに入るからだ」
「くそ、この家にいる奴ら、誰一人話になんねえ。アルタイル、俺の代わりに手紙を出してくれ」
「断る。僕を巻きこむな」

 シリウスとレギュラスが言い争っている間に姿を消していたクリーチャーが、レモン水の入ったピッチャーとグラスを乗せたカートと一緒に戻ってきた。

「アルタイル様、旦那様がお呼びです」
「わかった」

 アルタイルはレモン水を一気に飲み干すと、箒をシリウスに押しつけた。

「俺は飛ぶなんて言ってねえぞ」
「シリウスが相手じゃ勝負にならないよ」
「言ったな。負けても知らねえぞ」

 レギュラスの挑発にシリウスが乗った。シリウスがグリフィンドールに入ったことで二人の仲は悪くなっていたが、こうして一緒に遊ぶことはある。暇には勝てなかった。
 書斎に行くと、父は机の上の水盆を見つめて待っていた。石でできた水盆にはルーン文字や記号が刻み込まれている。本の挿絵で見たことがあるような気がしたが、アルタイルはそれがどんな魔法道具か思い出せなかった。

「今日から閉心術の練習を始める」

 閉心術は心をこじ開け、記憶や思考を読み取る魔法――開心術――の対抗策として生まれた。どちらも鞄に物を詰める魔法や嫌いな相手にナメクジを吐かせる呪いに比べたら一般的なものではない。OWLを突破して、専門的に闇の魔術に対する防衛術を学ばない限りは触れる機会がないだろう。

「閉心術に呪文はない。全ての感情を消し、心を空にする、それだけだ。口で言うのは簡単だが難しいぞ」
「大丈夫です。やります」
「その意気だ。いくぞ――Legilimens」

 オリオンがアルタイルの目を真っ直ぐ見つめた。事前に父から渡された本には、開心術は目から心に入りこむと書かれてあった。
 父の灰色の目がぐるりと回る。いや、回っているのはアルタイルの視界の方だ。渦のようにぐるぐるとかき回され、心に沈んでいた記憶が浮かび上がり、映像となって目の前で広がった。
 白いカーテンの仕切り。ホグワーツの医務室で、熱を出したローズを見舞っている。映像が変わった。赤茶色のシートに座ったエリックがホグワーツ特急に文句を言っている。また映像が変わった。シリウスがスリザリンに入らなかったのは残念だ、とスリザリンの寮監のスラグホーン先生がこぼしている。シリウスの方が優秀だと誰かが言った。それが誰だったか認識する前に、矢継ぎ早に顔が変わって声が重なり合った。それくらい、幼い頃から聞いてきた言葉だった。
 濁流のように流れ出る記憶に溺れそうになりながら、父の言葉をにすがった。

"全ての感情を消し、心を空にする"

 惨めな感情が渦巻く状態では難しかったが、不意に視界が暗転し、映像が消えた。

「目を開けろ、アルタイル」

 言われて初めて自分が目を閉じていたことに気がついた。

「目を閉じて強制的に開心術を遮断しただけだ。閉心術ではない。まあ、初めてで倒れなかっただけ上出来だ。次いくぞ――Legilimens」

 記憶や感情を父に見られて恥ずかしいと言う間もなく、再び映像が視界に浮かび上がった。休む暇くらいくれてもいいのに、とわき上がった不満を強いて無視した。
 感情を消せ。
 レギュラスと箒でどっちが早く飛べるか競争している。この時、初めてレギュラスに負けたのだ。映像が変わった。コガネムシを綺麗なボタンに変身させて、マクゴナガル先生に褒められている。
 悔しさも喜びも何も感じるなと自分に命じた。その命令自体、心から次第に消えていった。
 冬のホグワーツの廊下。クリスマス休暇が終わった後、シリウスを見つけて声をかけようと近づいている。
 これ以上は見られたくない。両目をつむった。

「目を閉じるな」

 父から叱咤が飛んできた。
 もう開心術はとまっているのにまだ視界が揺れている。まるで箒に乗って何回連続高速宙返りできるかチャレンジした後のように気分が悪く、あの時と違いやり切った爽快感はない。

「いいか、心を閉ざしたことを相手に気づかれるようでは駄目だ。息をするのと同じように閉心術を使えるようになれ」
「はい、父様」

 父の目を見てこたえた瞬間、心に入り込まれた。呪文なしの不意打ちだ。くそ、やられた。いらついた気持ちをなんとか鎮めようとする。
 限界だった。映像が消えて、床の木目が視界を埋める。床に倒れこみ、荒く息をついていた。立て続けにいくつもの映像を見たせいで頭がくらくらした。

「普通は呪文を唱えて開心術を使う魔法使いはいない。開心術の達人は、魔術を使っていることを相手に悟らせないまま、相手の感情や嘘をついているかどうかを見抜く。それに対抗するにはこちらもいついかなる時でも開心術を使えるようにならなくてはならない」

 アルタイルは無理矢理立ち上がろうとしたが、立ちくらみを起こして座りこんだ。

「今日はここまでだな。この調子なら夏休み中には身につくだろう。ずいぶんやる気があるようだが、閉心術を習得して隠したい記憶でもあるのか?」
「……誰だって心を覗かれたくないと思います」
「それもそうだな」

 オリオンは机の上から封筒を取り上げ、アルタイルに渡した。

「ホグワーツから届いているぞ」

 学用品のリストだった。新しい教科書を買いに行かないといけない。

「三年から選択科目をとれるのだったな。何をとったんだ?」
「古代ルーン文字と占い学、それから魔法生物学です」

 本当はマグル学もとりたかったという気持ちは隠すべきことだった。親の期待を裏切るのはシリウスだけで十分だ。自分はブラック家にふさわしい魔法使いでいなければならない。感情を心の奥底に隠すことは慣れていたから、きっとすぐに閉心術を身につけられるだろう。