第13話 トロフィー磨き

 廊下で魔法を使うことも喧嘩をすることも校則違反だ。アルタイルとシリウスは、マクゴナガルの研究室に連れて行かれ、三十点の減点とお叱りを受けた。

「喧嘩の原因はなんなのですか?」
「むかついたから」
「シリウスに好き勝手言われるのに我慢できなかったからです、先生」

 シリウスに悪びれた様子はなく、アルタイルは隙あらば杖を抜きそうなくらい気が立っている。厳しさではホグワーツ随一のマクゴナガルの説教も、二人にはほとんど効いていなかった。これで大人しくなるのならシリウスはとっくにジェームズとの悪戯をやめているし、アルタイルにしてみれば怒った母親の方がずっと怖かった。

「そんなことで人に杖を向けていいと思っているのですか? ――なんです、その顔は。二人とも“いい”と思っているようですね」
「そんなことないです」
「いいえ。思っていません、先生」

 シリウスもアルタイルも馬鹿正直に“いい”と言うほど愚かではなかったが、二人の内心はお見通しだとばかりにマクゴナガルは厳格に告げた。

「アルタイルとシリウス・ブラック、あなたたちには後日処罰を受けてもらいます。しっかり反省するように」

 そしてアルタイルから先に寮に戻るように言った。同時に出て行けば廊下で再戦しかねないと思われているようだった。
 アルタイルはたかぶった気を落ち着けるために、あてもなく寒々とした校内を歩いた。窓の外は吹雪で白く染まっていた。指がかじかんできたころ、攻撃的な衝動が収まり寮に戻った。

「なんで負けてんだよ、勝てよ!」

 談話室のソファに座っていたエリックが、アルタイルを見るなり言った。すでにアルタイルとシリウスの兄弟喧嘩のことは広まっているようだ。

「無茶を言うなエリック、経験は向こうの方が上だ」
「シリウスは調子に乗ると動きが大振りになるからそこをつけばいいのよ」

 ウィリアムとローズはクィディッチの試合について語るような口ぶりだ。

「決闘が娯楽になるローマかここは」

 アルタイルがぼやいた。魔女狩りで魔法使いとマグルの世界が決定的に分かれる前の時代にそういう文化があったらしい。
 ウィリアムがにやりと、ローズがくすりと笑った。

「わかっているなら次は大広間でやってくれよ。娯楽が足りないんだからさ」
「春までクィディッチの試合はないんだもの」

 エリックにはローマのたとえがピンときていないようだった。
 アルタイルがスリザリンから三十点も減らしても誰も文句を言わなかった。宿敵グリフィンドールはシリウスとジェームズの悪戯で日頃から点を減らしていて、寮対抗杯の現在の順位は最下位だ。スリザリンは今回の減点で首位から二位に落ちたが、まだ十分挽回可能である。
 レギュラスが心配そうにアルタイルの顔をのぞきこんだ。

「何があったの?」
「いつも通りだ。ただ今回は僕がシリウスの言葉を聞き流せなかっただけ」

 アルタイルは肩をすくめてみせた。
 もしシリウスみたいに家に反抗して、アンドロメダのように家から出て行ったら、残されたレギュラスはどうなるのだろう。親の期待も家の重責もすべてレギュラス一人にのしかかるなんてことはさせられない。
 親や家のことが重苦しく感じられる時があっても、堪えてこられたのは兄弟がいたからだ。父と母が喧嘩した時は、三人で肩を寄せ合って嵐が過ぎるのを待つように過ごした。もし一人っ子だったらなんて想像したくもない。レギュラスを残して出て行くなんてアルタイルには無理だ。
 シリウスの言葉が頭をよぎる。

『親の間違いをほっといて、自分までその間違いに付き合うのかよ。本当に馬鹿だ』

 思い出しただけでまたむかついてきたので、アルタイルは急いで別なことを考えた。

「……そういえば罰則なんて初めてだな」

 優等生のアルタイルには縁がないことだった。

 

 

***

 初めての罰則はトロフィー磨きだった。

「まったく生温いねえ。そう思うだろ、ノリス? 喧嘩をするような生徒にぴったりのお仕置きがあるのに……。窓も明かりもない小さな部屋に一週間、閉じ込めておけばいいんだ。完全な暗闇に一人きり、幻覚と幻聴に襲われ、うわごとを言い始めるのがそれはそれは楽しいのにねえ」

 管理人のフィルチが、飼い猫のミセス・ノリスに話しかけている。アルタイルは、母様が聞いたらシリウスにやりそうだなと思った。

「魔法を使わずに全て一点の曇りもなくきれいに磨くんだ」

 棚は歴代の生徒たちの功績を讃えるトロフィーや盾でうまっている。その数は魔法を使ってもなかなかの重労働だ。フィルチが突き出したバケツを見て、アルタイルは真顔で訊いた。

「どうやって磨けばいいのですか?」
「これだから純血は! 掃除すらろくにできんのか!」

 フィルチが憎々しげに言った。噂では魔法を使えないスクイブらしい。アルタイルは本当に掃除の仕方を知らなかったのだが、フィルチには皮肉に感じられたようだった。掃除は全て屋敷しもべ妖精に任せているので、魔法薬学で使う大鍋くらいしか洗ったことがない。
 フィルチの指示の下、アルタイルはトロフィーにクリームを塗り布でこすり、布が汚れたらバケツに張った水で洗った。クリームの量が多すぎる、絞り方が甘い、と逐一ダメ出しをされる。しばらくすると監視していたフィルチが去った。こんな手際では日が暮れても終わらん、と最後まで小言を言うのを忘れなかった。
 アルタイルは魔法でバケツの水をお湯に変えた。真冬の水で洗っていたため手の感覚がなくなっていた。魔法を使わずに磨けと言われたが、魔法を使って温めるな、とは言われていない。お湯が汚れているのも構わず、アルタイルは手をバケツに入れて一息ついた。急に温まったせいで、じんじんと痺れてかゆみも生じたが気にならなかった。

「手伝うわよ?」

 女子生徒が入ってきた。手入れの行き届いた長い髪を華美なレースのリボンで結っている。マクゴナガルに何度も注意されても自分の信じるファッションを貫いていた。小さな鼻がエリックに似ているが、エリックがパグ顔ならこちらはペルシャ猫といった雰囲気だ。
 エリックの姉ジュリア・パーキンソンが杖を取り出そうとするのを、アルタイルはとめた。

「遠慮する」
「真面目ねえ。サボっているように見えたんだけど」
「休憩中だったんだ」

 お嬢様育ちのジュリアに掃除ができるとは思えなかった。アルタイルはお湯から手を出して、トロフィー磨きを再開した。

「ブラック家の跡取りがマグルみたいに掃除しているなんて、なかなかみられるものじゃないわ。ねえ、なんでシリウスと喧嘩したの?」
「ただの兄弟喧嘩だ」
「ふうん、秘密なの? 教えてくれてもいいじゃない。それともなあに? 負けていじけているの?」
「なんでそうなるんだ」
「うふふ、図星?」

 ジュリアはころころと笑った。見た目は全然違うのに、どこかベラトリックスと似ていている。そのせいかアルタイルはジュリアと話す時、少し身構えてしまう。

「私は好きよ、アルタイルのこと」
「ルシウス狙いじゃなかったのか?」
「彼にはナルシッサがいるでしょう」

 ジュリアはあっさりと鞍替えを肯定した。

「アンドロメダが駆け落ちして、正直嬉しいのよ。アルタイルには悪いけどね。だって私にもあなたと結婚できるチャンスがきたんだもの」
「ブラック家の夫人の座はそんなに魅力的か」
「もちろん! 玉の輿じゃない」

 欲望を隠さないところは、アルタイルにとって付き合いやすくはあった。今までも女性から好意を告げられたことはあったが、アルタイルへの愛情ではなく、資産や家名に魅かれてのことだった。閉心術を身につけてからは、よけいに愛の言葉と打算に満ちた心の乖離がわかるようになった。ジュリアの目には清々しいほど嘘の欠片もなかった。

「それに、あなたのことも悪く思っていないもの。その仏頂面もめんどくさい性格も嫌いじゃないわよ」

 以前なら、自分に取り入るためだろうと聞き流していた言葉だ。だが、閉心術が使える今、嘘ではないとわかって動揺した。アルタイルはトロフィーを落としかけた。

「あら、照れた?」
「めんどくさいって……」

 ジュリアはくすりと笑って出て行った。

「それって褒めてないよなあ……」

 アルタイルの呟きがぽつんと宙に取り残された。複雑な気持ちだったが悪い気はしなかった。
 ジュリアと入れ違いに入ってきたノリスが、アルタイルを監視する位置で座りこみ、早く磨けというように尻尾で床を叩いた。