第18話 空の高さ

 新学期が始まって二週間が過ぎた。アルタイルはアニメーガスの本を持って廊下を歩いていた。夏休み前にマグゴナガル先生から借りた物だ。一度読んだだけでは理解できず、繰り返しページをめくり、気になる部分は書き写した。
 変身術は得意だし、好きだった。初めてホグワーツで授業を受けた日、教室に入ると教卓の上に縞猫が姿勢良く座っていた。授業が始まる時間になると猫はマクゴナガルに姿を変え、新入生を驚かせた。あの時の胸が躍る気持ち。自分もいつかと憧れたのだ。
 教室の前で、錆猫とオレンジ色の猫が互いに毛を逆立て威嚇し合っている。上級生と新入生の飼い猫の縄張り争いだろう。ホグワーツでは珍しくない光景だが、アルタイルは足を止めた。曲線を描く背中の線や後肢を観察し、変身術で再現するならと考える。
 錆猫の鋭いパンチが相手の鼻面に決まオレンジの猫が逃げて行く。見事な一撃にアルタイルが感心していると、錆猫は今度はお前が相手かというように見上げた。そんなつもりはないのだ、とアルタイルはマグゴナガルの研究室に向かった。
 研究室のドアをノックすると、すぐに先生が出てきた。

「失礼します。本を返しに来ました」
「入りなさい、ブラック」

 マグゴナガルが杖を振ると、ティーセットが宙に浮いて茶葉の量やお湯の温度を几帳面に計り出した。椅子がぴょんっと飛び退き、アルタイルに座るよう促す。
 本の内容で質問したいことがあると約束していた。一つひとつに先生は面倒がらずに答えた。マクゴナガルは厳しい性格から一部の生徒には敬遠されているが、惜しみなく知識を与えてくれる人だとアルタイルは知っている。

「何に変身するか決めましたか?」
「いいえ、まだです。簡単なのは鼠や虫等の小動物ですが……」
「そして一番隠れた人気が高い」

 魔法省に登録しているアニメーガスは十人にも満たないが、実際はその数倍いるだろう。虎や狼のように鋭い爪や牙を持つ動物に変身して武功を立てた魔法使いはいなくはないし、狐に化てマグルをからかった魔法使いの逸話だって残っている。しかし、アニメーガスが最も使われるのは諜報活動だった。小さな生き物は人目につきにくく、さらに家の中にいても誰も気に留めないものとなれば不法侵入は簡単だ。
 もちろんアルタイルに悪用する気はまったくない。もしあったとしても、先生に聞きに来るほど図太くない。シリウスがアニメーガスに興味を持ったのが気にかかるが、まあ小さな生き物はダサいといって選ばないだろう。

「僕はもっと大きな動物がいいですね。犬とか、先生のような猫も心惹かれます。動物図鑑を見ているのですが、全然決められません」

 どの動物に決めても困らないように、校内にいる動物を観察する癖がついてしまった。魔法生物学の授業にもいつも以上に熱心に参加している。変身する時に耳の位置や蹄の先が割れているのかどうかわからないようでは、その動物になれないからだ。

「しっかり悩んでから決めるんですよ」

 マクゴナガルが微笑んだ。いつも険しい表情をしている先生の貴重な笑顔だった。

 

 

***

 十月になると風は冷たくなっていたが、クィディッチ競技場は熱気に包まれていた。観戦席の最前列にいるアルタイルは、落ち着かない気持ちで試合が始まるのを待っていた。今日はスリザリン対グリフィンドール、レギュラスのデビュー戦だ。
 選手たちがフィールドに入場する。レギュラスはスリザリンのチームカラーである緑のローブに身を包んでいた。ポジションは勝負を左右する花形のシーカーだ。
 実況を担うハッフルパフ生の声が朗々と響く。

「グリフィンドールのシーカーは皆さんご存知、昨年度チームを優勝に導いたジェームズ・ポッターです!」

 グリフィンドールの応援席から熱狂的な歓声が上がった。

「対するブラック選手はなんと――ポッター選手に宣戦布告をしました! まだブラック選手が一年生で選手になっていない時です。貴様を地面に落としてやる、と九と四分の三番線のみんなの前で宣言したのです。勝つのは昨年の英雄か期待の新人か!? この試合、目が離せません!」

 実況はどこから聞きつけたのだろう。確かに夏の帰省の際にレギュラスは宣戦布告をしたが周り注目を集めていただろうか、というかそこまで言っていないような、とアルタイルは首を傾げた。
 双眼鏡を覗きながらローズが言う。

「レギュラス緊張してない? 大丈夫かしら」
「あいつなら平気だ」

 フィールドにいる弟は硬い表情しているが、集中しているからだろう。アルタイルは固く拳を握りしめた。手のひらに汗をかいている。自分が試合に出るわけではないのに緊張していた。
 審判のフーチ先生がボールを空に投げた。選手たちが一斉に飛び上がる。試合が始まった。レギュラスの飛びっぷりは堂に入った見事なものだった。暴れ回るブラッジャーを軽々と避けている。

「ほら、レギュラスなら平気だって言っただろう!」

 アルタイル珍しく大声で言った。エリックがからかうように笑った。

「お兄様が一番心配してたなあ」
「うるさい。試合を見ろ」

 試合は互いに譲らない攻防が続いた。
 上空でスニッチを探して旋回していたレギュラスが、急に進路を変えた。その先には金色の輝きが飛んでいる。

「スニッチだ! ブラック選手が見つけました!」

 実況が叫んだ。観衆の注目が一気にレギュラスに向いた。ジェームズがレギュラスの後を追って加速し、間にあった差をみるみる詰めていく。

「ああ! ブラック選手、ポッター選手に追い抜かれた!」

 スリザリンの応援席の前を二人のシーカーが飛び抜けた。アルタイルの目に一瞬見えたレギュラスの表現は、歯をくいしばり苦しそうだ。しかし口角は不敵に吊り上がり、目は爛々と輝いている。頬をつたう汗が日にきらめいていた。

「レギュラス、楽しそうだ」

 こんなに楽しそうな弟を見たのは久しぶりかもしれない。アルタイルも夏休みの間にレギュラスと飛ぶことはあったが、自分が相手では物足りなかったのがよくわかる。

「いけ! レギュラス飛ばせ! いけ! いけ!」

 ウィリアムが拳を振り回して叫んでいる。エリックも言葉にならない叫びを上げていた。スリザリンの席からレギュラスコールが湧き上がっていた。

「ほら! ポッターに追いついてきたわよ!」

 ローズがその細腕から信じられない力で、アルタイルの肩を叩いた。
 ジェームズとレギュラスがほぼ同時に急降下した。獲物を見つけた鷹のように迷いのない動きだ。
 あんな風に飛べたら、とアルタイルは羨ましく思った。あんな風にレギュラスと一緒に飛べたら楽しいんだろうな。
 決めた――鳥にしよう。

「行け! レギュラス!」

 アルタイルが叫んだ。
 シーカーたちはスピードを落とし切れないまま地面に着陸した。衝撃をやわらげるため箒を手放し芝の上を転がる。
 アルタイルは固唾をのんでレギュラスが起き上がるのを待った。
 先に動いたのはジェームズだった。眼鏡が鼻先にずり落ち、髪には芝の葉をくっつけたまま、天に向けて拳を突き上げた。手の中で黄金のスニッチが翅を羽ばたかせてもがいている。
 試合が終わった。
 アルタイルは人混みをかき分けて、一直線にフィールドに駆け下りた。向かいのグリフィンドール側からシリウスが降りてくるのが目に入った。兄弟はそれぞれレギュラスとジェームズの所へ行った。

「レギュラス、惜しかったな」

 レギュラスは空を睨みつけていた。目の縁に涙がたまっている。泣くまいと必死に堪えていた。

「次こそ勝ちます」
「まだまだ強くなるよ、レギュラスは」

 アルタイルはレギュラスの肩を叩いた。