第19話 冬の前触れ

 ホグズミート村にあるパブ、三本の箒はホグワーツ生で賑わっていた。学校では飲めないバタービールを楽しむ者もいれば、店主のロスメルタに見惚れる者もいる。それぞれ貴重な外出日を満喫していた。
  アルタイルは店内の端にある大きな丸テーブルに着いていた。隣にはエリックとウィリアムがいる。他にもスリザリンの男子学生が集まっており、上は七年生、一番下はホグズミードに行けるようになったばかりの三年生のセブルスとマルシベールだった。
 彼らを呼び出したのは、卒業生のルシウスとロドルファス・レストレンジだ。卒業生との交流は身内意識が強いスリザリンでは珍しくなく、就職の口利きをすることもある。
 飲み物が運ばれてくるまで、互いの近状を知らせ合った。二人と家同士の関係がある アルタイルは聞き役に回った。
 店員が学生たちの前にバタービールを置いた。甘い香りが鼻口をくすぐる。

「カフェロワイヤルを頼んだ方」
「私だ」

 ロドルファスがこたえた時、 アルタイルは思わず二度見した。確かコーヒーは好きでなかったはずだ。視線がかち合うと、ロドルファスは意味深に唇をかすかに動かして笑みを形作った。
 息が詰まるほどの威圧感。とっさに アルタイルは視線を落とし、バタービールの泡を見つめた。
 あれは誰だ?
 ロドルファスはあのような表情はしない。違和感は確信に変わった。思い返せば、雑談の間ロドルファスが無口だったのは成りすましているとバレないようにだろう。一体誰が何のために――。
 再び視線を上げるために少しばかり勇気を奮い立たせる必要があった。まるでキメラやグリムに遭遇したように不吉な予感に襲われていた。
 ロドルファスがカップの上に橋を架けるように置かれていたスプーンを手にとった。角砂糖を一つ乗せ、杖を振って砂糖に火をつけた。鮮やかな青い魔法の火に、自然とスリザリン生たちの注目が集まった。ロドルファスは杖をさらに一振りした。

「これで誰にも私たちの話は盗み聞きできない」

 ロドルファスの姿をした誰かが言った。もう隠す気はないのだろう。
  アルタイルがルシウスを横目で伺うと、姿勢を正しまるで目上の者に対するかのような殊勝な態度をとっている。

「私がレストレンジではないことに気づいた者がいるようだな。私が誰かわかるか?」

 視線が アルタイルに向けられた。大蛇に狙いをつけられた蛙になった気分だった。すっかり慣れた閉心術だったが、注意深く意識して使った。蛇が目を通して内側に入りこまないように。
 問いかけをするということは、 アルタイルが知っている人物なのだろう。だが、このような威圧感のある人に会ったことがない。忘れたくても忘れられないはずだ。ならば、名前だけ知っている人物なのだろう。ロドルファスの姿をしているのは、きっと身を隠す必要があるから。それは自分たちに対してか、それともこの店にいる他の客から隠れるためなのか。そして、ルシウスが敬う相手は限られている。まさか、と アルタイルの頭にある人物の名前が浮かんだ。

「……いいえ、皆目見当がつきません」

 嘘をついた。名前を口にしようとすると、喉が引き攣れたように震えて声にならなかった。名を呼ぶのすら恐ろしい。
 ロドルファスの姿をした誰かは喉の奥で笑った。

「期待しすぎたか。わかる奴はいるか?」

 顎を上げて、高圧的にテーブルの面々を見回す。返ってきたのは沈黙だった。戸惑う様を楽しんでいるのか、彼は機嫌良く続けた。

「ルシウス、教えてやれ」
「はい、我が君。このお方は……ヴォルデモート卿だ」

 ルシウスが囁くように言った。許可があるとはいえ、恐れ多いようだ。
 ああ、やっぱり、と アルタイルは静かに受け入れたが、目を見開いて驚いたふりをした。

「そんなお方がなぜここに?」

 皆の疑問を代弁してエリックがきいた。身を乗り出して、英雄を目にしたように憧れの眼差しを向けていた。他の生徒も似たり寄ったりの反応だ。

「私と共に魔法界を穢れた血から取り戻す者を探しに来たのだ。ルシウスには見所のあるものを集めるよう言っていた」
「それはつまり、私たちも死喰い人になれるということでしょうか?」
「そうだ」

  アルタイルの背筋が冷えた。死喰い人になってすることは人殺しだ。犯罪に加担せよ、と闇の帝王は言っていた。だというのに、エリックとウィリアムは嬉しそうに笑顔で目配せし合っている。どうしてテーブルが歓喜の空気に包まれているのか、 アルタイルは純血の一族に生まれ育った魔法使いとして理解はしているが、感情は別だった。
 すぐに我こそはと手を挙げる者はいなかった。ならば、流れが賛成一色になる前が行動の時だ。まだ迷っている生徒がつられて断れるように。
 口の中が乾いていたが、バタービールを飲む気にはならなかった。 アルタイルは手を上げて闇の帝王の注意を引いてから切り出した。

「 アルタイル・ブラックと申します。この度はお誘い頂き身に余る光栄でごいます。ですが……恐れながら、私に務まるとは到底思えません。恥ずかしながら、血を裏切る身内すらどうすることもできないのです。死喰い人になったところで役立たずでしょう。戦闘も苦手でして、自分が怪我をするのはまだしも、足を引っ張るのだけは堪えられません」
「そういえばシリウスに負けてたな」

 ルシウスは昨年度の喧嘩を思い出したようだ。
 あの頃は自分の弱さを利用できる日が来るとは思いもしなかった。
 闇の帝王の表情からは何の感情も読みとれない。不安に駆られた アルタイルはさらに続けた。

「資金の提供ならできます。あなた様のお力になることは死喰い人になるだけではないはずです」
「それを決めるのは私だ」

 闇の帝王は鋭く退けた。

「ブラックとあろう者がなんと嘆かわしい。先祖が泣くぞ」
「私はあなた様が思っているよりずっと臆病で、死にたくたいのです」

 死喰い人と闇祓いの戦いが日刊預言者新聞の一面に載る日が増えている。以前は死者が出れば大事件だったのに、次第に人が死ぬのが当たり前になっていた。

「死を恐れるか」

 闇の帝王は鼻で笑った。vol de mort――flying of death、フランス語で死の飛翔を意味する名を名乗る男にとって、死の恐怖は些細なものなのだろう。
 殺人犯が店内にいるのに、他の客は誰も気づいていない。このテーブルだけが別世界にあるかのようだ。隣のテーブルでは、好きな人にどうアプローチをしようという会話がされていて、 アルタイルは自分との差に気が遠くなるような感覚に襲われた。

「ブラックは腰抜けだ」

 闇の帝王が嘲笑うと、他の生徒たちも笑った。反発心が湧き上がったが、挑発に乗るのはただの蛮勇だと理性が押しとどめた。

「僕はあなた様と戦います」

 マルシベールを皮切りに、次々と生徒たちは闇の帝王の下につくと宣言しだした。その中にはセブルスもいた。

「ああ、ルシウスから聞いているぞ。闇の魔術に詳しく、魔法薬も得意だと」
「いえ、そんなことは……」
「謙遜せずともよい」
「はい」

 セブルスの土気色の肌の血色が良くなり、控えめな笑みがこぼれた。
 エバンスはどうしたんだ、と アルタイルは心の中で呟いた。セブルスが優しいのはマグル生まれの中でも彼女だけとはいえ、唯一の特別は今日のことを知ったらどう思うのだろう。

「こんなに集まって私は嬉しい。ああ、一人違うが無理強いはすまい」

 笑い声が起こった。ルシウスは冷ややかな一瞥をくれ、エリックはおまえという奴はと言わんばかりに親しみのこもった呆れ顔で肩を小さくすくめた。ウィリアムは唇を固く結び、険しい表情をしている。
 自ら無能な臆病者になったとはいえ、嘲笑は屈辱的だった。奥歯を噛み締め、泡の消えたバタービールの水面を睨みつける。苛立ちは闇の帝王にも同寮生にも自分自身にも向けられた。ホグワーツは世間と無縁だといつから思いこんでいたのだろう。闇の帝王は着実に勢力を延ばしている。
 闇の帝王は アルタイルよりも遥かに人の心を動かす術を知っていた。セブルスを褒めて混血でも評価すると示し、 アルタイルを無理に引き入れず貶め、進んで死喰い人になる者に優越感を抱かせる。古い歴史を持つ家の魔法使いというだけで、純血主義の中では アルタイル・ブラックの価値は高い。だが、この場では血統よりも死喰い人になることの方が価値が高かった。
 結局、飲み物に口をつけないまま集会が終わった。バタービールとブランデーの香りが鼻の奥に残っていて、飲んだような気分だった。帰ったら水で喉を潤したい。
 店を出たスリザリン生たちは興奮冷めやらぬ様子で「すごかったな」「ああ」と口々に言い合っている。具体的に何がすごいが言えなかったが、秘密を共有しているということも彼らを浮つかせる要因なのだろう。
  アルタイルは連帯感を強める彼らと少し距離を置いて歩いた。足元で枯葉が乾いた音を立てる。冬はもうすぐだ。