第25話 鏡の水面邸

 ロンドンのブラック邸の居間で、アルタイルが暖炉の前に立っていた。夏の暑い盛りだというのに、暖炉には火がついている。

「アルタイル様、どうぞ」

 クリーチャーが恭しく、口を開けた袋を差し出した。中にはキラキラと輝く粉が入っている。アルタイルは粉をひとつかみ炎に投げ入れると、自分も暖炉の中に入って行った。

「鏡の水面邸!」

 行き先を告げれば、体が引っ張られる感覚の後、暖炉から吐き出されるようにして到着した。木造の狭い――といってもブラック邸と比べてであり、一般的には広い――部屋だった。窓の外には濃い緑の木々が広がっている。続いてシリウスとレギュラスが暖炉から出てきた。
 両腕を広げて叔父のアルファードが歓迎した。

「ようこそ我が家へ」
「ミザリーは坊ちゃんたちをお待ちしていらっしゃいました」

 アルファードの足元で、耳に白絹のリボンをつけた屋敷しもべ妖精が深々とお辞儀をした。パチン、と指を鳴らし魔法でアルタイルたちの服についた灰をはらう。
 シリウスが物珍しそうに部屋を見回した。アルファードがこの家に引っ越してきてから3人が来るのは初めてだった。

「前の家ならマグルの街に遊びに行けたのに。……おい、そんな睨むなよレギュラス。アルタイルだって行くだろ」

 シリウスがにやにやと笑いながらアルタイルの肩に手を回した。叔父が以前暮らしていた家はダイアゴン横丁にあり、親の目を盗んでマグル界に行くには丁度よかったのだ。
 アルタイルはシリウスの手を払いのけた。シリウスの背がもうすぐ自分に追いつきそうで危機感を覚えた。

「僕が行くわけないだろ」
「ここにババアはいないんだから素直になっていいんだぞ」
「アルタイルを悪の道に誘うな、シリウス」

 レギュラスが警戒した様子で、アルタイルの隣に立った。過保護な態度がアルタイルには少しくすぐったい。

「そんなに心配しなくても僕はシリウスについて行ったりしないさ」

 レギュラスは疑わしそうな目でアルタイルを見上げた。

「そう言われても今のアルタイルには説得力がないんだけど」
「そんなことっ……いや、あるのか……」

 アルタイルが闇の帝王の誘いを断ったことが尾を引いていた。
 シリウスが声を上げて笑った。

「だからアルタイルはこっち側だって!」

 アルタイルが母親に反抗したことはシリウスも気づいている。あからさまに母親がアルタイルに冷たい態度をとれば察しがつくというものだ。闇の帝王のやり方についていけないと漏らしたからだ、とアルタイルはシリウスに説明した。闇の帝王に直接会ったことも死喰い人のことも言わなかった。エリックやウィリアムたちが関わっているのがばれて、友人たちが逮捕されるのは嫌だった。

「ははっ! 相変わらず仲がいいな」

 アルファードが吠えるような豪快な笑い声を上げた。

「残念だけどお前たちをマグルの街には連れて行ってやれないな」
「なんで引っ越したんだよ」

 シリウスはまだ不満顔だ。

「ジジイになると田舎へ隠居したくなるもんだ」

 本当にそうだろうか、とアルタイルは引っかかるものを感じた。叔父はあんなに頬がこけていただろうか。アルタイルがアルファードの目をよく見ようとすると、ウィンクが返ってきた。開心術で覗こうとするなとたしなめられたようで、バツが悪い。
 どうしたのかとシリウスとレギュラスが尋ねる前に、アルファードは言った。

「見せたいものがある。街に行くより面白いかもしれないぞ。ヴァルブルガとオリオンには内緒だ、いいな?」

 アルファードの顔に、悪戯を企むシリウスが浮かべる笑みと同じものが浮かんだ。今までに叔父が内緒だと言ってくれたものは、バーティー・ボッツ百味ビーンズから低俗な雑誌まで様々だが、どれも母の嫌うものだ。

「レギュラスは見るなよ。ババアの言いつけがあるんだろ」
「こらこら、仲間はずれはよくないぞ。レギュラスもついて来い」

 アルファードが外に出た。屋敷のそばには、穏やかな流れの澄んだ川があり、屋敷の名前の由来がここから来ているのがわかる。春になれば水仙が咲き誇り、見事な眺めになるだろう。
 ティラリラ、とアルファードが機嫌良く歌いながら小屋の戸を開けた。魔法使いの小屋にはあるはずがない物がそこにはあった。

「バイクだ……!」

 シリウスが目を輝かせて、食い入るように見つめた。

「乗るか?」
「いいのか!? やった!」
「魔法をかけて空を飛べるようにしてある。マグルはどうして飛べるようにしないのか理解に苦しむよ。飛行機があるのだからできないわけじゃないのだろうに」
「さすがアルファード! 最高だ!」

 シリウスとアルファードがバイクに近づいた。アルファードが乗り方の説明をするのを、好奇心に負けたアルタイルは2人の後ろから聞いていた。

「僕は箒の方がいい。その、バイク? ってやつはなんの意思も持っていないじゃないか」
「はあ? 何言ってんだ」

 シリウスが怪訝な顔で振り向いた。レギュラスがため息をついた。

「シリウスは道具の意思を尊重すべきだよ。だから箒を乗りこなせないんだ。杖はそんなシリウスでもいいって言っているかもしれないけど」
「だからなんの話だ」
「アルタイルならわかるよね」
「……魔法使いが杖を選ぶんじゃない、杖が魔法使いを選ぶ。そういうことか? 箒だって1本1本性格があって、魔法使いの言うことを大人しく聞くものそうじゃないのもある。でもそのバイクは違う。乗る人を選ばないんだ」
「わがまま言わないからバイクの方がいいだろ。ホグワーツの箒みたいに勝手に右に曲がろうとするやつは乗りにくい」
「箒とどっちがいいかは、乗ってから決めても遅くはないだろう?」

 アルファードがレギュラスの肩に手を置いた。レギュラスは不満そうな顔を隠さなかったが、大好きな叔父の言うことをだからかそれ以上は否定しなかった。
 一通り説明を受けた後、アルタイルはバイクに乗って空を飛んだ。座り心地は箒より安定感があっていいが、エジソンだかエンジンだったかの内臓を揺さぶる振動や小回りのきかなさがもどかしい。アルタイルは箒の方がいいと思ったが、シリウスは大層気に入ったようだ。
 アルタイルは雲ひとつない空を見上げた。今はシリウスがバイクに乗っている。その後ろにアルファードに説得されたレギュラスがしがみつき、地上にはアルタイルとアルファードが残されていた。

「なあアルタイル、これだけは見過ごすないから言うが、開心術は無闇に使うものじゃないぞ」

 やはりばれていた。素直に謝ったアルタイルは、「でも」と言葉を続けた。両親がいない場では叔父への言葉遣いは砕けたものになる。

「本当の理由を教えてくれてもいいんじゃないの? 例えば病気の療養のためとか」
「まいったな。私だって閉心術の心得はあるんだが」
「いや、前に会った時よりやつれていたから」
「そっちか」

 アルファードは苦笑した。病気は治療の難しいものらしい。長生きはできないだろう。
 だから母はアルタイルたちだけで泊まりに行くのを許したのだろう、アルタイルは思った。いつもアルファードは息子たちに悪影響だと言ってはばからないのに、意外にももう長くはない身内への同情心があったらしい。

「シリウスとレギュラスは気づいているのか?」
「たぶんまだだと思う。シリウスはこういう時に黙っているとは思えないし」
「2人には言うなよ。余計な心配はかけたくない」
「わかった」

 パチン、と音を立てて屋敷しもべ妖精のミザリーが現れた。体を折るように深くお辞儀する。

「旦那様、坊っちゃま方、ご飯の御支度が終わりましたでございます」

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、日の長いイギリスの夏がさらに時間の感覚を忘れさせる。アルタイルは大声でシリウスとレギュラスの名前を呼んで、空に向かって手を振った。